第43話:灰色の結晶
目を閉じていた瞼を、ようやくこじ開ける。
世界は灰色の霞んだ斑点として映った。
白い床は、煤と鋭利な破片が混ざり合う汚れた残骸へと変わっていた。
かつてエネルギーを運んでいた黄金の脈動は、今や石に刻まれた黒く焼け焦げた溝と化していた。
うつ伏せのまま、右腕で身体を起こそうとした。
――何事も起きなかった。
激痛すらも感じない。感覚そのものが、一切なかった。
首を巡らせ、肩を見た。
右腕は、蜘蛛の巣のような亀裂に覆われた、焼け焦げた灰色の結晶の残骸と化していた。
そこから、刺激臭を放つ煙が立ち上っている。
『……エラー……再起動……』
ゼノの声が、脳内でエコーのように響く。
【システムステータス:致命的な劣化】
【警告:右マニピュレーター、完全非アクティブ化】
【エネルギー:0.6%】
「アイロン……息をしろ、このクソ野郎!」
誰かが荒々しく俺を仰向けにひっくり返した。
「静的障壁が死んだ」
喉を鳴らすような声で、奴が俺の襟首を掴む。
「扉は解錠された。逃げるぞ」
奴は俺を持ち上げようとする。
重くはないはずだが、傷ついた老人にとって、俺は重荷でしかない。
身動き一つするたびに、肋骨が乾いた音を立てて軋む。
「俺を置いていけ……」
口の中は、血と埃で一杯だった。
「黙れ。こんな滅菌された穴の中で見捨てるために、湿地帯を越えてここまで連れてきたわけじゃねえ。俺の首に捕まれ。左手でだ!」
エフレムが、俺の左腕を自分の肩に回した。
頭上で魔導ランプが次々と弾け飛び、破片が降り注ぐ。
通路のどこかで警報が吠えた。
「聞こえるか?」
エフレムが出入り口で立ち止まる。
「あと3分以内に突破できなきゃ、俺たちはこのセクターに永遠に閉じ込められることになる」
たどり着いた長い廊下には、書類や家具の残骸、そして……死体が散乱していた。
「見るな」
エフレムが囁き、歩調を速める。
最初の十字路。
頭上で、重厚な鉄の遮断板が低い唸りを上げて降りてきていた。
手のひらほどの厚みがあるプレートが、無慈悲な速度で迫っている。
「間に合わない……」
エフレムが呻く。足が震えている。
俺は遮断板を見上げた。
頭の中に、自然と回路図が浮かび上がる。
「エフレム……右だ」
左手で指し示す。
「窪みに緊急停止レバーがある。赤いやつだ」
奴は俺を窪みまで引きずった。
レバーはガラスドームの下にあった。エフレムが肘で砕き、レバーを叩き下ろす。
金属が悲鳴を上げる。
プレートは床から50センチのところで停止した。
ケーブルが弦のように張り詰め、今にも切れそうだ。
「這え!」
エフレムが俺を障害物の下へ突き飛ばした。
冷たい金属で肌を削りながら、反対側へ転がり出る。
右腕がプレートの縁に引っかかった。
腕が引きちぎれるかと思った。……正直、それでも構わなかった。
だが、エフレムが罵声を浴びせながら腕を押し込み、自身も潜り抜けてきた。
コンマ数秒後、背後で耳を聾するような轟音が響いた。
ケーブルが弾け、数トンのプレートが完全に閉ざされた。
「ここはどこだ?」
意識が遠のきながら尋ねる。
「技術セクター『ベータ』。保管・廃棄施設だ」
エフレムが影を走査する。
「古い地図が正しければ、ここに換気塔への出口があるはずだ。そこから『釜』に繋がっている」
カチッ……。
カチッ……。
カチッ……。
重く、規則的な音。
まるで金床を打つハンマーのようなリズム。
「……勘弁してくれよ、少しは休ませろ」
悪態をつく。
「クソ」
エフレムが呟く。
「リヒターが戻ってきやがった」
「はあ? またあいつか? どうやってここまで……」
怒りがこみ上げる。
「どうでもいい。ここで死なない方法を考えろ」
廊下の奥を睨む。
「そうだ。廃棄物の排出口はどこだ?」
「角を曲がった先だ。だが、30メートルは落下するぞ」
ポケットの中、小屋から盗んだ銅線の切れ端を確かめる。
通路が狭くなる。
天井が低くなる。
突き当たったのは、床に空いた巨大な円形の穴。
底から冷気と腐敗の臭気が漂ってくる。
『釜』。
カチッ。
足音が背後で止まった。
「タ……ゲッ……ト……」
リヒターの掠れた声。
エフレムがナイフを抜こうとするが、肩に手を置く。
「無駄だ。飛べ、エフレム」
「気が狂ったか!?」
「飛べ! 俺が3秒だけ稼ぐ」
エフレムが俺を見、そして剣を振り上げる怪物を見た。
迷いが見えたが、彼は頷いた。
「底で死ぬんじゃねえぞ」
そう言い残し、彼は奈落へ踏み出した。
リヒターが踏み込む。
損傷しているにもかかわらず、奴は恐ろしいほど速い。
俺は奴の目の前で、平らな姿勢で倒れ込んだ。
右腕が理想的な足止め(トリップワイヤー)として機能した。
一撃を繰り出そうと加速していたリヒターが、俺の石化した肘に躓く。
奴は折れた剣を床に突き立てて停止しようとした。
だが、慣性が奴の巨体を『釜』の縁へと運ぶ。
最後の瞬間、奴は無骨な指で俺の襟首を掴んだ。
「いっ、いっしょ、に……」
俺たちは奈落へと落ちていった。
長い落下だった。
風が耳元で鳴り響き、肺の空気をすべて吐き出させる。
『お前は今、私が300年間こじ開けられなかった扉を開いた』
突然、脳内でヴァレリウスの声が響いた。
『ありがとう。さて、最高に楽しい時間の始まりだ』
それが何を意味するのかを問う時間はなかった。
俺の意識は、瞬時に途絶えた。




