第30話:生物学的予算
俺は泥の中に横たわっていた。
顔がゆっくりと、黒い泥濘へと沈んでいく。
落下時の衝撃をまともに受けた左腕は、無残に破壊されていた。
内側から肩甲骨が、柔らかい組織を容赦なく突き刺している。
【警告。左肩:関節崩壊。右脚:深い裂傷、および失血。現在の深部体温:34.2℃。段階:低体温症。このまま生命活動を停止した場合の死亡確率:15分後に87%】
「黙れ……」
掠れた声を出した。
自分の声ではないようだった。
右腕を動かそうと試みる。
爪の間に詰まった泥が、焼けるように熱い。
恐怖はなかった。
あったのは、ただの好奇心だ。
エントロピーがすべてを支配するまでに、この肉体はあとどれほど機能し続けられるのだろうか。
脳裏を、ゼノの顔がよぎった。
(頼む……無事でいてくれ)
もしゼノが死んでいたなら――。
「違う」
俺は猛烈に己へ命じた。
「ゼノは生きている。絶対に、生きている」
動かなければならなかった。
魔力の応答はほとんどない。
ジャンプの衝撃で完全に枯渇した回路は、火花を散らしては消えるだけだった。
生物学的な許容量は底を突いている。
ゆっくりと、粘りつく泥の抵抗に抗いながら、右脚を引き寄せた。
馬車の荷台でリヒターに付けられた傷が、再び開く。
今の俺の状態で立ち上がれば、即座に意識を失うだろう。
俺は這うことを選んだ。
一インチ進むごとに、緻密な計算が必要だった。
息を吸う。跳ねる。呼吸のコントロール。
しばらくして、俺は岸辺から突き出た、巨大な骨格の肋骨のような倒木の根元へと辿り着いた。
ひっくり返った泥土の影に、灰色の苔が密生している。
ミズゴケ(スファグナム)だ。
前世の生物学の知識が、従順にデータを弾き出す。
高い吸水性。フェノール化合物による殺菌作用。
今の俺にとっては、これ以上ない完璧な包帯だ。
湿った苔の塊をむしり取る。
歯が砕け散るほどに噛み締め、それを太ももの開放創へと力任せに押し当てた。
(……前世でちゃんと勉強しておいて、本当によかったな)
そんな思考が、ふと脳裏を過ぎる。
『生きる意志』が鋭い警告を発した。
【警告。患部への外部刺激。敗血症性ショックの確率:12%。止血率:60%に到達。推奨:密閉性を確保してください】
俺は上着の裾を引きちぎった。
教団から支給された、あの忌々しい上着だ。
唯一動く右腕と、歯を駆使して、即席のバンテージをきつく締め上げる。
(もし、あの装甲が手元にあれば、こんなことにはならなかったものを)
折れた親指が抗議するようにパキリと鳴ったが、無視した。
システム全体の整合性を保つためなら、親指の一本など、切り捨てて構わない些細なパーツに過ぎない。
胃袋が猛烈な痙攣を起こした。
内側の空虚が、粉砕された肩よりも激しく痛み始める。
有機体が、自食作用を始めていた。
(喰えよ)
冷たい木肌に頬を押し付けながら、昏く思考する。
(俺の筋肉を喰え、脂肪を喰え。ただ、あと500メートルだけ動かす燃料をよこせ。それ以上は要らない)
霧の彼方、川の上流から、パキリと乾いた音が響いた。
俺は硬直した。
奴らは近い。教団の遊撃兵どもだ。
細かい網の目のように、この一帯を捜索している。
幸いにも、奴らのプロトコルは熟知していた。
標体が水に落ちて浮上しなかった場合、奴らは熱源探知、あるいは音響アノマリーの捕捉へと切り替える。
俺はゆっくりと、湿った落ち葉と泥の中に身体を埋め始めた。
層を重ねるように腐植土を身体に浴びせ、地上には鼻の先だけを突き出す。
「『生きる意志』……」
俺は囁いた。
「心拍数を下げろ。最低値……30回に。末梢血管の温度を低下させろ」
スキルは、胸の奥に重く粘りつくような感覚で応じた。
心臓の鼓動が、稀に、重く刻まれるだけになる。血液の流れが遅くなる。
周囲の世界が急速に色褪せ、音が遠のいていく。
目を閉じた。
俺の頭上、わずか数メートルの位置を、霧に紛れて灰色の影が通り過ぎていく。
石を踏む鉄鋲ブーツの静かな足音。マントの擦れる微かな音。
遊撃兵は通り過ぎた。
奴の足音が川の轟音に完全に掻き消えるまで、俺は待った。
そこでようやく、一度だけ、深く慎重な呼吸を許した。
どれほど惨めな状況であろうとも、その瞬間だけは、自分が世界で一番の幸運に恵まれているように思えた。
だが、まだ先へ進まねばならない。
前方の霧が、禍々しい黄色を帯び始めた。
腐敗臭の代わりに、メタンと硫化水素の強烈で甘ったるい臭いが鼻を突く。
俺は〈死の沼〉の領域へと足を踏み入れていた。
ここでは足元の地面が消失し、泥炭と水が混ざり合った底なしの泥濘と化している。
『生きる意志』が環境の変化を捕捉した。
【警告。有毒ガスの濃度が許容量を超過。酸素欠乏の確率:高。推奨:身体活動を最小限に抑制してください。酸素の消費は極めて危険です】
突如、何かが水を派手に撥ね上げる、湿った重苦しい音が聞こえた。
それは俺と並行するように、10メートルほど離れた濃度を増したガスの向こう側を移動していた。
朽ち果てた切り株に身体を密着させ、俺は硬直した。
呼吸を、短く、完全に無音の断続的な吸気へと切り替える。
(今だけはやめてくれ……)
その時の俺の姿はあまりにも惨めで、脳内で知る限りの神々に祈りを捧げ始めていた。
神でも、仏でも、女神でもいい……。ただ、生き延びさせてくれ。
右方、霧の切れ間にそのシルエットが浮かび上がった。
粘液に覆われた巨大な巨躯。
それは、異常に長い四肢を持つ、皮を剥がれた熊のようだった。
俺は、自身に使える最後のトリガーを引いた。
強烈な意思の命令により、スキルを介して四肢への血流を完全に遮断する。
残されたすべての熱量を、脳と肺だけに集中させた。
皮膚が氷結していく。
あの怪物の熱源探知の視野において、俺は完全に消失し、凍りついた沼の背景と同化したはずだ。
魔獣は古い血と腐敗の臭いを残し、泥を鳴らしながら通り過ぎていった。
気配が完全に途絶えたのを確認し、俺は再び這い始めた。
意識が混濁し、世界の境界が二重にブレ始める。
(ゼノ? あんたなのか?)
ゼノが俺のすぐ隣を、泥に膝まで浸かりながら歩いているかのような錯覚。
返答はなく、陽炎は霧散した。
(クソ、この場所のせいで、もう自我が保てなくなりつつあるな)
それから5分ほどして、俺は枯れたケドルの根元にある、小さな空洞を見つけた。
理想的な場所だった。
風を遮り、より重く冷たい空気が滞留する、天然のポケット。
俺はその内部へと這いずり込んだ。
【システムは休眠モード(ハイバネーション)に移行します。エネルギー消費を5%まで削減。システムが致命的な崩壊に至るまでの時間:計測不能】




