第36話:プロトコルの影
数マイル北。
枯れ木の折れた梢の遥か上空で、それは展開していた。
――『扇』だ。
五機の探査球が、完璧な陣形を保って浮遊している。
その結晶の瞳から放たれる『真実の光』の扇状の光線が霧を貫き、機械的に辺りを精査していく。
青白い光が水面に触れるたび、魔力放電の乾いた破裂音とともに蒸気が立ち上った。
俺は意識を集中させ、奴らのスキャン周波数を特定しようとしたが、データが少なすぎた。
脳裏に、苛立ちを孕んだ思考がよぎる。
(クソ、かつて『狩人』どもに支給されたあの環境解析器がまだ手元にあれば……。どうして紛失しちまったんだ)
「逃げるか?」
俺はポケットの石へ手を伸ばした。
スフィアの接近に反応し、石が脈動するのを感じる。
エフレムが俺の手首を掴んで遮った。
「今それの出力をフルパワーにしてみろ。一瞬で探知されるぞ」
老人は鋭く身を翻し、小屋へと大股で戻り始めた。
「すべてまとめろ。食料、水、安定用の銅製シュントだ。この小屋を捨てる。猶予は二分だ」
俺は麻のバッグをひったくり、手当たり次第に荷物を放り込み始めた。
手がうまく動かない。
工具箱が指から滑り落ち、中身が散乱した。
歯の隙間から悪態をつきながら、俺は泥の中に膝をつき、クランプを直に掴み集める。
俺が這い出るようにして再び入り口へ飛び出すと、エフレムは小屋の隅に小瓶から粘り気のある液体を振り撒いているところだった。
「何だそれは?」
「錬金術の帳だ」
奴は火打ち石を叩きながら吐き捨てた。
「マナを喰らい、エーテルの痕跡を歪める。これで奴らの『眼』を一時間か二時間は眩ませられる」
帳は激しい煙を上げて燃え上がった。
煙は上方へとは昇らず、地を這うようにして空気を侵食していく。
「水路へ入るぞ」
エフレムが命じた。
俺たちは、倒木に身を潜めながら、氷のように冷たい泥濘に腰まで浸かって進んだ。
エフレムの錬金煙が自然の霧と混ざり合い、粘り気のある不可視の壁を作り出している。
頭上を通り過ぎるスフィアの低い重低音が、突如として鋭い風切り音へと変わった。
右側、わずか十メートル先の濁った帳の向こうから、黒い影が浮き彫りになる。
「気をつけろ……」エフレムが低く言った。「骨骸ゴーレムだ。マナで煮沸された骨を繋ぎ合わせ、鋼の腱で補強されている」
頭部は、絶え間なく回転を続ける滑らかな黒曜石の球体。
そこから、細い真紅の照準線が伸びていた。
「伏せろ!」
エフレムが息を呑み、俺の肩を引こうとする。
フルパワーで起動したスキルが、ずっしりとした肉体的負荷となってのしかかる。
胸の奥に広がるのは、粘り気のある凍てつくような冷気。
傷ついた回路へエネルギーを押し通すたびに、後頭部に鈍い激痛が走る。
それでも、俺は執念深く集中を維持した。
俺の目は瞬時に灰白色へと変わり、世界の色彩を消し去って、沼地の風景をモノクロの戦術ホログラムへと変貌させた。
【生きる意志:強制同期】
【対象:自律型ゴーレム・『狩人』級】
【構造解析中……】
周囲の世界が、一瞬で色を失う。
葦の茎は垂直な直線の束となり、霧は灰色のノイズへと変わり、あるいは『狩人』は脈動するベクトルとマナ・ノードの回路図へと化した。
俺は奴へと一歩を踏み出す。
回路を走るマナが沸騰し始めるのを感じた。
ポケットの結晶が、限界値で駆動しながら悲鳴を上げる。
淡い光を纏った俺の手が、奴の前肢の関節へと突き刺さった。
突いたのは最も脆弱なノード――運動インパルスの分配点だ。
ゴーレムが跳ね上がった。
奴の左半身が一瞬で麻痺する。
ガラスを金属で引っ掻いたような不快な音を立て、奴は反撃のために旋回しようとした。
俺には、奴の次の動きが始まる前から視えていた。
剃刀のように鋭い骨の刃を掻い潜り、俺は二撃目を『頭蓋』の基部へと叩き込む。
乾いた破裂音が響いた。
自身のアルゴリズムへの直接的な介入に耐え切れず、『狩人』の魔力核がその装甲の内部で自爆したのだ。
ゴーレムの影が一瞬だけ内側から青い炎で爆ぜ、泥の中へと崩れ落ちる。
死んだ素材の破片へと霧散していった。
スキルがゆっくりとオフになり、本来の色を取り戻すまで、俺の瞳は冷酷で生命感のない灰白色を宿したままだったが――俺自身は激しい咳き込みに身を折り曲げており、それに全く気づいていなかった。
「行くぞ。他のスフィアが核の爆発を感知するまで、時間がない」
俺たちは、倒れた樫の木の根元にある、粘り気のある泥の隙間へと這い込んだ。
氷水が一瞬で肺から空気を奪い去り、衣服を濡らし、皮膚を冷徹に灼く。
頭上――わずか五歩ほどの位置で、別の影が静止した。
『狩人』が根の絡み合いの真上に滞空している。
奴の魔術ディスクが凄まじい勢いで空気を排出し、周囲の葦の残骸を水面へと押しつけていた。
根の隙間から、黒曜石の頭部の中で回転する真紅の結晶の瞳が視えた。
「息をするな」
エフレムが囁き、俺の頭をさらに泥の中へと押し付けた。
彼は銅線で巻かれた鏡の破片を取り出す。
それは数秒間だけ俺たちを隠蔽できる原始的な吸魔器だったが、あの『真実の光』の前には無力だった。
その時、ポケットの中の結晶が、心臓の鼓動とは異なるテンポで振動を始めた。
うなりが頭蓋を満たし、何百もの感情のない声の囁きとなって平坦に構築されていく。
システムによってベクトル思考を叩き込まれた俺の脳は、このノイズをシステムログのストリームとして解釈した。
【個体 4-0-9:ストリーム同期完了】
【プロトコル『影』を起動します】
【ゼノの共振を検知……】
フルパワーで起動したスキルが、ずっしりとした肉体的負荷となってのしかかる。
胸の奥に広がるのは、粘り気のある凍てつくような冷気。
傷ついた回路へエネルギーを押し通すたびに、後頭部に鈍い激痛が走る。
それでも、俺は執念深く集中を維持した。
恐怖と苦痛の膜を突き破り、俺の瞳は再び灰白色へと変わる。
絶対的な、氷のような集中力。
耳の奥に、灼熱の錐をねじ込まれているかのような痛みが走る。
力線のグリッドが霧の上に重なった。
頭上のゴーレムの装甲が透過し、脈動する核を露わにする。
それは流動する銀とルーンでできた、脈打つ心臓のようだった。
(三点測量ノードへ走れ)
声が聞こえた。
まるで、すぐ背後に誰かが立っているかのように、あまりにも近くで。
(奴らに回路を閉じさせるな)
俺は硬直した。全身の血が凍りつくのを感じる。
(……何の話だ?)
