第37話:デッド・ループ
スキャナーの重低音がわずかに遠ざかったとき、俺は濁った水面から慎重に顔を上げた。
肺の中に、砕けたガラスの破片が隙間なく詰め込まれているかのようだった。
氷の水底から這い出た身には、大気がまるで高炉の火口の上で呼吸しているかのように、酷く熱く焼けるように感じられた。
「エフレム……」
息を吐き出した途端、乾いた、激しい咳が込み上げる。
声は哀れな喘ぎへと変わり、枯れた葦のざわめきに瞬時に掻き消された。
俺は這うようにして膝を折り、胸を強く押さえる。
ずぶ濡れの上着の下で、結晶がまるで深手を負った生きている心臓のように脈打っていた。
濁った沼地の視界の最前面に、毒々しい緑色のシステムログが浮かび上がる。
【警告:経路が破損しています】
【隠しマーカーへの移行を開始。火花の収束:ステータス『未確定』】
【外部干渉を検知しました】
「黙れ……、黙れ!」
俺は頭を抱え込んだ。冷え切った指先の下で、血管が狂ったように脈打っているのが分かる。
身体を無理やり動かす。
歯を食いしばり、茂みの中を這い進んだ。
鋭いカヤツリグサの葉が、感覚の麻痺した手のひらを切り裂く。
氷水をたっぷりと含んだブーツは、一足ごとに一トンもの重さがあるように感じられ、泥濘は濁った音を立てて俺を再び底へと引きずり込もうとしていた。
そして奇妙なことに、この激痛の脈動の中で、不条理な思考が脳裏を突き刺した。
(……なぜ俺は、この世界の言語を理解できているんだ?)
だが、極限の疲弊のせいで、今の俺にはそれを深く追究する余裕はなかった。体力を温存するのが先決だ。
厳密な解析は、後回しにする。
百メートルほど進んだところで、俺は奴を見つけた。
エフレムは、鋭いトゲを持つ沼イチゴの鬱蒼とした茂みに、うつ伏せに倒れていた。
彼の長い外套は焼け焦げ、裏地の炭化したルーンのパッチが露出している。右手の指は、黒い鏡の破片を死に物狂いで握り締めていた。
その破片には、どろりとした暗い何かがべっとりと付着している。
「おい……大丈夫か?」
俺は奴の傍らの泥の中に崩れ落ちた。限界はとうに超えていた。
老人は掠れたうめき声を漏らしながら、ゆっくりと仰向けになった。
顔色は、チョークのように真っ白だ。
「静かにしろ、馬鹿者が……」唇をかろうじて動かし、奴が震える声で遮る。「『猟犬』が【叫びの刻印】を落とした。奴らは半径一マイル以内のあらゆる水音を拾っている。今ここで声を上げれば、この座標一帯に榴弾が降り注ぐぞ」
彼は低く呻き、左肩をきつく押さえながら横を向いた。
その時になってようやく、肉が焼けたような、吐き気を催す甘ったるい臭いが俺の鼻を突いた。
「……ひどいのか?」
俺は唇の動きだけで囁いた。
「大したことはない……肉まで焼けただれただけだ」
エフレムは痛みに目を潤ませながらも、自嘲気味な笑みを浮かべようとした。
「これより酷い目には何度も遭ってきた。だが、お前は……」
奴は言葉を切り、俺の胸元を凝視した。
「結晶がどうなっている? お前の輝きは強すぎる。これでは奴らの『真実の鏡』の死角にいても、一発で見つかるぞ」
「収まらないんだ」俺は囁いた。石の激しい振動のせいで、奥歯がジクジクと痛み始めている。
「それに、こいつが……俺に話しかけてくる。ゼノの声で」
エフレムの身体が凍りついた。
腰の革水筒へと伸びかけていた彼の手が、中空でピタリと止まる。
「……正確になんと言った?」エフレムの声から生気が消え、乾いたものに変わる。「一言一句違えずに言え、小僧。極めて重要なことだ」
「あんたは『出口』じゃない、と。それから、三つの力が交差するどこかのノードに到達しなければならない、とも。……おい、前にも言ったはずだ、謎かけはナシだと! なぜあんたの石が、あんたを警戒しろと俺に警告する? 何を隠しているんだ!」
老人は答えなかった。
代わりに、自分の焼けた肉の臭いに顔をしかめながら、這うようにして膝を立て始めた。
沼地の上に、再びあの聞き慣れた風切り音が轟いた。スフィアが配置を転換しているのだ。奴らの『黙示の光線』が霧を灼き払い、灰色の帳を沸騰する蒸気に変えながら、俺たちの隠れ家へと着実に迫ってくる。
「今すぐ〈死のループ〉を通って脱出しなければ、それを知る機会すら永遠に失われるぞ」
俺の問いを無視し、奴は鋭く言い放った。
「結晶が、前の所有者の魂の刻印を起動させたのだ。アイロン、お前の回路はすでにアーティファクトのパターンに従って再構築されつつある。その疼きを感じるだろう? コードが新たなサーバーを探しているのだ」
奴は俺の無事な方の肩を掴み、力任せに引き寄せた。
「この過剰なエネルギーを、排水路を介して湿った大地へ放出しなければ、一時間後にはお前は他人の精神のための空っぽの器と化す。それがお前の望みか?」
俺たちは、エフレムが〈死のループ〉と呼ぶ古代の排水路へと向かった。
かつては単なる沼地の盛り土や倒木にしか見えなかった場所に、今は幻影のような、発光するグリッド線が浮かび上がっていた。
