第4話:オーバーヒート
靴をドブネズミにかじられる感覚で目が覚めた。
いや、正確にはゼノが頑なに「靴」と言い張る、ただの革の切れ端のことだが。
片目をうっすらと開け、もう片方の足で正確にそのネズミを蹴り飛ばす。
短い悲鳴を残し、塵の中で一回転したネズミは闇へと消えた。
体を起こしようとしたが、歯の隙間から呻き声が漏れた。
ちくしょう……。
右手のひらの火傷は、一晩で不快な黄赤色のかさぶたに変わっていた。
動かすたびにひび割れ、組織液がにじみ出る。
指は腫れ上がり、まったく役に立たない。
「レッスン1だ、馬鹿め」
ボロボロになった自分の手を見つめながら、自嘲気味に思う。
この新しい体は、抵抗値の極めて劣悪な導体に過ぎない。
絶縁体?
笑わせるな。
システムに過剰なアンペアを流せば、配線が焼き切れるのは道理だ。
ゼノは入り口のそばで俺に背を向け、灰色の砥石で狩猟ナイフを研いでいた。
シュッ、シュッ。シュッ、シュッ。
「生きてるか」
老人がしゃがれた声で言った。
「無能も天才も見てきたが、ここまでの狂人は初めてだ。二度とあんな真似はするな。わかったか?」
俺は生返事をしながら体を起こし、氷のように冷たい壁にもたれかかった。
少しだけ楽になる。
「結果が出たなら同じだ。目的は達成された」
「大違いだ、ガキが」
ゼノは砥石を置き、親指で刃の鋭さを確かめてから振り返った。
「マナは暖炉にくべる薪じゃねえ。血管の外を流れるお前の血そのものだ。今日の課題は一段と厳しいぞ。二つの火花だ。右手と左手、それぞれ別々にな」
小屋の澱んだ空気を吸い込む。
薬草、灰、ネズミの糞の臭い。
二つのポイントか。
上等だ。
俺は目を閉じた。
脳内にすぐさま座標軸が浮かび上がった。
三次元空間。
左は点(-1, 0, 0)。右は点(1, 0, 0)。
もし、独立した二つのマナの振動源を作り出したらどうなる?
波は互いに向かって進む。
――干渉だ。
位相が一致すればエネルギーは倍増する。
外れれば、対消滅か、さもなければ俺自身が床に消し飛ぶほどの共振を起こす。
「昨日みたいな真似は絶対に考えるなよ」
ゼノが俺の計算を遮った。
「マナに耳を傾けろ。力でねじ伏せるな。ただ導くんだ」
俺は頷いた。
「『生きる意志(Will to Live)』……」
心の中で呟く。
低い唸り。
スキルによってクロックアップされた脳が、周囲のスキャンを開始する。
知覚が劇的に鋭敏化していく。
自身の心音、天井の梁がきしむ音、端的に火傷を負った右手で拍動する血液の循環までもが克明に伝わってきた。
ゆっくりと始める。
まずは右手だ。
ルートは分かっていたが、今回はアプローチを変えた。
粒子を圧縮せず、人為的な加速もしない。
ゼノの言葉に従う。
胸の中に貯蔵庫をイメージし、精神的な水門を開放した。
マナの自律的な流動に身を任せる。
皮膚がチクチクと疼き、ほぼ同時に薄青い靄が立ち上った。
エネルギーの膜に覆われ、火傷の痛みがわずかに和らぐ。
次は左手だ……。
その瞬間、地獄が始まった。
糞の役にも立たないほど、それは不可能な領域だった。
片手で詩を書きながら、もう片方の手で微分方程式を解くようなものだ。
意識のフォーカスが引き裂かれる。
この脆弱な肉体のプロセッサーが過熱を始めた。
体内のエネルギーが分断されるのを物理的に感知した。
二つの重い奔流。
左手へと送り込もうとすれば右手の火花が消えかけ、右手に意識を戻せば左手の出力がゼロになる。
「維持しろ! 流路を分けるんだ!」
