第28話:プロトコル外
重厚な青銅の鐘が鳴り響く、5分前。
俺は目を覚ました。
頭が割れるように痛む。
鼻腔にはまだ、焼けた肉とオゾンの臭いがこびりついていた。
口の中には、錆びた鉄の味が色濃く残っている。
それでも、昨日よりは幾分かマシな気分だった。
ベッドの端に腰を下ろす。
古びた木板が軋んだ。
視線が、ベッドの鉄製フレームの鋭くギザギザした角に止まる。
(あの金属に、喉を強く叩きつければ――)
5分ほどの痙攣。そして、静寂。
魅力的な思考だった。
周囲の世界が果てしない苦痛で満ちているなら、抗う意味などどこにある?
目を閉じる。
脳裏に、ジェラルドの顔が即座に浮かび上がった。
鎖に繋がれたまま力なく垂れ下がった身体。ヴァルトの凶行。リヒターの冷徹。ケインの脅迫。
――冗談じゃない。
絶対に、諦めてたまるか。
その瞬間、俺の頭脳はすでに、奴らを「どのように拷問してやるか」という具体的なプランを構築し始めていた。
無理やり身体を起こす。
甲冑のベルトを締めるたび、いつもの2倍の重みを感じた。
一晩のうちに、金属が鉛でも吸い込んだかのようだ。
『生きる意志』は沈黙していた。
「おい、クソシステム……働けよ」
歯を食いしばり、左の肩当てを固定しようとしながら呟く。
関節を鋭い激痛が走り、一瞬、視界が真っ暗になった。
扉の閂がけたたましく外れた。
二人の衛兵を従え、リヒターが姿を現す。
彼は俺を軽蔑の眼差しで見下ろした。
「出発の時間だ、検体アルファ。導師ケインがお待ちだ」
(ああ、そうかい、クソ野郎。今行くよ。……こいつのせいで腹が立ちすぎて、一瞬だけ地獄のような痛みを忘れたな)
「準備はできている」
俺は奴の顔を真っ直ぐに見据え、声に出した。
――10分後。
地上は、腐りかけたような夜明けで俺たちを迎えた。
〈死せる街区〉の空は、いつでも同じ――汚れた灰色だ。
俺たちは荷台に屋根のない剥き出しの馬車(なぜ護送馬車ではないのか、奇妙だったが)に揺られていた。
それを牽くのは、骨張った二頭のトカゲ(リザード)。
彼らの蹄が古代のひび割れた石畳を叩く。
朝の静寂に響くその音は、さながら葬送行進曲のようだった。
俺たちと同乗しているのは「エリート」どもだ。
正面には高位魔術師ケインが座り、膝の上に黄ばんだ地図を広げている。
その傍らにリヒターが立ち、剣の柄に手を添えていた。
道中、彼は何かを待つかのように、一度として俺から視線を外さなかった。
「よく聞け、検体よ」
ケインが眼鏡の位置を直しながら口を開いた。
その声は乾き、きしんでいた。
「〈影〉が古い市庁舎の廃墟に定着した。周囲の空間を歪めている。我々は外周の包囲網を展開する。お前の任務は、正面から突入することだ」
「奴を挑発して力を放出させ、そのエネルギー・パルスをお前のスキルで吸収しろ。奴が消耗した瞬間、我々がトドメの一撃を叩き込む」
俺は、視界を通り過ぎていく建物の骸骨を眺めた。
くり抜かれた窓が、まるで頭蓋骨の眼窩のように俺たちを凝視している。
「……人間はどうする?」
俺は尋ねた。
「地下室には避難民が暮らしているはずだ。彼らの焚き火の煙を見た」
「〈死せる街区〉に人間など存在しない。あるのはゴミだけだ」
ケインは冷淡に言い放った。
「掃討プロトコルに、付随的な要素への慈悲は含まれていない。お前の任務は異常現象の無力化だ。それ以外はすべて『統計的誤差』に過ぎん。理解したか?」
(統計的誤差……。そういうことかよ)
「理解した。実によく分かったよ」
俺は引きつった笑みを浮かべて答えた。
荷台の隅に座っていたゼノが、微かに身体を震わせた。
市庁舎から2ブロック離れた場所で馬車が止まった。
建物の壁面を黒い粘液が滴り落ち、音は形を成す前に掻き消えていく。
前方、廃墟の上空に、何かが揺らめいていた――巨大で、形を持たない闇の質量。
〈影〉だ。
「行け!」
リヒターが怒鳴り、俺の背中を乱暴に突き飛ばした。
砕けたアスファルトの上に足を踏み入れる。
その瞬間、俺の内側で『生きる意志』が鋭く悲鳴を上げた。
視界に赤いマーカーが明滅する。――照準レティクル、弾道、ベクトル。
俺は拳を握り締めた。魔力が、心音と同調して脈動し始めるのを感じる。
闇の中へと歩みを進めた。
こめの空気は、冷たく粘りつく樹脂のようだった。
都市の音――討伐兵たちの甲冑が擦れる音や、トカゲたちの乾いた咳払い――は完全に消失し、代わりに〈影〉そのものが放つ、低い、振動する地鳴りだけが響いていた。
『直接的魔力放射を確認。推奨行動:中心回路による吸収。目標の撃破確率:98%。周辺構造物の崩壊確率:100%。――許容範囲内です』
スキルが冷徹に審判を下した。
(許容範囲内だと?)
