第26話:ごめん
「見ろ」
ゼノが息を吐き出し、俺たちの目の前の虚空を指さした。
地上数メートルの空気が渦を巻く。
その渦の中心から、完璧に滑らかな、光り輝く球体が浮き上がってきた。
球体の内部に、ランプの温かい光に満ちた部屋の光景が映し出される。
導師ヴァルトの執室だ。
俺はその場所を見たことがなかった。
だが、ゼノが杖を強く握り直したその様子だけで、すべてを理解した。
球体の中心、椅子に腰掛けたヴァルトは、退屈そうな表情を浮かべていた。
壁際、重厚な鎖に縛られた一人の男が立っている。
その顔面は完全に血の仮面と化し、片目は腫れ上がり、呼吸のたびにヒューヒューと喘鳴を漏らしていた。
ゼノの喉から、唸り声の混じった、押し殺した嗚咽のような音が漏れた。
「……ジェラルド」
俺は球体から老へと視線を移した。
「誰だ? ゼノ、その男は誰なんだ?」
老人は答えず、震える手を伸ばしながら、まるでその映像に触れようとするかのように球体へと一歩を踏み出した。
その瞬間、映像の中のヴァルトがゆっくりと立ち上がった。
彼は囚人へと近づき、見向きもせずに、そのみぞおちへと容赦ない一撃を叩き込んだ。
ジェラルドは身体をくの字に折り曲げ、苦悶の咳を漏らしながら、綺麗な絨毯の上へ血を吐き散らした。
「やめろ!」
ゼノが咆哮した。
「貴様、やめろ! そいつは関係ない!」
球体の中のヴァルトが、ようやく俺たちを真っ直ぐに見据えた。
薄い笑みが、その唇に刻まれる。
「おや、大いに関係があるとも。我が愛しのゼノよ」
俺は呆然と立ち尽くしていた。
ゼノの隠し事、〈主〉に関するお伽話、そしてこの峠の謎が、脳裏をぐるぐると駆け巡る。
「ゼノ、説明してくれ」
俺は彼の肩を掴み、強引にこちらを向かせた。
「あいつは、誰なんだ?」
ゼノが俺を見た。
その瞳に宿る絶望的な苦痛に、俺は物理的な吐き気を覚えた。
「ジェラルドだ……」
彼は掠れた声を出した。
「俺たちが今、ここに立っていられる理由だ」
俺は再び球体に目を戻した。
囚人――ジェラルドが、ゆっくりと頭を上げた。
血と汗に塗れた視界の向こうで、彼は必死に俺たちを見定めようとしていた。
その唇が動いたが、出てきたのは言葉にならない呻きだけだった。
「十分に楽しんだだろう。かくれんぼは終わりだ」
ヴァルトの声が響く。
「これから起こることを一瞬たりとも見逃さぬよう、私が峠の機能を停止させてやった。チャンスは一度きりだ、アイロン。自発的に本部へ戻れ。今すぐにだ」
映像の中のヴァルトは、大裟に人差し指を唇に当て、俺たちに沈黙を促した。
「私は同じことを二度言わせるのが嫌いでね」
導師は言った。
「今すぐ降伏しろ。さすれば、お前たちの友人の命を、あと数分だけ永らえさせてやってもいい」
彼が指を鳴らした。
ジェラルドの唇を覆っていた光の帯が、火花となって霧散するのが見えた。
囚人は狂ったように息を吸い込み、その胸を激しく上下させる。
「ゼノ! アイロン!」
ジェラルドの声は嗄れ、ひび割れていた。
「奴の言うことを聞くな! 逃げろ! ノイズが戻る前に、峠の奥へ行くんだ! 俺のことはどうでもいい……ゼノ、その小僧を救ってくれ! 走れ、アイロン!」
「黙れ!」
ゼノが杖を地面に叩きつけると、岩肌に鋭い亀裂が走った。
「見捨てるわけがないだろう、大馬鹿者が! 必ず助け出してやる!」
ヴァルトは失望したようにため息をついた。
「不正解だ」
導師はゆっくりとジェラルドの方を向いた。
真っ白な手袋に包まれたその手の中に、純粋に凝縮された魔力の、細い針のような短剣が具現化する。
「やめろ!」
俺は一歩踏み出し、まるでヴァルトの手首を掴み取れるかのように球体へと手を伸ばした。
「降伏する! 聞こえるか! 止まれ!」
ジェラルドの目が大きく見開かれるのが見えた。
彼は、胸が締め付けられるほどの感謝の念を込めて、俺を見つめていた。
ヴァルトが軽く手首を動かした。
光の短剣が、ジェラルドの胸、その心臓の位置を正確に貫いた。
ジェラルドの身体が激しく跳ねた。
その口が音のない悲鳴に開き、唇の端からドス黒い濃厚な血液が流れ落ちる。
彼はゼノを見つめ、その唇を微かに震わせながら、最後の、かろうじて読み取れる「すまない」を形作った。
そして、唯一無事だった瞳から光が失われた。
肉体から完全に力が抜け、鎖に吊るされただけの物言わぬ塊と化す。
「――あああああ! ジェラルド!」
ゼノの絶叫が峠の静寂を切り裂き、岩肌に衝突して木霊した。
老人はその場に膝から崩れ落ち、手から杖が転がり落ちた。
顔を両手で覆う彼の隙間から、俺が最も恐れていたもの――乾いた、引き裂かれるような泣き声が漏れ聞こえてきた。
