第40話:ミラーアイ
闇が俺の口と鼻を塞ぎ、生々しい死装束のように両目を覆った。
俺はうつ伏せに倒れていた。
下にあるガラクタの山――古いボロ切れか、上から落とされた機械のゴミか――が、重みで沈み込んでいくのを感じる。
隣では、エフレムがヒューヒューと苦しげな息を吐き出していた。
「生きてるか……?」
俺は掠れた声で問いかけた。
「今のところは……なんとかね」
老人が応じる。
「小僧、私たちはどこに連れてこられたんだ? ここには何もない。本当に、何一つとしてないぞ」
ゼノの声は聞こえなかった。
「やっと静かになった……」
俺は息を吐き出した。
「少しは、自分の頭だけで考えられそうだ」
安堵感があまりにも強く、涙が出そうだった。
視界の隅で、『生きる意志』のスキルアイコンが点滅している。
薄暗く、今にも消えそうだ。
【システムステータス:致命的な枯渇】
【エネルギー残量:4%】
【警告:筋肉組織の劣化が開始されました】
4パーセント。
確かに少なすぎる。だが、アクティブに動ける時間が、あと最長で3割(30分)はあるということだ。
俺はポケットから火打ち石を取り出した。
カチリ。
もう一回。カチリ。
飛び散った火花が、一瞬だけ周囲1メートルを照らし出す。
ここは技術室だった。
頭上の暗闇には、俺たちが落ちてきたあの縦穴の、錆びついた梯子の横木が消えかけている。
壁は重厚な石のブロックで組まれていたが、その隙間に鉛の層があるのを見逃さなかった。
エンジニアとしての知識が、すぐに答えを導き出す。
鉛が魔力のノイズを遮断し、『デッドゾーン(無魔領域)』を作り出しているんだ。
だからゼノが『オフライン』になった。
「見ろ……」
エフレムが震える指で隅を指差した。
そこには、床に半分埋もれるようにして、無骨な鉄の構造物がそびえ立っていた。
これまで見てきた優美な祭壇やマナ・サーバーの類とは、似ても似つかない。
「これは……ポンプか?」
俺は近づき、冷たくてざらついた金属に触れた。
「妙な鉄屑だな」
エフレムは這うようにして、どうにか上体を起こした。
俺は注意深くその機構を観察する。
図面に慣れ親しんだ俺の脳が、瞬時にその設計図を復元していった。
これは、古典的なピストン式の排水ポンプだ。余剰な水を汲み出すためのもの。
もしこれを動かせれば、この部屋の悪臭を払うか、あるいは先へ進む道を見つけられるかもしれない。
「奴らが、嗅ぎつけてきたぞ」
エフレムが折れた杖を握り締め、低く呟いた。
頭上の通気口から、乾いた音が響いてきた。
まるで何百もの小さな爪が、薄い金属板を引っ掻いているかのような音。
そのスクラッチ音が、みるみる大きくなっていく。
ダクトの闇から、最初の顔が覗いた。
皮膚は白く、目は退化して盲目。針のような歯が何列も並んでいる。
怪物は鼻孔を膨らませ、俺の匂いを嗅ぎ取ろうとしていた。
「5分ももたないぞ!」
エフレムが杖を掲げようとしながら叫んだ。
「もうそこまで来ている!」
俺は答えなかった。
魔法は使えない。肉弾戦に持ち込まれれば、その時点で自殺行為だ。
俺は、固着して動かないポンプのレバーを掴んだ。
「動け……頼むから動いてくれ!」
俺は残されたすべての力を、両肩の筋肉に爆発させた。
耳鳴りがする。
固まった古いグリスの層に阻まれ、フライホイールは微動だにしない。
最初の怪物が、鋭く跳躍した。
その刹那、俺はレバーに全体重を叩きつけた。
金属が悲鳴を上げる。
カチカチに固まっていた錆の膜が、銃声のような鋭い破裂音を立てて弾け飛んだ。
フライホイールが、回転する。
ガコン。ガコン。ガコン。
ピストンがシリンダー内を滑り始めた。
俺があらかじめ通気口の出口に向けておいた側面のノズルから、凄まじい圧力で液体が噴射された。
溜まっていた、砂と錆が混ざり合った泥水だ。
俺の手前わずか1メートルの距離にいた怪物が、壁に叩きつけられ、圧殺された。
乾いた枝が折れるような音を立てて、奴の骨が砕ける。
ダクトの中にいた他の怪物どもは、激しく威嚇の声を上げ、たまらず奥へと引き下がっていった。
俺は膝をつき、激しく空気を求めて喘いだ。
