第31話:逆共鳴
ヴァルトは、眼下の発着場で技術兵たちが這い回り、重厚な鱗を持つ猟犬の整備に追われている様子を見下ろしていた。
「もう一度言え」
彼の声からは、一切の感情が削ぎ落とされていた。
背後に立つ密告者は、辛うじて生唾を飲み込んだ。
その膝は小刻みに震え、床の寄木細工に哀れな音を立てている。
「〈囁きの岩壁〉セクターです……。検体『アイロン』が峡谷へと飛び降りました。荷馬車は内側から破壊され……リヒターは重傷。奴が自力で枷を破壊したと、そう主張しています」
ヴァルトがゆっくりと振り返った。
その瞳が、細められる。
「あの状態のまま作戦を続行するなど、愚気の極みだな」
「それだけではありません、ヴァルト閣下」
密告者の声が、恐怖で悲鳴に変わる。
「ゼノが……消えました。拘束班が監禁ブロックに突入した時、そこはすでに空でした。警報も作動せず、我々には何が起きたのか……」
「消えた、だと? つまりお前は、道具と人質を同じ日に同時に失ったという報告を、この私に届けてくれたわけだ」
「す、すぐに捜索させております、閣下! 第四セクターを完全に封鎖し――」
ヴァルトが、微かに手を動かした。
棚の影から、ケインが音もなく滑り出る。
鋼の閃光は、一瞬だった。
密告者は悲鳴を上げることすら許されず、細い刃が正確にその喉元を貫いた。
肉体が、重苦しい音を立てて絨毯の上へと崩れ落ちる。
ヴァルトは広がる血溜まりを跨ぎ、ケインを見つめた。
「リヒターは処分だ。もう使い道はない。お前はゼノの捜索に当たれ。技術部門のすべてをひっくり返し、職人どもを一人残らず解剖してでも、奴を見つけ出せ」
「検体アルファは?」
絹のハンカチで刃を拭いながら、ケインが短く尋ねる。
「追撃班はすでに峡谷へ入っていますが」
ヴァルトは軽蔑を込めて鼻で笑った。
「あの負傷でか? あの高さからの転落、そして粉砕された骨だ。我が教団の猟犬どもなら、瞬時に嗅ぎつけるだろうよ」
ケインは頷き、扉の向こうへと姿を消した。
目を開けた。
すべてが長い悪夢であってくれと願いながら。
――だが、現実が牙を剥く。
世界は、真紅に染まっていた。
毛細血管の破裂と頭蓋内圧の上昇のせいで、視界には赤い膜が揺らめいている。
切り株の輪郭は歪んだ魔獣のシルエットに見え、霧は凝固した血の塊のように思えた。
(……よし)
俺は塩気のある泥を吐き出す。
(ハーブか粘土のある、安全な場所を探さないとな)
そして俺は、再び這い始めた。
泥が爪の隙間に、背中の開放創に、そして口の中へと容赦なく滑り込む。
脳は層を剥ぐように苦痛を遮断し、周囲の悪臭から「有用なマーカー」だけを冷徹に抽出していた。
硫化水素――地中深く、ガスの過剰地帯。あそこは駄目だ。
ヨウ素の臭い――チドメグサの根。これは地盤が硬く、天然の消毒剤がある証拠だ。
永遠とも思える時間の果てに、俺は〈沼の心臓〉の境界へと辿り着いた。
ここは厚い苔の下に、魔術廃棄物と有毒ガスが蓄積する場所だ。
俺は根こそぎ倒れた切り株の傍らで動きを止めた。
バグった視界のせいで、それが死んだ巨人の肋骨のように見える。
手探りで、近くにある濃厚な灰色の粘土層に触れた。
臭いを嗅ぐ。
腐った卵の強烈な臭い。――高濃度の硫黄だ。
前世の俺なら眉をひそめていただろうが、今の俺にとってはこれが唯一の勝機だった。
「化学だ……」
押し寄せる吐き気と戦いながら、歯の隙間から言葉を漏らす。
「魔力を必要としない、唯一の『魔術』だ」
俺は砕けた肩と、使い物にならない左腕に粘土を塗りたくり始めた。
まるで自分の肉体を使って、新しい型を成形しているかのような感覚だった。
だが、ここで野垂れ死ぬよりは遥かにマシだ。
もう少しだけ這い進んだ時、額が硬い何かにぶつかった。
タールと、古びた革の臭い。
ブーツだ。
重厚で、鉄鋲が打たれ、褐色の藻類がこびりついている。
ゆっくりと――己の油断に対する絶望で内臓が凍りつくのを感じながら――頭を上げた。
俺を見下ろす人影があった。
油を染み込ませた獣皮の重い外套を纏った、巨大で不格好なシルエット。
男の手には、泥の深さを測るための長い骨製の探針が握られていた。
「ほう、驚いたな……」
声は低く、古い樹皮が爆ぜるように乾いていた。
「見てみろ。その状態で、よくぞ生きていたものだ」
俺は腰のナイフへと手を伸ばそうとした。教団の新たな猟犬かと思ったのだ。
