第22話:純粋なる物理学
森が次第に薄くなり、衣服にまとわりつく鋭い灰色の岩肌と、刺だらけの低木が姿を現し始めた。
ここの空気は違っていた。
物理的な重みと密度を伴って、肺に圧しかかってくる。
呼吸を吸い込むたび、奥深くに奇妙な金属質の味が残った。
「……まだ遠いのか?」
完全にオートパイロット状態で足を動かしながら、俺は掠れた声を絞り出した。
脳内の計算機構が、頑なに数値を弾き出し続ける。
傾斜角、約30度。
肉体のエネルギー消費、限界値。
『生きる意志』の稼働率、わずか5パーセント。かろうじて血管の緊張を維持している状態。
「耐えろ」
ゼノは前方を歩いていた。その呼吸はほとんど乱れていない。
あの年齢でどうしてそれが可能なのか、俺には全くの謎だった。
「空気が揺らいで見えるだろう? あれが〈峠〉の境界だ。あそこでは魔力の奔流がズタズタに引き裂かれ、互いに衝突し合っている」
目を凝らす。
確かに、岩だらけの稜線の上の空間が、細かく波打っていた。
「なぜ、そんな場所へ向かうんだ?」
額の汗を拭い、泥を顔に擦り付けながら尋ねる。
「危険すぎる」
「危険だな」
ゼノは振り返ることもなく同意した。
「だがリヒターにとって、あの峠はホワイトノイズの壁のようなものだ。奴らの探索魔術はあそこでは目も耳も塞がれる。〈引き裂かれたエーテル〉の領域に入り込めば、完全に俺たちを見失う。尾行を撒く唯一のチャンスだ」
俺は頷き、ふくらはぎの痛み以外の何かに意識を集中させようと試みた。
歩きながら、俺はある実験を始めていた。
己の持つ慣性のベクトルを「手探り」しようとしたのだ。
それは凄まじい集中力を要した。
歩行時の抵抗を減らすため、目の前の空気の密度をわずかに変化させようと試みる。
ほんの一瞬だけ、成功した。
空気が一瞬だけ「液体」のようになり、一歩が軽くなる。
だが、その極度の緊張のせいで、こめかみに鋭い激痛が走った。
(前はもっと、簡単にできたはずなのに……)
「あまり無茶をするな」
ゼノが歩調を緩め、俺の隣に並んだ。その視線が俺の顔をかすめる。
「エーテルが不安定な峠の領域だ。お前のその妙な魔術は、俺たち自身に牙をむく可能性がある」
「この状態で自分がどこまでできるか、確かめておきたいだけだ」
息を吐き出す。
「また襲撃された時、足手まatoiになりたくない」
「すぐに分かるさ」
ゼノが唐突に足を止め、杖を握り直した。
「――匂うか? 腐敗臭だ。この峡谷は、太陽の光を嫌い、乱れた魔力を喰らう連中にとって最高の根城だからな」
耳を澄ます。
すぐ近くの岩の張り出しの向こうから、低い、地鳴りのような唸り声が聞こえてきた。
項の毛が逆立つ。
「構えろ」
ゼノの命令とともに、彼の杖が淡い青白い光をゆっくりと放ち始める。
濃く粘りつく霧の向こうから、奴らが突撃してきた。
〈歪みし者〉だ。
死んだ魚のような灰色の皮膚に覆われた、巨体で節くれ立った肉体。
四本の強靭な脚には、長く鋸歯状の爪が備わっている。
広い肩の上には、癒着した二つの頭部が膨れ上がっていた。鼻はなく、針のような無数の牙がぎっしりと生え揃っている。
「下がれ!」
ゼノが杖の構えを変えながら鋭く叫んだ。
体内で何かがカチリと噛み合う感覚があった。
『生きる意志』が即座に応答する。
出力を絶対的な最小限に設定してスキルを起動した。
最大出力はおろか、中出力ですら、今の俺の肉体は容易に焼き尽くされる(バーンアウト)と分かっていたからだ。
俺はゼノに意識を集中させた。
彼の動きは速かったが、俺ならそれを「完璧」に補佐できる。
最初の魔獣が跳躍した瞬間、俺は拳を強く握り締め、ゼノの移動ベクトルに全神経を注いだ。
彼の背後の空間を「押し」、空気抵抗を完全に排除する。
老人は爆発的な速度で前方へ突き進み、怪物の爪の下を滑り抜けた。
同時に、俺は彼の前方に圧縮された空気のクッションを生成した。
不可視の盾に、別の〈歪みし者〉の面構えが凄まじい破壊音を立てて激突する。
「……機能している」
こめかみに鈍い痛みが脈打ち始めるのを感じながら、俺は喘いだ。
だが、数が多すぎた。
俺がゼノを援護し、同時に三体を相手に立ち回っている隙に、他の個体よりも一回り大きく俊敏な一頭が、こちらの側面へと回り込んでいた。
気づいた時には手遅れだった。
巨大な爪の生えた前脚が、俺の頭上へと振り下ろされる。
その瞬間、俺の主観時間が完全に停止した。
黄ばんだ爪の表面にある無数のひび割れ、顎から飛び散る悪臭を放つ唾液の滴、怪物から放たれる墓場のような冷気が克明に伝わってくる。
脳の論理回路が、冷徹に事実を確定させた。
『衝撃の回避は不可能。運動エネルギーの総量は、頭蓋骨を粉砕するに十分である』
ここまでか。これが、俺の終わりか?