「静かにしろ!」
エフレムが俺をさらに泥濘へと押し付けた。
彼は、上着を透過して漏れ出している微かな光に気づいたのだ。
頭上の『狩人』が動きを止め、俺たちの隠れ家へとフォーカスを絞り始めた。
奴の骨ばった腹部から、細い針がゆっくりと突き出される。
その先端が、ターゲット捕捉の真紅の刻印となって輝き始めた。
「クソ、あれに触れられれば、上空のスフィアが一瞬でこの樫の木を灰に変えるぞ」
老人が低く唸った。
「私が『走れ』と言ったら、水路へ飛び込め。盛り土を跳び、黄色い葦の側を維持するんだ。私が奴を惹きつける」
俺はエフレムを見た。
誰を信じるべきなのか、分からなかった。
彼なのか、それとも……。
「走れ(マルシュ)!」
老人が叫んだ。
一瞬の躊躇。
次の瞬間、俺は前方へと飛び出していた。
ぬるついた根の上で足を滑らせ、手のひらを血がにじむほどに擦り剥きながら。
背後で乾いた破裂音が響き、次いでゴーレムの金属質な悲鳴が上がった。
エフレムが鏡に何かを施したのだ。
それは魔術的なゴミ(スクラップ)の目眩ましを放ち、『狩人』のセンサーをオーバーロードさせていた。
俺は足の感覚を失いながら走った。
『扇』のスフィアが霧を灼き払い始め、それを熱い蒸気へと変えていく。
泥濘に光線が着弾するたび、まるで大地ではなく俺の肋骨を直接殴られているかのように、胸の奥へ鈍い衝撃が木霊した。
【生きる意志:回路の臨界過熱】
【エネルギー消費率:140%。緊急シャットダウンを推奨】
(黙れ)
俺は心の中でシステムに毒づいた。
振り返る。
後方、かつて小屋があった場所から黒い煙の柱が立ち上っていた。
エフレムの姿は見えない。
ゴーレムのうなりは止み、代わりに木々が倒れる凄まじい破壊音が響いている。
老人は別の水路から逃げ延びたか、あるいは……。
俺はその思考を振り払った。
前方で霧が急激に晴れ、開けた水面が姿を現した。
幅の広い、黒い水路。
その上空には、すでに二機のスフィアが滞空していた。
奴らの光線がゆっくりと交差し、俺を挟み撃ちにしようとしている。
外周を閉じられるまで、あと二十秒もない。
「頼むぜ」
俺は生地越しに結晶を強く握り締め、掠れた声で喘いだ。
「そんなに賢いなら、解を導き出してみろ」
結晶は即座に応答した。
現実がレイヤーごとに剥離していく。
俺には、魔術的な『扇』の構造が視えていた。
それは極めて細いマナの糸で織り上げられた網。
そしてその網には――『盲点』が存在していた。
二機のスフィアの周波数が互いに重複し合い、共振ノイズの領域を作り出している場所だ。
【プロトコル『影』を起動します】
【対象:三点測量ノード 0-4】
その時、沼地の上空に新たな音が轟いた。
重く、規則的な、羽ばたきの音。
『狩人』を背に載せた教団の有翼キマイラどもが、すでに迎撃態勢に入っていた。
「すまない、エフレム。俺の間違いなら、それまでだ」
俺は呟いた。
老人が指示した方向へ逃げる代わりに、俺は水路の中心へと真っ直ぐ身体を投げ出した。
激しい水飛沫。
氷のような深淵が頭上で閉じた。
俺は深く、底へと沈んでいく。
冷たい泥の層とマナに満ちた水が、俺の脈動を掻き消してくれるはずだった。
俺は結晶を腹部に押し当て、沼のバックグラウンドノイズと同化しようと試みる。
厚い水底の暗闇越しに、死人のような青白い光線が水面を滑っていくのが視えた。
俺は暗闇の中に横たわっていた。
『生きる意志』が、残されたエネルギーを保つために、一つ、また一つと俺の感覚遮断を進めていくのを感じる。
俺の瞳は、減退していくマナの奔流と同調するように、冷酷で生命感のない灰白色を宿したまま静かに光を失っていった。
意識が、完全に俺の身体を離れるその瞬間まで。




