第29話:グレーゾーン
第四セクターの夜明けは、最悪だった。
魔術スモッグで濃くなった空気は、まるで石灰の粉と焼けた羊毛を混ぜ合わせたかのようだった。
息を吸い込むたびに、喉が不快に削られる。
俺は不良品のように地下から引きずり出された。
無機質な鉄面をつけた二人の衛兵が、俺の両肘を掴んで前へと引きずる。
足はかろうじて地面をこする程度だ。
冷たい鉄の枷は、まるで足首に墓石を結びつけられたかのように重かった。
この鉄こそが、教団の呪いだ。
それは容赦なく体温を吸い上げていく。(素晴らしい技術だ、後でメモしておこう)。
冷気が手首から前腕へと這い上がり、血液を鋭く尖った氷の塊へと変えていくのを感じる。
だが……一週間前の俺なら恐怖したであろう思考に、俺は囚われていた。
――怖くない。
脈拍は一定のままだ。
手のひらに汗も握らない。
最悪なはずなのに、感覚は妙に冴え渡っていた。
(お前ら全員、ぶち殺してやる)
その思考だけが、脳裏にどす黒く定着していた。
この凍てつく朝、激しい殺意だけが、俺の身体を温めてくれる唯一の燃料だった。
いつも通り、中庭の中央には荷馬車が待機していた。
古びた尿の臭いが染みついた汚い藁の上へ、俺の身体が投げ込まれる。
衝撃が肋骨を突き抜け、強烈な吐き気の波となって跳ね返った。
正面には、リヒターが座っていた。
彼は剣の柄を固く握り締めている。
「お前が何かトチ狂った動きをするのを、俺がどれほど待ち望んでいるか、想像もつくまい」
リヒターが低く、乾いた声で吐き捨てた。
「お前の肺を突き刺す大義名分をくれ。ケインのプロトコルなど知ったことか。俺はただ、お前のそのドブ臭さをこの手で洗い流したいだけだ」
俺は黙秘した。
拳の中に握り込んだ、ゼノの鍵の感触を確かめる。
それは小さな鋼鉄の破片だった。
強く握り締めすぎて、エッジが皮膚を切り裂いている。
脳裏に、ゼノの言葉が濁流のように溢れ出した。
『生き延びろ、小僧。俺のことは気にするな。ただ振り返らずに走れ。走るんだ』
『だけど、俺が逃げたらあんたは死ぬ! そんなことできるわけ――』
『できるさ』
老人は言葉を遮った。
『俺だって、タダでここで大人しくしていると思うなよ』
彼の唇に、微かな笑みが浮かぶ。
『あっちで、自由の身でまた会おう! アイロン』
(ゼノ……どうして……)
一瞬の疑問が、胸を刺した。
馬車が揺れた。
油の切れた車軸の耳障りな軋み音が、脳髄へと突き刺さる。
俺たちは〈囁きの岩壁〉の方向へと進み始めた。
一時間が過ぎた。あるいは、二時間か。
薄暗がりの中、リヒターの剣の鈍い輝きだけが、かろうじて俺の現実を繋ぎ止めていた。
車輪がくぼみに落ちるたび、彼の身体が揺れ、その剣先が俺の喉元へと危うく接近する。
スキルが、鉛の壁と枷による抑圧場を強引に突破しようと蠢いていた。
そのパルスが弾けるたび、後頭部に強烈な電気ショックのような痛みが走る。
「中央ブロックに行けば、ただ『刻印』を刻まれるだけでは済まないぞ」
静寂を破り、リヒターが再び口を開いた。
「ケインはお前の脳を切り刻む。『したい』『したくない』を司る領域をな。お前は歩き、呼吸し、命令のままにその忌々しい魔法を使う。だが、内側はどうだ? そこにあるのは完全な虚無だ。絶対的な静寂だ」
彼は少し身を乗り出し、唇を歪めた。
「……実を言うとな、俺はお前が羨ましい。この地獄において、静寂は黄金ほどの価値があるからな」
俺は彼の見開かれた瞳を見つめた。
(こいつに対する最初の印象は、間違っていたな)
心の中でそう呟く。
外の空気が、急激に変化した。
車輪の轟音が、目に見えない岩壁に反響して立体的な響きを帯びる。
峡谷へと侵入したのだ。
こめかみに強烈な圧力がかかる。
手首の枷が、チリリと、かすかなガラスの擦れ合うような音を立てた。
抑圧場が、この山々が放つ混沌としたエネルギーと衝突し、システムにエラー(バグ)が発生したのだ。
指先の麻痺が、瞬時に灼熱の激痛へと変わった。
壊死しかけていた組織へ、血液が一気に逆流する。
爪の間に数千本の赤熱した針を突き刺されたかのようだった。
だが、俺の表情は石のように固まったままだ。
磁場の出力が弱まったこの瞬間を逃さず、俺はゆっくりと、数ミリ単位で、鍵の破片を枷の鍵穴へと差し込み始めた。
内部は固まった泥で詰まっている。
金属と金属が嫌な音を立てて擦れ合った。
リヒターがその微小な動きを捉えた。
彼の視線が、俺の手元へと一閃する。
「おい! 動くなと言ったはずだ!」
奴の顔が怒りで歪んだ。
剣先が俺の肩へと突き刺さり、上着の生地を貫いて肉へと達する。
「手を上げろ! 手を見せろ、クソ虫が!」
リヒターが身を乗り出し、本気で叩き斬るべく大剣を振り上げた。
その瞬間、荷馬車が激しく跳ね上がった。
車輪が猛スピードのまま、石畳の深い亀裂へと脱輪したのだ。
リヒターの身体が俺の方へと倒れ込み、彼の大剣が鉛の床に激突して激しい火花を散らす。
――唯一の、勝機。
鍵穴は完全にジャム(固定)しており、麻痺した指先にはそれを回す力が足りない。
ならば。
俺は全身の体重を乗せ、意図的に己の親指を限界まで捻り上げた。
関節を、へし折る。
――バキリ!
