第27話:マクスウェルの悪魔
鉄の馬車がわだちに跳ねるたび、枷が不快な金属音を響かせた。
対魔の鋼が手首を冷たく蝕み、体力を吸い上げていく。
薄暗がりの中、俺の正面にはゼノが座っていた。
老人は道中、一言も発しなかった。
まるで、目の前にあるのがただの空っぽの殻であるかのように。
「……戻るのだな」
ゼノは頭を上げぬまま、掠れた声で呟いた。
「一度はあそこから抜け出せたんだ」
俺は声が震えるのを堪えながら返した。
「二度目だって、やってみせる」
外から、巨大な門が開く轟音が響いた。
石を叩く車輪の音が、やがてトンネルの鈍い反響へと変わる。
馬車は山の胎内へと侵入し、日の光は完全に途絶えた。
俺たちは降下していく。
〈下層地平〉へ。
扉が乱暴に開け放たれると、オゾンと焦げたオイルの臭いが混ざり合った、乾燥した空気が俺たちを迎えた。
この場所は何も変わっていない。
コンクリートとパイプ、そして鈍い光を脈打たせる魔力ケーブルの迷宮。
修道院と工場を融け合わせたような、祈りの代わりに発電機の重低音が鳴り響く世界。
入り口には、リヒターが腕を組んで立っていた。
その甲冑には峠の泥がこびりついていたが、その眼光は鋼のように冷徹なままだ。
そして彼の傍らには、見た瞬間に激しい嫌悪と記憶が呼び覚まされる男がいた。
高位魔術師ケイン。
戦士の風貌ではない。
痩せ細り、仕立ての硬い漆黒のローブを纏い、その細い指先は常に薬品のシミで汚れていた。
「検体アルファ」
ケインが口を開いた。その声には一切の感情が欠落していた。
「随分と手を焼かせてくれたものだ。お前の起こした『物理的異常』のせいで、複数のセクターの均衡が崩壊しかけたのだぞ」
ゼノの威嚇の唸りを無視し、彼は一歩近づいた。
ケインはリヒターへと向き直る。
「傭兵は監禁ブロックへ。検体は〈セクター・ゼロ〉へ連れて行け。あそこは現在、魔力場の乖離が限界値に達している」
衛兵たちがゼノの身体を乱暴に掴んだ。
廊下の奥へと引きずられていく間、老人は抵抗らしい抵抗を一切しなかった。
「いいか、アイロン」
ケインが俺の耳元に顔を寄せた。
「お前がリアクターを安定させなければ、あの老いぼれが完全に息絶えるまで、何ボルトの電圧に耐えられるか、私が直々に試すことになる」
「……この、外道が」
俺は歯の隙間から言葉を搾り出した。
〈セクター・ゼロ〉の空気は、いつも通り重く、油じみていた。
壁面からは不気味な真紅の燐光が放たれている。
「枷を外せ」
リヒターが短く命じた。
衛兵が鍵を回すと、対魔の鋼が床へと転がり落ちた。
その刹那、圧縮されたバネが弾けるように、俺の内側から『生きる意志』が解き放たれた。
脳内へと濁流のように流れ込んでくる情報量に、俺の身体が大きくよろめく。
「急げ」
スピーカーからケインの乾いた声が響いた。
「リアクターが熱暴走を起こしている。魔術回路が制御不能の共振状態に突入した」
中央にそびえる主柱を見上げる。
巨大な黒曜石のシリンダーが、周囲の空間を二重に歪ませるほど激しく振動していた。
内部の魔力は、完全に密閉されたボイラーの中で過熱された高圧蒸気のように荒れ狂っている。
(粒子の運動エネルギーが過剰だ。システムのエントロピーが最大値へ向かっている)
「……下げてやらさ」
燃え盛る金属へと一歩を踏み出しながら、俺は呟いた。
両手を前方へと突き出す。
熱気で指先から煙が立ち上り始めたが、スキルの恩恵によって痛みは感じない。
(熱力学第二法則――『マクスウェルの悪魔』)
俺は魔力の奔流を強制的に選別し始めた。
高エネルギー粒子を一方へ、低エネルギー粒子をもう一方へ。
人工的な勾配を形成し、混沌とした無秩序な運動を、秩序ある渦へと書き換えていく。
――局所的エントロピー減少。
それは、凄絶なまでの負荷を伴う作業だった。
魔力が俺自身の回路を焼き焦がし、血管の中で血が沸騰していくのを感じる。
鼻腔を、強烈なオゾンと何かが焦げる臭いが貫いた。
「大人しく……なれッ!」
残された全出力を注ぎ込み、俺は咆哮した。
視界に黒い斑点がチカチカと浮かび、口内に鉄錆の味が広がる。
――内臓出血だ。
耳を聾するほどの凄まじい風切り音と共に、リアクターが蒸気の塊を吐き出した。
真紅の禍々しい光が引き、平穏な、氷のような蒼い光へと変貌していく。
地鳴りのような轟音は収まり、規則正しい、微かな駆動音へと落ち着いた。
俺はその場に膝を突き、熱を帯びた空気を激しく貪った。
「そこまでだ」
隔壁のガラスの向こうで、ケインが満足そうに頷いた。
「生きているな。リアクターも無事だ」
リヒターが俺に近づき、襟首を乱暴に掴み上げて立たせた。
「動け。貴様には『休息』が必要だ」
「明日、地上へ行ってもらう。〈死せる街区〉だ」
廊下を引きずられていく。
自分がどこへ向かっているのか、思考はまともに働かなかった。
足はコンクリートの床を引きずり、頭は力なく胸元へと垂れ下がっている。
狭苦しい資材室のような部屋へ、俺は放り込まれた。
そこには、脚の歪んだベッドが一つあるだけだった。
重厚な鉄扉が、激しい金属音を立てて閉ざされる。
ブーツすら脱ぐ気力もなく、俺はマットレスの上へと倒れ込んだ。
わずかな身じろぎさえもが拷問だった。
脳裏には未だリアクターの残響が鳴り響き、瞼の裏にはジェラルドの顔が焼き付いて離れない。
(お前はただの道具だ、アイロン)
(従順であれ)
他者の冷酷な言葉が意識の底でリフレインする。
それを最後に、俺は深く、泥のような無意識の闇へと堕ちていった。