そして、俺の内側で――何かが、カチリと音を立てて噛み合った。
俺はジェラルドという男を知らない。
だが、俺たちの心をへし折るためだけに、一人の人間を殺害した。
常に均衡と論理を求め続けていた俺の脳細胞が、今、唯一無二の命令を出力した。
――『排除』。
周囲のエントロピーが急激に低下し始める。
『生きる意志』が俺自身の限界を強引にハッキングし、全身のあらゆる細胞からエネルギーを搾り出していくのを感じる。
握り締めた拳の周囲の空気が凝縮され、黒い火花を散らし始めた。
「この、化け物が……」
俺は、未だに薄笑いを浮かべている球体の中のヴァルトを睨みつけた。
「誓ってやる……俺がこの手で、お前を殺す」
球体は突如として明滅し、掻き消えた。
俺たちは再び灰色の霧の中に取り残される。
山麓の森の方向から、数百の甲冑が擦れる金属音と、突撃を命じるリヒターの怒号が響き渡った。
「ゼノを殺せ!」
魔術で増幅されたリヒターの声が轟く。
「検体アルファは生け捕りにしろ! たとえ全身の骨を粉砕することになろうとも構わん!」
ゼノがゆっくりと膝を立てた。
その顔面は死人のように蒼白だったが、瞳の奥には憎悪の真紅の炎が狂おしく燃え盛っている。
彼が手を突き出すと、周囲の空気が真空の強襲刃へと変貌した。
「来い、リヒター!」
老人が地鳴りのように吼えた。
「今日、すべてのケリをつけてやる!」
世界の流れが、俺の主観の中で急激に減速していくのを感じた。
最初の一人が、巨大な両手剣を振り上げた。
「――負のエントロピー(ネガティブ・エントロピー)」
周囲1メートルの空気が、瞬時に絶対的な臨界温度まで冷却される。
窒素が液化し、瞬く間に凝固へと転移した。
将校は剣を振り下ろす体勢のまま、氷の彫像へと変貌して硬直する。
熱収縮の凄まじい圧力によって甲冑が爆ぜるように軋み、奴の肉体は微細な破片となって砕け散った。
二人目と三人目が、両側面から肉薄してくる。
「――運動量転換」
奴らの放った剣撃は、その運動エネルギー(キネティック・エネルギー)を完全に保持したまま、軌道を真逆へと変えた。
脳細胞が沸騰していくのを感じる。
全身が灼熱に見舞われ、暴走する魔力が神経系の回路を焼き乱していく。
残りの七人が、数の暴力で押し潰そうと俺を包囲した。
「――局所的重力定数変更」
俺は地面に向けて、鋭く手のひらを振り下ろした。
兵士たちの足元の重力値が、瞬時に10倍へと跳ね上がる。
悍ましい骨折音が響き渡った。
将校たちは硬質な岩盤へと叩きつけられ、泥の中に深く圧殺された。
十歩ほど離れた場所で、リヒターが強烈な盾撃によりゼノを吹き飛ばした。
老人は激しく喘ぎ、その防御障壁がエラーを起こして霧散していく。
リヒターがトドメの一撃を放つべく大剣を上段に構えた。面頬の奥で、その瞳が冷酷に光る。
「終わりだ、老いぼれ」
リヒターが歯の隙間から呪詛を漏らした。
「止まれ――!」
俺は声を枯らして絶叫した。
懐から巡回兵のナイフをむしり取り、己の頸動脈へと強く押し当てる。
「一歩でも動いてみろ、この場で喉を掻き切る!」
リヒターの動きが止まった。
大剣の刃は、ゼノの首筋からわずか数センチの距離で静止している。
彼はゆっくりと俺に首を巡らせた。その眼差しにあった困惑は、即座に軽蔑へと塗り替えられる。
「見え透いたハッタリを。お前にそんな真似ができるはずがない、小僧」
「やるさ」
俺は刃をさらに押し込んだ。
皮膚が裂け、首筋を細い鮮血の糸が流れ落ちる。
「俺が死ねば、お前の導師は任務失敗の責任を問うて、お前を木っ端微塵にするだろうよ。選べ」
空間に、張り詰めた重苦しい緊張が満ちる。
突如、リヒターの肩に装備された魔導通信器から、ヴァルトの低く、静かな声が響いた。
『――リヒター。殺害を中止せよ。両者を生け捕りにしろ』
リヒターの身体がびくりと震えた。
「しかし閣下、当初の計画では……」
『計画は変更された』
ヴァルトの声は冷徹で、乾ききっていた。
『検体アルファはゼノのために自害を辞さない構えだ。ならば、その傭兵を奴隷(人質)とせよ。ゼノの生命の安全が担保されている限り、検体アルファは従順に機能するはずだ』
リヒターは剣の柄を強く握り締めたが、命令に背くことはできなかった。
彼はゆっくりと刃を下ろした。
「運が良かったな、ドブ鼠め」
ゼノに吐き捨てると、彼は俺に鋭い視線を向けた。
「ナイフを捨てろ。今すぐにだ」
俺はゆっくりと指の力を抜いた。
金属音を立てて、ナイフが石の上に転がる。
生き残った討伐兵たちが即座に俺へと飛びかかり、両腕を背後へ捻り上げると、手首に重厚な〈対魔の鎖〉を厳重に巻き付けた。
俺たちは、教団の漆黒の、鉄板で補強された護送馬車の中へと放り込まれていった。