俺は心の中で毒づいた。
奴らの期待通りに行動しようとした、まさにその時。
半壊した薬局の2階で、何かが動くのが視界に引っかかった。
小さく、泥に汚れた顔。
5歳ほどの少女が、擦り切れた人形を胸に強く抱きしめていた。
「検体、撃て! 何を躊躇っている!」
闇の境界線の向こうから、魔術で増幅されたケインの怒号が届く。
〈影〉の核を撃ち抜いて大爆発を起こす代わりに、俺は側面へと跳んだ。
薬局の軒下の真下へ。
建物の基礎の下にある大地へと、己の魔力回路を強引に突き刺す。
「――局所的重力密度変更!」
〈影〉の足元にある魔力粒子の質量を強制的に増加させ、凄まじい高圧地帯を作り出す。
――理想的な解だ。
〈影〉が咆哮した。ガラスを金属で引っ掻いたような不快な高音。
闇は脱出を試み、黒い刃のような触手を俺に向けて振り下ろした。
衝撃が脇腹を捉え、甲冑を貫通する。
熱い血液が石畳の上に飛び散った。
その臭い――塩分と鉄の香りが、俺の安全装置を完全に焼き切った。
「俺は……ここを……崩壊させるわけには……いかないんだよッ!」
俺は喘いだ。
過負荷で全身の血管が弾けるのを感じる。
視界に血の斑点が広がっていく。
『生きる意志』は、この「不合理な」エネルギー消費を即座に停止し、セクター全体を消滅させるよう要求して狂ったように暴れていた。
(黙れ! これは俺の意志だ、お前のシステムじゃない!)
スキルに命令を叩きつける。
〈影〉は重力錨によって地面へと縫い付けられた。
罠にかかった獣のように、激しく脈動しながら縮小していく。
「ケイン、この……クソ老いぼれが!」
俺は血の塊を吐き出し、包囲網の方向を睨みつけた。
「渦の中心を撃て! 角度は45度だ! 今すぐやれ、さもなきゃ全員まとめて吹き飛ぶぞ!」
ケインが一瞬、躊躇するのが見えた。
俺の取った機動は、プロトコルには存在しない。
だが彼は理解したはずだ。異常体が完全に拘束され、「処分」の準備が整っていることを。
彼は放った。
目を眩ませる蒼い閃光が、凝縮された闇を貫く。
閃光。そして、轟音。
俺の身体は宙へと吹き飛ばされた。
煉瓦が骨と衝突する。
内側で何かが砕ける音が響き、その後に、静寂が訪れた。
耳鳴りが収まった時、俺は砕けた石と埃の山の中に埋もれていた。
呼吸をするだけで痛む。わずかな身じろぎさえ、肋骨に数千本の針を突き刺されるようだった。
首を巡らせる。
薬局は、立っていた。
黒焦げになり、窓ガラスは失われていたが、確かに崩壊を免れていた。
2階の窓は空っぽだった――どうやら少女は建物の奥へと避難できたようだ。
靴底が、砕けたガラスを踏み締める音。
ケインとリヒターが俺に近づいてきた。
彼らは、俺をまるで狂った獣でも見るかのような目で見下ろしていた。
「お前は……自分が何をしたのか理解しているのか?」
ケインの声は怒りで震えていた。
「明確なプロトコル違反だ。作戦の成功を危機に晒したのだぞ!」
俺は無事な方の腕を使い、肘で身体を少し起こした。顔の血を拭う。
「〈影〉は消滅した、導師。任務は完了だ」
「落ち着け、ケイン。これ以上騒げば、ヴァルト閣下のお耳に障る」
リヒターが淡々と言った。
「重要なのは、作戦が完遂されたという事実だ。そのプロセスなどどうでもいい」
「プロセスはどうでもいい、だと? もしこいつがすべてを台無しにしていれば――」
「――その時は、ゼノが死んでいただけだ」
リヒターが言葉を遮った。
ゼノが近づき、無言で俺の肩に手を置いた。
「……見事な立ち回りだった、小僧」
静かな声と共に、彼の治癒魔術が俺の肉体を癒やし始めた。




