第23話:真なる主は誰か?
空気はさらに密度を増し、歯の根が浮くような周波数で振動していた。
〈峠〉はすぐそこだった。
混沌とした魔力の圧力によって、物理法則そのものが「バグ」を起こし始めているのを感じる。
前方を歩くゼノのシルエットが、灰色の岩肌を背景に、黒くにじんだシミのように見えた。
「……もし、あのガキの言葉が嘘でなければ……あの〈歪みし者〉どもは、奴が存在することによる、ただの副産物に過ぎん……」
俺は足を止め、息を整えるために冷たい岩に背を預けた。
「……一体、何の話をしてるんだ?」
ゼノはびくりと身体を震わせ、鋭く振り返った。
一瞬だけ、その眼差しに険しさが宿る。
「あ? どうした、アイロン」
「『副産物』だ」
俺は彼を注意深く観察しながら、その言葉を繰り返した。
「さっき俺たちが殺した怪物どものことだろ。どういう意味だ?」
ゼノは手を振り、再び歩行ルートへと視線を戻した。
「ただの独り言さ、小僧。年を取ると脳味噌から色々と漏れ出すようでな。気にするな、峠はもうすぐだ。動くぞ」
俺はその場から動かなかった(駄々をこねるガキのモードに入る)。
「……そういうことか」
声に、疲れ切った落胆の響きをわざと混ぜてみせる。
「あれだけのことがあった後だってのに、あんたはまだ俺を信用してくれないわけだ」
ゼノは足を止めたが、振り返りはしかった。
「いいさ」
俺はため息をつき、わざとルートから一歩外れた方向へ足を向けた。
「俺がただの足手まといで、会話をする価値すらない人間だっていうなら……ここで別れた方がいいかもな」
「――クソ生意気な交渉術め。わかったよ、そこに少し座れ」
俺は平らな石の上に腰掛け、次の言葉を待った。
ゼノは杖に身を預け、視線を地平線の彼方へと向けた。
「何年も前、ある任務の途中で一人のガキと出くわした。歳は18か20そこそこだったな。奇妙な奴だった、顔立ちの割に、目がやけに老成していてな」
「俺たちは、あの四本腕の連中よりもタチの悪い怪物どもに囲まれ、とある遺跡の中に閉じ込められていた。だが、そのガキは完全に落ち着き払った様子で、俺にこう言ったんだ」
「『魔力の裂け目から這い出てくるすべての〈歪みし者〉、すべての恐怖は、ただ一人の存在――〈真なる主〉が存在することによる副産物に過ぎない』とな」
「『真なる主』?」
俺は訊ねた。(いかにもファンタジーじみた、ありふれた称号だ)
「そうだ。だが、あのガキは冗談抜きで大真面目だった。奴に言わせれば、その『主』とやらは何をする必要もない。奴の持つエネルギー、すなわち〈混沌の魔力〉があまりにも濃厚で不安定なため、周囲の現実そのものを汚染してしまうらしい」
「ありふれた自然の世界を取り込み、歪め……あんな怪物へと変質させる。ガキは、その主のことを、連中の『父親』と呼んでいたよ」
俺は上体を後ろにそらし、喉から乾いた薄笑いを漏らした。
「あんた、本気でそんな話を信じたのか? ゼノ、よしてくれよ。俺の……故郷じゃ、そんなお伽話は子供を夜遅くまで出歩かせないための口実に過ぎない。座敷童だの、幽霊だの、ベッドの下の怪物だのな。人間が理解できない現象を説明するための、ただの伝承だ」
ゼノは肩をすくめたが、俺の笑いに同調することはなかった。
「そうかもしれん」
「あいつの名前を訊いたのか? あるいは、その『主』とやらを自分の目で見たのか?」
「いや、名前は訊いていないし、『主』も見てはいない」
「つまり、行きずりのガキが語ったお伽話を、あんたは今までずっと反芻していたわけだ」
俺は首を横に振った。技術者としての懐疑心が目を覚ます。
「高レベルの魔力放射が引き起こした、ただの突然変異の可能性が極めて高いな」
「……まあ、お前の言う通りだろうさ」
ゼノは力なく、疲れ切った笑みを浮かべた。
15分後。
「おい、顔を上げろ、小僧。着いたぞ」
俺は何かしら壮大な光景を期待して顔を上げた。
空に広がる炎の裂け目や、浮遊する巨岩、あるいは地中から噴き出す雷撃といったものを。
だが、見えない境界線を越えた先にあっても、世界は……ただの世界のままだった。
同じ岩だらけの斜面、同じ松の木、そして同じ灰色の霧。
「これだけか?」
俺は困惑して周囲を見回した。
「これが、あんたの言う峠なのか? ただの、少し荒れ果てた森にしか見えないが」
「お前の目が騙されているのさ」
ゼノは歩調を緩めもしなかったが、杖を握る手にぐっと力がこもるのを俺は見逃さなかった。