上空のスフィアが残した燃え盛るエーテルの軌跡が、まるで航空機雲のように視える。そして水面下には、拡張現実(AR)の地雷原を思わせる、罠の脈動する回路が張り巡らされていた。
「視えるものを信じるな!」システムエラーによる『見えない壁』を迂回しようとして俺がまた足を止めた瞬間、エフレムが叫んだ。
「それは石が見せる幻影だ! お前の恐怖をスキャンし、現実に重ね合わせているに過ぎん!」
『……エフレムは嘘をついている。ずっと、騙していたのだ。結晶はお前の自由であり、奴はお前の檻。お前の看守だ……』
ゼノの声が脳内で激しく轟き、俺は足をもつれさせて冷たい泥濘に顔から突っ込んだ。
涙が溢れ、泥と混ざり合う。
思考がふたつに引き裂かれそうだった。片方の俺は、傷つき疲れ果てながらも俺を引っ張っていく老人を見ており、もう片方の俺は、奴を排除すべき『システム上の脅威』、あるいは障害物として認識していた。
「あんたが嘘をついてるって言ってるんだ!」泥に指を突き立てながら、俺は虚空に向かって咆哮した。
「ゼノに何をした!? なぜあいつがこんな忌々しい石コロの中に閉じ込められてるんだ!?」
エフレムが突如として振り返り、俺の顔面を平手で強く張り飛ばした。
鋭い、焼けるような痛みが、一瞬だけ幻覚の膜を打ち破る。
俺は熱を持つ頬を押さえたまま、硬直した。
「今すぐその口を閉じんか、さもなくばここに置いていくぞ!」
エフレムが俺を見下ろしていた。その瞳の中にあるのは、紛れもない絶望だった。
「ゼノは自らを救い、お前が生きているか確かめようとした。そして……あと一歩のところまで行ったのだ。だが、今のあいつは断片化されたコード(プログラム)に過ぎん、アイロン! お前も同じ運命を辿りたいのか? ならば、そのままあいつの声を聞き続けるがいい!」
奴は俺の襟首を掴み、強引に引き起こした。
「もう目と鼻の先だ。己の脳を制御下に置くか、さもなくば奴らにお前の人格を焼き尽くされるかだ。決めろ。今すぐに」
「……行くよ」
俺は息を吐き、身体を無理やり立たせた。
俺たちは、何らかの水利施設の残骸である高いコンクリートの壁へと行き着いた。
だが、その進路を阻むように【守護者のオベリスク(ガーディアン・オベリスク)】がそびえ立っていた。
回転するレンズを備えた巨大な塔が、白い『黙示の光線』で周囲をゆっくりと精査している。その周囲の空気が、凄まじい高電圧で細かく震えているのが肌で分かった。
「突破は不可能だ……」コンクリートに身を寄せながら、エフレムが息を漏らした。「結晶がエーテル・バランスをズタズタに引き裂いている」
オベリスクはすでに異常を感知していた。もしあの光線に直接捉えられれば、システムによって『消去』のフラグを立てられる。
俺は塔を見上げた。
それは俺の目に、脆弱な結合部が複雑に明滅する構造体として映し出された。
脳裏のあの声が、インパルスのシーケンスを囁き始める。
『……入力ベクトル……周波数0.44……回路を、開放しろ……』
「回路を解放しろ」エフレムが俺の肩を掴んだ。彼の指が鎖骨に痛いほど食い込む。
「完全にだ。その制御不能な放電エネルギーのすべてを、あの塔へと指向させろ。奴らに焼き尽くされる前に、そのルーンの結束を焼き切るんだ!」
「だけど、これに呑み込まれたら俺の意識が消えるって、あんたが言ったんだろうが!」
俺は身を縒って逃れようとしたが、老人の拘束は固かった。
「【影の盟約】を使うのだ!」オベリスクから増大する重低音を掻き消すように、奴が叫んだ。「ゼノがお前を導く! あいつはプロトコルを知っている! ただ、信じろ!」
塔の頂を見上げる。
オベリスクのレンズがゆっくりとこちらへ旋回し、耐え難いほどの白い光を放ち始めていた。
思考に割く時間は、もう一秒たりとも残されていない。
俺は目を閉じ、内なる恐怖に身を震わせながら、精神のゲートを限界まで開放した。
「影の……盟約……」俺は呟いた。
寒冷が消え去った。
痛みが消失した。
後に残されたのは、文字列の奔流だけ。
俺は手を伸ばし、蓄積された結晶のエネルギーを一界点へと叩き込みながら、あの塔を現実から『抹消』した。
沼地の上空が真っ大二に裂けたかと思うほどの、凄まじい閃光。
眩い緑色のドームが、オベリスクを完全に呑み込んだ。
次の瞬間、その巨大な構造体はエメラルド色の火花の噴水の中に沈没した。
そして、耳鳴りのするような静寂が訪れる。
エネルギーは霧散し、後に残されたのはただ、焼き尽くされた虚無だけだった。
俺はコンクリートの上に崩れ落ちた。意識が指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていく。
「……走れ……」
遠く、不鮮明なエフレムの声が聞こえた気がした。
両手で身体を支えようとしたが、綿のように力が入らない。
顔が、コンクリートの窪みに溜まった濁った水たまりの、わずか数インチ手前まで沈む。
一瞬だけ、視界が鮮明になった。
水面に映るその影は、俺の顔ではなかった。
泥に濁り、細かく波立つ水面の向こうから、俺を見つめ返していたのは――ゼノだった。