気がつけばゼノが目の前に立っていた。
「力むな、小僧! 力を抜け! ただ流れるままにさせるんだ!」
言うのは簡単だ。
俺は奥歯を噛み締めた。
汗が目に入り、塩分が激しく滲みる。
前腕部に感じる圧力――粘着質で、脈打つような重さ。
血管が今にも破裂しそうだ。
脳は平衡点を探して必死にバランスを計算しているが、生物学的な限界がそれを阻む。
背筋が痙攣を起こし、呼吸は不規則な混沌へと変わった。
遂に、左手にかすかで、哀れなほどの光が灯った。
二つの火花。
右手に鮮やかな青、左手に淡い青。
よし、流れを二つに分離できた。
だが、維持ができない……。
エネルギーが微動し始める。
回路の痙攣。
制御がすり抜けていく。
脳は正確なコマンドを送っているのに、肉体がその実行を拒絶していた。
「……無理だ」
俺は喘いだ。
目の毛細血管が弾ける感覚があった。
火花は一瞬、盲目的な光を放って激しく弾け、パチンと鋭い音を立てて同時に消失した。
反動が両腕を直撃する。
俺は歯の間から息を漏らした。
集中力が完全に崩壊する。
吐き気と耳鳴りだけを残して、『生きる意志』のブーストが強制終了した。
両手が力なく膝へと落ちる。
ゼノが重いため息をついた。
「やはりな。小僧、お前の意志の強さは認めよう。強すぎるほどだ。だが、意識を分割できていない。すべてを一つの硬直した拳に固めようとしている。マナに必要なのは柔軟性だ。今日の分は底を突いたな」
老人は背を向け、入り口の定位置へと戻っていった。
「小川へ行って手を冷やしてこい。腕が吹き飛ばされなかっただけ儲けものだと思え」
皮肉を返す気力さえ湧かなかった。
膝がガクガクと震え、視界はいまだに定まらない。
精神年齢は三十歳だが、生物学的には十五歳、あるいはそれ以下だ。
俺はよろめきながら小屋を出て、森へと足を踏み入れた。
湿った、肌を刺すような寒さ。
朝霧が松の根に絡みついている。
空気は重く、顔に湿気となってへばりついた。
苔を踏みしめる一歩一歩が酷く重い。
今日の重力はいつもの二倍はあるように感じられた。
石の転がる川岸までどうにか辿り着き、泥の中に膝を突いた。
そして、ズキズキと震える両手を氷のような冷水に浸す。
水がジュッと音を立て、右手のひらから白煙が立ち上った。
痛みが徐々に引き、代わりに鈍い麻痺が広がる。
冷水を顔に浴びせ、まとわりつく汗を洗い流した。
水面に映る自分の顔を見る。
青白く、痩せこけ、目の下には濃い隈。
剥き出しの敵意を宿した目。
(意識の並列処理が、弾道ミサイルの軌道計算よりも難解だとはな……)
俺は苦笑した。
果たして、俺はこの世界で生き延びられるのだろうか。
水面の細かな波紋を見つめながら、自問する。
水から手を引き抜き、シャツの裾で拭った。
戻る時間だ。
あのクソじじいのことだ、これだけ消耗していようが、構わず大鍋の洗浄か薪拾いを言いつけてくるに違いない。
来た道を戻ろうと、獣道へ足を向けたその時――
森の奥深くで、何かがパキリと鳴った。
身体が凍りつく。
心臓が肋骨を激しく叩き始めた。
次の瞬間、森が静寂に包まれた。
鳥のさえずりがピタリと止む。
小川のせせらぎさえも、遥か遠くへ退いたかのようだった。
巨大な何か。
圧倒的に、巨大な存在。
空気が急速に重さを増していく。
低く、荒い呼吸音が聞こえた。
そいつが息を吐き出すたびに、鬱蒼とした草むらがざわめく。
わずか十五歩ほど先にある巨大なシダの群生が、ゆっくりと、恐ろしいほどゆっくりと、左右に割れ始めた。