「外側の表皮を見るな。それが『どう駆動しているか』を見ろ」
俺は意識を集中させた。
技術者として、俺はあらゆるプロセスには論理と構造があるという前提に慣れていた。エネルギーは点Aから点Bへと流れるものだ。
だが、ここは……ここでは魔力が「バグ」を起こしていた。
俺たちの周囲のエーテルは、文字通り「ホワイトノイズ」となって爆発している。
魔力は不自然に跳ね、方向を変え、虚無へと収縮したかと思えば、次の瞬間には再生成される。
無秩序で、予測不可能。そして……俺の頭脳にとって、狂おしいほどの激痛を伴う光景だった。
「……理解した」
こめかみに手のひらを当てながら、俺は呟いた。
「その通りだ」
ゼノが頷いた。
俺たちは峠の森の奥深くへと進んだ。
ここでは影の落ち方さえも歪んでいた。ランダムな法則で、伸びたかと思えば不自然に縮む。
俺は空気が特に「過密」に感じられる領域を避けながら、ゼノの足跡を正確になぞるように歩いた。
奇妙な場所だ。一見するとありふれた自然だが、現実感そのものが、ガラス細工のように脆く感じられる。
「さらに深部へ向かう必要がある」
ゼノが青みがかった苔に覆われた、巨大な岩の山を指差した。
「あの岩間に入れば、俺たちの生体放射はこの背景ノイズと完全に同化する。日没まであそこで持ちこたえれば、お前の言葉を借りるなら、俺たちは『幽霊』になれる」
俺は同意の意を示して頷いたが、胸の内の疑念が完全に消えたわけではなかった。
確かにここは教団の「死角」かもしれないが、果たして本当に奴らは追ってこられないのだろうか。
体内で、スキルが神経質に脈動しているのを感じる。まるで、何かに警告を発しているかのように。
「急ごう」
俺は歩調を早めた。
背後の木の枝が一瞬だけ完全に「透過」し、次の瞬間には再び実体を取り戻すという異常現象から、努めて目を背けながら。
「ここは、どうにも居心地が悪すぎる」
峠の内部でその特異な現象が渦巻いていた頃、その麓の峡谷はまさに地獄と化していた。
リヒターの部隊は、魔獣の群れのド真ん中へと突っ込んでいた。
あらゆる岩の隙間から〈歪みし者〉が這い出てくる。
ゼノとアイロンの見事な連携とは異なり、教団の凡庸な討伐兵たちは、肉と爪の雪崩の中に為す術もなく呑み込まれていった。
「盾を構えろ! 陣形を維持せよ!」
将校が声を枯らして怒鳴り散らしたが、その叫びは湿った破壊音によって遮られた。
四本腕の怪物が一跳びで間合いを詰め、兜の破片ごと彼の頭部をねじ切ったのだ。
リヒターはその屠殺場の中を、剣を抜くことすらなく歩んでいた。
純粋な魔力で形成された細い刃が彼の周囲を高速で旋回し、接近を試みるあらゆる怪物の四肢を正確無比に切断していく。
冷たい石の上で内臓を湯気立たせている若い護衛兵の死体をまたぎながらも、彼は一瞥すらくれなかった。
その視線はただ一点、遥か上方――〈峠〉の存在する山頂へと向けられていた。
同時刻、そこから数百マイル離れた上層地平の静寂な執務室。
導師ヴァルトは、巨大な魔導球の前に微動だにせず座していた。
結晶の表面は淡い青い光を放ち、鳥瞰映像を投影している。
そこには険しい稜線、下方で蠢く討伐兵たちの点、...そして峠の奥深くへと進む、二つの極めてかすかな光の粒子が映し出されていた。
導師の傍ら、冷たい壁に背を預けるようにして、ジェラルドが立たされていた。
彼の身体は光り輝く魔力の鎖によって完全に拘束されており、わずかでも動けばその鎖が容赦なく皮膚へと食い込む。
その唇には〈沈黙の烙印〉――声を出すことを一切禁じる不可視の魔術の帯が定着していた。
唯一無事な片目が魔導球の映像の上を激しく彷徨い、怒りの炎で満たされていく。
ヴァルトはゆっくりと手を伸ばし、魔導球の表面を指先でなぞった。
「見えるか、ジェラルド?」
導師は静かに言った。
囚人へと首を巡らせるその瞳の奥に、冷酷な、勝利を確信した炎が灯る。
「奴らは自ら進んで檻へと足を踏み入れた。あのような手合いを仕留めるために、私が長年をかけて構築した檻だ」
「間もなく、我々の大いなる計画が具現化する。...そして我が愛しの衛兵よ、お前はそれを特等席で見届けるのだ」
ヴァルトは薄笑いを浮かべ、再び魔導球へと視線を戻した。
投影された映像の奥で、アイロンとゼノを示す小さな光点が、エーテルの静電気の中へと溶け込んで消えていく。