重厚な鉄の枷が噛み合わせを失い、両手首が解放された。
だが、解放感の代わりに訪れたのは、圧倒的な混沌だった。
抑圧フィールドが消失したことで、魔力が雪崩のように狂い咲く。
『生きる意志』が脳内で絶叫した。
視界が瞬時に灰白色へと染まる。
魔力が魔術回路を氾濫させていく。
スキルが俺の神経系の制御を強制的にハッキングし、限界点を突破させまいと暴走を防ぎ始める。
リヒターが上から押しつぶしてきた。
彼の重厚な甲冑が、俺を鉛の床へと圧殺する。
乾いた破壊音が響いた。――リアクターの負荷で痛めていた別の肋骨が、完全にへし折れた。
「この、化け物が!」
奴は顔中に唾を飛ばしながら猛り狂う。
剣を大きく振りかぶるスペースはない。
彼は短い、突き刺すような打撃を繰り返し、俺を床に釘付けにしようとした。
一撃目が脇腹を裂き、二撃目が太ももの深くまで突き刺さる。
俺の口が、音のない痙攣に開いた。
通常の人間ならショック死するレベルの激痛。だが『生きる意志』が意識を失うことを許さない。
スキルは過負荷となった痛覚受容器を完全に無視し、脳の神経回路を強制的に書き換え続ける。
「そして何より恐ろしいのは――俺自身、もうこの痛みがどうでもよくなっていたことだ。」
足首にまだぶら下がっていた鉄鎖が、リヒターの足を巻き込んだ。
(支点。作用点。力の入力)
俺は全身の質量をその一点に叩き込むように、全力で身体をひねった。
リヒターの関節が異常な方向へねじれる。
俺は奴の首元へと手を伸ばした。
指先はまともに動かなかったが、無理やり奴の喉元を締め上げる。
――砕けろ、へし折れろ。
「おい! 中で何が起きてる!」
御者の怒鳴り声が、風の音を突き抜けて外から届いた。
荷馬車が急激にスリップ(横滑り)する。
破れた幌の隙間から、峡谷の灰色の岩壁が高速で背後へと遠ざかっていくのが見えた。
リヒターが、鋼鉄に包まれた肘を俺の顳顬へと真横から叩き込んだ。
「お前らの……教団は……」
俺は奴の面頬に向けて血の塊を吐き散らしながら、掠れた声で呪った。
「……根絶やしだ……」
〈囁きの岩壁〉が目覚めた。
教団の探索魔術がすでに峡谷全域をなぞり始めている。――俺が放った、あまりにも巨大な魔力の奔流を感知したのだ。
「止まれ! 馬車を止めろ!」
リヒターが狂ったように叫んだ。この速度のままでは、馬車ごと崖下へと激突することに気づいたのだ。
俺は背後の幌を見つめた。
その向こうには、霧に覆われた完全な虚無(奈落)が広がっている。
(生存確率:10分の1以下。――だが、これが俺の選択だ)
リヒターの喉から手を離し、床に転がっていた奴の大剣を奪い取る。
奴が俺の上着を掴もうと手を伸ばした瞬間、大剣の重厚な鍔を、奴の顔面の中央へと全力で叩き込んだ。
骨の砕ける不快な音が響く。
リヒターは顔面を血に染め、激しくのけぞった。
俺は一歩、後ろへ下がった。
――虚空へと。
氷の突風が、肺に残されていた僅かな酸素を強引に毟り取っていく。
視界の奥で、教団の警戒魔術の紫煙に包まれた馬車が、みるみる小さくなっていくのが見えた。
――そして、衝撃。
岩だらけの川原へと、叩きつけられた。
左肩が、俺の全体重の運動エネルギー(キネティック・エネルギー)をダイレクトに受け止めた。
関節が、文字通り粉々に粉砕される。
『生きる意志』が、脳への致命的なショックを回避するため、限界警告を出力した。
視界が完全な漆黒に染まる。
そのまま斜面を転がり落ちていった。
鋭利な岩が筋肉を引き裂き、棘のある低木が顔面を激しく打ち据える。
スキルは、俺の脊椎を死守するためだけに、その残存リザーブ(エネルギー)を狂ったように燃焼させていた。
遥か上方、風の咆哮を突き抜けて、兵士たちの怒号が響いている。
口の中から泥水を吐き出した。
かろうじて無事な右腕だけを使い、苔に覆われた滑りやすい岩にしがみつきながら、俺は前へと這い進んだ。
やがて、ひとつの冷徹なロジックが脳裏に浮かび上がる。
(もしリヒターが、あの峠の時のようにすべての武装を備えていたら――俺の肉体は、塵一つ残らず消滅していただろうな)




