第25話:逆位相
俺たちは中腹、〈峠〉のまさに心臓部へと到達した。
視界にはしきりに「死んだ画素」が明滅し、耳鳴りは質量を持つかのように濃密だった。
一歩進むごとに、身体が重くなる。
急勾配のせいだけではない。空気中の魔力が、物理的に俺たちの前進に抵抗しているのだ。
「静かに」
ゼノが前方にある細かな砂利の帯を指さし、唇の動きだけで言った。
「このクソを踏めば、魔獣の群れのような音を立てることになる」
俺は立ち止まり、散らばる小石を凝視した。
『生きる意志』に触発された俺の脳は、無意識に状況の解析を始めていた。
頭の中に、音響工学の講義がよみがえる。
音とは機械的な波だ。
そして、いかなる波も相殺することが可能である。
「ゼノ、待ってくれ」
俺は集中しながら、微かに囁いた。
「試してみたいことがある。地面を踏み締める足の衝撃を計算できれば……」
プロセスを視覚化しようと試みる。
靴底が砂利に触れる瞬間、特定の周波数と振幅の波が発生する。
もし、その極小の時間軸の中で、全く同じ振幅で「逆位相」の魔力パルスを作り出せれば――。
理論上、両者は互いに打ち消し合うはずだ。
以前にも一度、似たようなことをやった。
いけるはずだ。
数学的には、完璧だった。
俺は己の足に意識を集中させ、前方の石の密度を「手探り」した。
『生きる意志』が従順にベクトルを明示し、踏み込む圧力を計算する。
一歩、踏み出した。
――ザリ。
音は短かった。
だが、この峠の静寂においては、銃声のように響き渡った。
心の中で毒づく。
周囲の魔力が不安定すぎたのだ。
俺の放った「逆パルス」は、空間の中でただ無残に霧散した。
位相の相殺は起きず、むしろ二倍の振動となって跳ね返り、俺の膝に鋭い激痛を刻み込んだ。
「大天才サマだな」
ゼノが苦笑しながら、俺の肘を支えてくれた。
「発想は美しいが、ここじゃお前の論理は確率でしか機能せんよ」
足元を、冷涼な空気が渦巻くのを感じた。
ゼノが俺たちの靴底の下に、圧縮された風の薄いクッションを生成したのだ。
「俺の魔法は『感覚』だ、アイロン」
危険なエリアを引っ張るように進みながら、老人は静かに言った。
「お前の制御が未熟で、魔力も不安定な内は、その計算をこの世界に定着させることはできん。計算するだけでなく、この狂った世界の拍動に合わせて呼吸することを覚えろ」
俺たちが峠を這い進んでいる頃――。
リヒターは本隊の最後尾から、一定の距離を保って歩いていた。
彼は、目立たない岩の山の前で足を止めた。
ここの霧は特に濃く、...そして、臭いが変わっていた。
オゾンと腐敗臭の中に、生々しい血の、明確な金属質の香りが混じり合っている。
リヒターが二人の護衛兵に合図を送ると、彼らは盾を構えて深い茂みへと踏み込んだ。
一秒後、一人が嘔吐感を噛み殺すようにして、飛び退いてきた。
「リヒター卿……。我々の身内です。先遣ドローンの……」
リヒターが近づく。
岩の根元に、二つの死体が横たわっていた。
柔らかい組織は貪り喰われ、甲冑は缶詰の缶のように爪で引き裂かれている。
関節の数が多い、毛の抜けたキツネのような小動物どもが、彼の接近を察して鳴き声を上げながら四方に散っていった。
リヒターは悪臭を無視して、その場に屈み込んだ。
剣の先端で、死者の一人の引き裂かれたマントを慎重に退ける。
「よく見ておけ」
振り返ることもなく、彼は言った。
「魔獣どもが群がってはいたが、それが致命傷ではない」
彼は兵士の首を指差した。
無数の噛み傷の隙間からでも、特徴的なねじれ角が見て取れた。
「頸椎の破砕。そして二人目は、後頭部基底の破壊。……ゼノだな」
傍らに歩み寄った将校の一人が、眉をひそめた。
「では、奴らを痛めつけた上で、魔獣の餌食として放置したと? なんという残酷な……」
リヒターは前方の、灰色の霧の彼方へと消えていく小道を見つめた。
その表情は冷徹なままだったが、瞳の奥で冷たい炎が燃え上がり始める。
「奴らはここにいる。極めて近い」
「巡回兵と直接交戦する道を選んだということは、ゼノも焦り始めている証拠だ」
「追撃班――強行軍の用意を。隠密性は不要だ。魔獣が襲ってくれば、根絶やしに焼き尽くせ。我々に必要なのは、検体アルファだけだ」
音を聴くよりも先に、俺は奴らの気配を察知した。
ゼノの反応は瞬発的だった。
俺の首根っこを掴み、切り立った二つの岩の狭い隙間へと強引に引きずり込む。
俺たちは灰色の岩と同化するように、息を潜めた。
一秒後、霧の向こうから十二人の男たちが姿を現した。
教団の将校たちだ。
峠の靄の中で鈍く輝く刻印が施された、重厚な半甲冑を身にまとっている。
彼らは高密度な集団を維持し、寸分の狂いもない同調で前進していた。
一歩ごとに、地面が重苦しい地鳴りを立てる。
俺は、己の心音さえもが命取りになることを恐れ、呼吸を完全に止めた。
なぜだ。
どうやって奴らは、これほど早く峠の中腹まで到達できた?
俺もゼノも、完全に引き離したと思っていたのに。
奴らは、俺たちの潜伏場所からわずか五メートルの距離を通過していった。
最後の一人が霧の彼方へと消えた時、俺はようやく息を吸い込むことができた。
「移動するぞ」
ゼノが張り詰めた声で囁いた。
「奴らは側面から回り込んでいる。この峡谷に閉じ込められたら、俺たちの負けだ」
俺たちはゆっくりと岩の隙間から這い出し、風下を維持しながら、あらゆる岩の突き出しを遮蔽物として利用した。
将校たちの集団を迂回するため、滑りやすい巨岩を乗り越え、大きく回り道を強いられる。
筋肉は疲労で悲鳴を上げ、意識は周囲の奇妙なアномаリ(バグ)を幾度となく捉え続けていた。
――だが、唐突にすべてが一変した。
俺があまりにも急激に足を止めたため、ゼノが背後から衝突しかけた。
周囲を見回した瞬間、皮膚に凄まじい鳥肌が立つ。
「ゼノ……」
俺は低く、震える声で彼を呼んだ。
「……これ、気づくか?」
ここ数時間、俺の耳を苛み続けていた地鳴りが、完全に消失していた。
絶え間ない空気の振動、視界の「死んだ画素」、空間の無秩序な明滅――そのすべてが、綺麗さっぱり霧散している。
俺たちの周囲の魔力が、ピタリと脈動を止めていた。
近くにある木の枝に目をやる。
それはもう震えてもおらず、透過することもない。
ただの、ありふれた森にある一本の枝だった。
「ゼノ……」
胸の奥からせり上がる、粘りつくような恐怖を感じながら、彼を振り返る。
「この峠の、あの狂った無秩序が……『正常』に戻ったと思わないか?」
老人は微動だにせず佇んでいた。
その指先は、白くなるほど強く杖の柄を握り締めている。
彼はゆっくりと、周囲の景色を見回した。
静寂が、世界を支配していた。
風のそよぎもなく、崩壊していく現実の軋みもない。
ただ、俺たちの荒い呼吸音だけが響いている。
「……どうやら、お前の言う通りのようだな」
ようやく、彼がそう応じた。