【エネルギー:1%】
【警告:システムに致命的な劣化。速やかなリソース補給を推奨します】
心臓がドクリと、拍動を飛ばした。
視界に灰色の斑点が広がり、霞んでいく。
「エフレム……アンプルを……」
俺はそれだけを絞り出した。
老人が這うようにして近づき、青い液体が入ったガラス製のアンプルを俺の手に握らせた。
教団の、濃縮されたエーテルだ。
「それを飲めば、ゼノが目覚める」
彼は警告するように言った。
俺は迷わず、その泥水を煽った。
最悪の味だった。オゾンと、腐ったミントが混ざり合ったような。
液体が喉を焼き、全霊の血管を電流が駆け抜ける。
胸の中の結晶が、一瞬にして爆発的な光を放った。
『……同期、復旧!』
脳内に、鋭く明確なインパルスとしてゼノの声が割り込んできた。
『この大馬鹿者が! 宿主を消滅させる気か! セクターの解析、完了した。俺たちは〈ゼロ・サイクル〉にいる。まさにこの真上を、城塞の供給本管が通っているぞ』
俺は頭を上げた。
天井の下を、鉛の布で何重にも巻かれた太い鋼鉄のパイプが走っていた。
それは激しく振動している。
内部から響く重低音は、さながら魔導リアクターの稼働音だった。
俺の指先が、エメラルド色の光を放ち始める。
俺はパイプへと歩み寄った。
「ゼノ、このロックを破るのを手伝え」
『……いいだろう』
俺は変異した指を、溶接痕の微細な亀裂へと押し当てた。
結晶が激しく震える。
『気をつけろ、小僧』
ゼノが警告する。
『内部の圧力は尋常じゃない。流れを制御しきれなければ、お前は一瞬で蒸発するぞ』
「――やれ」
短く言い捨てた。
俺は自身のマナで紡いだ細い針を溶接の奥深くへと刺し込み、金属の分子構造を強引に押し広げた。
その瞬間、防壁が弾け飛んだ。
焼灼するような、純粋なマナの奔流が、俺の魔力回路へと一気に流れ込んできた。
俺は絶叫した。だが、声にはならず、耳の奥で金属音が鳴り響くだけだった。
自分の皮膚から、オゾンが焦げる臭いが立ち込める。
身体が弓なりにのけ反り、ブーツの底から煙が上がった。余剰なエネルギーが、足元の汚水へと逃げていく。
【5%……20%……50%……】
リザーブタンクが、狂気的な速度で満たされていく。
そして――俺の意識は途絶えた。
気がつくと、俺は広大な、白い空間に立っていた。
壁はなく、ただ均一な光だけが満ちている。
その中心。机に向かって、一人の男が座っていた。
身にまとっているのは、汚れ一つない純白の軍服。
机の上に置かれた彼の両手は、あまりにも清潔で、微動だにせず、まるで磁器のようだった。
男が、ゆっくりと顔を上げた。
両目があるべき場所には、二枚の完璧な鏡が嵌め込まれていた。
そこには、歪み、恐怖に引きつった俺自身の顔が映し出されていた。
「見つけたぞ」
男が静かに言った。
その声は、俺の脳組織を直接振動させた。
繋がりを断ち切ろうとしたが、身体が動かない。
彼から放たれる威圧感は、近衛兵や、あのリヒターのそれとは次元が違っていた。
「なるほど、ヴァルトの言葉は嘘ではなかったな。お前は非常に興味深い〈検体〉だ」
男はゆっくりと立ち上がった。
空間を越えて、俺の顔に触れようとするかのように、手を伸ばす。
その唇の端が、微かに、笑みの形に歪んだ。
パチン、と鋭い音がして、強制的に接続が切れた。
俺はテクニカルルームの濡れた床へと激突した。
パイプから強引に手を引き剥がす。
亀裂は、瞬時に自己修復されて塞がった。
俺の指は骨が見えるほどに焼けただれていたが、マナの残量は【94%】を示して輝いていた。
「ずらかるぞ!」
俺はエフレムの襟首を掴み、力任せに引き起こしながら怒鳴った。
「今すぐだ!」
「何があった、小僧!?」
「……誰かを、見た」
俺は荒い息の下から絞り出した。
「誰を見たというんだ?」
エフレムが俺の両肩を掴み、目を覗き込んできた。
「話しなさい、小僧!」
「誰だかは分からない……だけど、あの魔力は……悍ましすぎる」
『どんな姿をしていた?』
脳内のゼノの声も、心なしか硬く、沈んでいた。