「避けろ!」
静寂を切り裂き、ゼノの声が響いた。
視界を染めた閃光があまりにも強烈で、俺は一瞬、目を眩まされた。
魔力を極限まで充填された彼の即席の杖が、激しく鳴動している。
老人は下から上へと、凄まじい一撃を跳ね上げた。
音が先に届き、その後に光景が追いつく。
杖は怪物の下顎から突き刺さり、頭頂部へと貫通した。癒着した二つの頭部が、中心から真っ二つに叩き割られる。
ドス黒い濃厚な血液が文字通り噴き上がり、周囲の岩肌と俺の顔面を濡らした。最悪な味が口内に広がる。
内臓がグチャリと音を立てて鋭い石の上にぶちまけられ、引き裂かれた肉塊から濃厚な湯気が立ち上る。
ゼノは手を止めなかった。流れるような円運動で、怪物の胴体を一刀両断にする。
〈歪みし者〉の上半身は、自らの血の海の中で爪を虚しく狂わせ、数秒間身悶えした後に、完全に沈黙した。
ゼノは激しく肩で息をしていた。その顔は返り血の滴で汚れている。
「離脱するぞ」
ゼノが俺の腕を掴み、足元の血の海へ崩れ落ちるのを防いだ。
「この死臭が他の連中を呼び寄せる。峠はもうすぐだ」
(他の奴らは……? もっと数がいたはずだ……)
目を凝らすと、周囲にいくつかの死体が転がっているのが見えた。
(一体、いつの間に……?)
思考が一瞬、驚愕に染まる。
一時間後。
峡谷の静寂を、甲冑の擦れる金属音と探索アミュレットの低い駆動音が破った。
教団の護衛部隊が、確実に痕跡を追跡していた。
先遣隊の指揮官である、首筋に異端審問の烙印を持つ将校が、鋭く手を上げて全軍に停止を命じた。
前方の岩間に挟まれた狭い空間に、無惨に解体された〈歪みし者〉の残骸が転がっていた。
「魔術師を前へ! 急げ!」
彼は命令を下した。
灰色のマントをまとった二人の探索魔術師が、無惨な死体の前に跪いた。
一人が、多孔質の岩肌にまだ完全に染み込みきっていないドス黒い血溜まりの上に、慎重に手のひらをかざす。
手首の魔導器が細かく振動し、禍々しい深紅の光を放った。
「異常な魔力濃度の領域です」
魔術師は振り返ることもなく報告した。その声が微かに震えている。
「残留魔術の痕跡は極めて強大、かつ粗暴。ですが……それだけではありません」
「明確に言え」
将校が遮る。
「エーテルの軌跡が、あまりにも異常なのです、隊長。エネルギーが……純粋すぎる。この怪物の骨の切断面を見てください。完全に、一直線に切り裂かれています」
重厚な足音が響き、護衛兵たちが左右に割れた。
霧の向こうから、リヒターが姿を現した。その表情には氷のような冷徹な集中が張り付いている。
彼は最も巨大な個体の残骸へと歩み寄り、両断された外殻の端に、嫌悪感を隠さず指先で触れた。
「すでに、移動のベクトルへ干渉し始めている、か……」
リヒターは身を起こし、真っ白なハンカチで指先を拭った。
「なるほど、検体アルファの適応速度は、我々の試算を上回っているようだ。実に興味深い」
「奴らは〈峠〉へ向きました、リヒター卿」
将校が報告を続ける。
「ですが、あそこは背景魔力が不安定すぎます。我々のアミュレットもエラーを起こし始めるでしょう。最悪の場合、エーテルノイズの中で完全に見失う恐れがあります」
リヒターは、〈引き裂かれたマナ〉によって空間が激しく歪む山頂の方向を見つめた。
凍てつくような、薄い笑みがその唇に浮かぶ。
彼は部隊の方を振り向き、その声を鋭く響かせた。
「全小隊、歩調を上げろ! 人員も魔力の備蓄も惜しむな。峠の稜線へ到達する前に、そこへ完全に追い詰める。私の最高傑作を、あのようなエーテルの残骸の中に霧散させるわけにはいかないのだ。進軍せよ!」
護衛兵たちは一斉に胸を叩いて誓いを立てると、逃亡者たちが残した凄惨な血の跡を辿り、猛然と前進を開始した。