だが、左手の指はピクリとも動かない。
硫黄の泥のパナシ(装甲)が彼らを固め、神経は完全に限界を迎えていた。
荒い息遣いと共に、老人が顔を近づけてくる。
深いフードの奥から、濁った、黄色みがかった瞳が俺を凝視していた。
男からは、タバコと煙の強い臭いが漂ってくる。
「教団の狗か?」
老人は探針の先端で、俺の粉砕された肩を小突いた。
俺は悲鳴を噛み殺し、泥に指を深く突き立てた。
老人はフンと鼻を鳴らし、俺の「硫黄の籠手」を観察する。
「硫黄の効能に、自分で気づいたのか?」
「自前だ……」
赤く染まった視界を必死に収束させ、俺は奴を見上げた。
「あんたの……小屋の炉……煙突の引きが悪いな。一週間で一酸化炭素中毒になるぞ。ダンパーが煤で詰まっている」
老人の動きが止まった。
濃い眉が、ゆっくりと跳ね上がる。
「何をトチ狂ったことを言っている、小僧」
「見れば分かる……」
意識が遠のいていくのを感じながら、目を閉じる。
「それと、その川の水を飲むな。腎臓に結石がある。あんたの呼吸が……痛みに耐えているのが聞こえる。俺を助けろ……そうすれば、こんな泥の穴で野垂れ死にさせやしない」
彼の表情は見えなかったが、重いため息をつくのが聞こえた。
「半死半生の分際で、説教とはな。……いいだろう、来るがいい。俺の名はエフレムだ」
(……乗ったな)
世界が完全に暗転する直前、そんな最後の思考が閃いた。
泥の中から、タコだらけの無骨な両手が俺の身体を拾い上げた。
再び目を開けた時、真紅の霧は消え去り、炉のオレンジ色の光が揺らめく暗闇が広がっていた。
乾燥した藁と古い埃の臭いがする、硬い寝床の上に俺は横たわっていた。
傍らからは、大釜が規則正しくコトコトと煮立つ音と、薪の爆ぜる乾いた音が聞こえる。
右腕を動かそうとしてみる。
即座に激痛が走った。
(――よし、神経は完全には焼き切れていないな)
そこは小屋の内部だった。
黒ずんだ丸太の壁には、乾燥したハーブの束、小型魔獣の頭蓋骨、そしてその場しのぎで組み立てられた奇妙な機械が所狭しと吊るされている。
部屋の隅、重厚なスツールに老人が腰掛けていた。
彼の意識は、机の上の奇妙なオブジェクトに注がれている。
銅線が幾重にも巻き付けられた、空洞の鳥の頭蓋骨。
その内部で、濁った結晶が不安定に明滅していた。
「目覚めたか」
エフレムは振り返りもしなかった。
「机の上に水瓶がある。届くなら飲め」
水瓶は俺から数メートル離れた、机の文字通り端に置かれていた。
俺は新鮮な血が口内に広がるほどに唇を強く噛み締めた。
うつ伏せになり、左の前腕を固定している木の皮の副木が皮膚に食い込むのを感じる。
わずかな身じろぎだけで、冷や汗の波が押し寄せた。
右腕を伸ばす。一センチずつ、確実に。
やがて指先が、冷たい粘土の水瓶に触れた。
水は澄んでおり、微かにミントの風味がした。喉の渇きが少しだけ癒えていく。
(今の最優先事項は、自分の最大の武器を示すことだ。言い換えれば――代えの利かない存在になること)
「エフレム……」
呼吸を整え、俺は呼びかけた。
「その頭蓋骨の……結晶だ」
「これがどうした?」
老人は手を止めずに不機嫌そうに応じた。
「……逆共振(逆レゾナンス)を起こしている。巻き線のループのさせ方が間違っている。あと3時間もすれば過熱し、あんたの眼を焼き潰すぞ。3番目の巻きを右にずらせ。――0.5ミリだ」
エフレムはゆっくりと、頭蓋骨から俺へと、迅速に視線を往復させた。
彼は細い木のヘラを取り、慎重に銅線を押し動かした。
次の瞬間、結晶の不規則な脈動がピタリと安定した。
光は均一な、琥珀色の輝きへと変わる。
老人は道具を置き、俺の寝床の前で屈み込んだ。
「お前、何者だ?」
彼は静かに尋ねた。
「その歳でそれほどの頭脳……まさに宝の山だな」
「アイロンだ……」
俺は掠れた声で応じた。
「アイロン・エヴァーフォール」
エフレムは無精髭の生えた顎をさすりながら、長い沈黙を守った。
「いいだろう、アイロン。この小屋にいろ。骨は俺が繋ぎ合わせてやる。だが条件がある。俺の仕事を手伝え。俺の手はもう思うように動かんし、目も霞んでろくに機能せん。……どうだ?」
(人間を操る(コントロールする)のは、思ったよりも簡単だな)
俺は心の中で冷笑した。
「ああ、手を組もう」
俺は静かに答えた。