「白い軍服だ。チリ一つついてない。それに手……まるで磁器みたいに綺麗で、ピクリとも動かなかった。それから、目の代わりに鏡が嵌まってた。俺のことを『興味深い検体』だって。ヴァルトの言ったことは本当だった、とも」
エフレムは、胸を突かれたかのように、ガタガタと後ずさった。
顔から血の気が引き、ポンプの錆びた突起へと力なく腰を落とす。
脳内には、死のような沈黙が降りていた。
いつもなら一秒と黙っていないゼノが、完全に硬直している。
「おい、二人してどうしたんだよ?」
俺は青ざめたエフレムと、鈍く光る結晶を交互に見つめた。
「ヴァレリウス……」
エフレムが、掠れた声で呟いた。
「誰だそれは?」俺は眉をひそめた。
「また別の将軍か?」
「それなら、どれほど良かったか……」
エフレムが唾を飲み込んだ。
「ヴァレリウスは……〈魔導魔術学院〉の総監。そして、世界を統べる〈五人評議会〉の一員だ」
「待て……学院? 五人評議会?」
俺は言った。
「教団を仕切っているのはヴァルトだと思ってた。違うのか?」
「ヴァルトは、教団の『顔』に過ぎん。軍を率い、反逆者を誅殺する実権魔だ。だが、ヴァレリウスは違う……。あの学院こそが、帝国におけるすべてのエーテルの揺りかご。そして五人評議会こそが、この世界の真の設計者だ。ヴァルトとて、表向きはどうあれ、彼らの決定には従わざるを得ん」
「だけど、あんたはなんでそれを知ってる?」
「教団の最高幹部や総司令官たちは、五人評議会と直接面会する義務があったのだ。その時に、ヴァレリウスの存在を知った」
「そして、彼が直々にお前に接触してきたということは、意味するものはただ一つ……」
エフレムが立ち上がった。その両手はまだ震えている。
「彼は本物の狂人だ、アイロン。人間性を一切排除した天才だ。もしお前が彼の個人的な関心を引いてしまったのなら……彼がお前に何をもたらすか、想像するだけで恐ろしい」
コレクター(排水路)の水位が上がり始めていた。
液体は次第に粘り気を帯び、有害な毒々しい緑色へと変色していく。
「よし、昔話は終わりだ」
俺はポンプを見た。
マナは94%ある。
(これなら、いけるはずだ)俺は心の中で呟いた。
有害な緑色の泥水が、猛烈な勢いで迫ってくる。
それは泡立ち、焼けたオゾンの煙よりも酷く肺を刺す、窒息性のガスを放出していた。
古い排水路が激しく揺れる。
上のどこかで、巨大な直径の隔門が開いたのだ。何トンもの廃棄マナが、一気に下へと流れ込んできた。
残された時間は、1分もない。
『で、何を企んでいるんだ、天才?』
ゼノの声に、焦燥が混じる。
『水位が上がっている。あと30秒もすれば、俺たちはこの酸の中で溶けてなくなるぞ!』
「エフレム、中央のシャフト(主軸)に掴まれ! 何があっても、絶対に手を離すなよ!」
俺はポンプの巨大なフライホイールを掴んだ。
そして、エネルギーをダイレクトに流し込む。
俺の身体そのものを、ゼノの結晶と直結する生きた伝送ケーブル(コア)へと変えた。
「うおおおおおっ!」
俺はシャフトへ直接、莫大な回転トルクを叩きつけた。
錆びついた鉄が、一瞬で真っ赤に焼け出す。
古いグリスが発火し、俺たちを濃い煙が包み込んだ。
緑色の廃棄物の濁流が、部屋へと激突した。
水位が一気に1メートルも跳ね上がり、俺たちの足を払う。
毒液が皮膚を焼いたが、俺はフライホイールにしがみつき、マナを注入し続けた。
(――逆転だ!)俺は心の中で吼えた。
ポンプのピストンを逆方向へと強制駆動させる。
流れ込んできた緑の濁流を強引に吸引し、上へと続く狭い排水縦穴へと圧縮して押し出した。
轟音が部屋を満たす。
ポンプの鉄が歪み、ギアが負荷に耐えかねて砕け散っていく。
だが、超高圧で圧縮されたマナの流れが上方へと噴出し、天井の重い鉛のプラグを完全に吹き飛ばした。
「跳ぶぞ!」
俺はエフレムを引っ掴み、上空へと向かって荒れ狂う噴流の、その真っただ中へと飛び込んだ。
狭い縦穴の壁が、皮膚を削りながら凄まじい速度で通り過ぎていく。
俺たちは、3つ上の階層にある排水口から勢いよく飛び出し、どこかの技術通路の硬い床へと叩きつけられた。
毒性の噴流はそのまま排水システムの奥へと去り、俺たちだけがその場に取り残された。




