第21話:靴底の味
第五水門の回廊は、ジェラルドにとって果てしなく長く感じられた。
交代時間を過ぎ、今の彼が望むことといえば、ただ兵舎に行き、硬いベッドに倒れ込んで目を閉じることだけだった。
パトロールの余計な注意を引かないよう、歩幅を早めることもせず、努めて平然と歩く。
(奴らはもう遠くへ行ったはずだ)
ゼノとの会話を思い出し、自分に言い聞かせる。
あの老いぼれは修羅場をくぐり抜けてきた男だ。きっとあの小僧を連れ出してくれる。
居住ブロックへと続く角を曲がった、その瞬間だった。
技術用ニッチの影から、二つの影が音もなく踏み出してきた。
ジェラルドは悲鳴を上げることすらできなかった。
一人の護衛兵がその腹部に強烈な一撃を叩き込み、もう一人が両腕を背後で捻り上げる。
筋が軋む鈍い音が響いた。
そのまま管理セクターの奥深くへと引きずられていく。
金属製の扉が耳障りな音を立てて開き、ジェラルドは薄暗い取調室の鉄製の椅子へと手荒く放り出された。
激しく咳き込み、必死に空気を求めながら、どうにか焦点を合わせようと目を凝らす。
正面の小さな鋼鉄の机に向かい、リヒターが座っていた。
彼は手元にある記録用結晶を、布でのんびりと拭っている。
その少し後ろ、壁際の濃い影の中に、重厚なマントをまとった人影がそびえ立っていた。
導師ヴァルトだ。
「リヒター卿……」
ジェラルドは声に怒りを込めようとしたが、出てきたのは惨めで掠れた声だけだった。
「何が、起きているのですか? 私は勤務を終えたばかりで……」
「ああ、ジェラルド。分かっているよ」
リヒターの声は平坦だった。
結晶を机に置き、端の方へ一枚のしわくちゃな紙を押し出す。勤務日誌の控えだ。
「お前のシフトだ。この日の二十三時四十分、お前はポンプステーションの持ち場を離れているな」
「それは……換気口の方から奇妙な音が聞こえたのです」
ジェラルドは喉に込み上げる塊を飲み込んだ。
「プロトコルに従い、いかなる異常も確認する義務があります。あそこは暗く、誰も見つけられなかったため、戻りました」
「実に見事な警戒心だ」
リヒターが唇の端だけで嘲笑した。
「だが、お前が『音を確認しに行った』はずの放棄された地下回廊にある、隠蔽されたエーテルセンサーが、二つの個体を感知していてね。お前と、ゼノだ」
ジェラルドの背中を、氷のような汗が流れ落ちた。
リヒターがゆっくりと机から立ち上がる。回り込み、ジェラルドのすぐ目の前に立った。
壁際に佇むヴァルトは身じろぎ一つせず、ただその過程を観察している。
「アルファは排水系統のアクセスキーを持っていなかった。それに、我々のレーダーの死角を知る由もない」
リヒターは静かに、淡々と言った。
彼はジェラルドの肩に手を置き、その指先を鎖骨へと深く突き立てた。
「お前は我々を、小馬鹿にしているのか? ジェラルド」
打撃音は短く、乾いていた。
ジェラルドの頭部が激しく後ろへのけぞり、椅子ごと床へ倒れ込みそうになる。
叩き割られた鼻から鮮血が飛び散り、机の上に広げられた報告書と、リヒター自身の白いカフスを汚した。数滴の血が、彼の頬にも付着する。
「奴らは。どこに。いる?」
リヒターは衛兵の髪を掴み、強制的に己の目を睨ませた。
ジェラルドは黙秘した。
左目は完全に腫れ上がり、胸からの呼吸は湿った喘鳴となって漏れる。
リヒターが再び拳を振り上げ、ジェラルドの顎へと叩き込んだ。
ジェラルドは血の塊を、尋問者のブーツへと直接吐き捨てる。
「この、下衆が……」
リヒターが激昂した。腰の短剣へと手を伸ばす。
「舌を切り落としてやる。そうなっても『換気口の点検』とやらをブツブツと呟けるか試してやろう!」
「そこまでだ、リヒター」
導師ヴァルトの声が静かに響いた。
リヒターの動きが止まる。ナイフの柄を握る手が、目に見えて小刻みに震えた。
「導師閣下……」
リヒターが振り返った。
「こいつは機構を裏切りました。見せしめとして今すぐ処分すべきです。さもなくば、私が真実を叩き出してみせます!」
ヴァルトがゆっくりと一歩を踏み出した。
「そこまでだ、と言っている」
リヒターの膝が、無意識のうちにガクリと折れかけた。彼は即座に頭を垂れ、視線を隠す。
「失礼いたしました、閣下……私は、ただ……」
「感情は効率を損なう」
ヴァルトは血まみれのジェラルドへと近づき、指先でその顎を持ち上げた。ジェラルドは身じろぎもしない。
「死んだ泥鼠など何の役にも立たん。だが、生きていれば……我々を目的地へと導くかもしれん」
「ここに残されるおつもりですか?」
リヒターがハンカチで顔を拭いながら、恐る恐る尋ねた。
「いや。生き餌として生かしておく。遅かれ早かれ、奴らは自分たちを助けた男の命運を知りたがるはずだ。第六ブロックへ幽閉しろ。死なない程度に最低限の手当てを行え。そして、すべての通信回線の監視を強化する。奴らが一歩でも動けば、私が最初にそれを把握する」
リヒターは一礼し、導師の背中を見送った。
ヴァルトの後ろで扉が閉まった後も、彼は長い間立ち尽くしていた。胸の奥で、未だ恐怖の微かな震えが引き波のように消えていくのを感じながら。
やがて、彼は打ちのめされたジェラルドを見下ろし、血に染まった指先を奴の制服で忌々しげに拭った。
「運が良かったな」
リヒターが低く呪詛を吐いた。
「だが、奴らを捕らえた暁には、私自らがお前を時間をかけてじっくりといたぶって殺してやる」
その頃、森の中。
ゼノは数時間前に出かけ、俺を明滅する魔力の半球の保護下に残していった。
目を凝らせば、キャンプの境界線の空気がかすかに揺らぎ、まるで歪んだガラス越しに世界を見ているかのように、周囲の木の幹を歪ませていた。
俺は即席の小屋に背を預けて座っていた。
身体は未だに疼いていたが、あの激痛は去っていた。
ゼノの治癒魔術が功を奏したのだろう。それに、『生きる意志』も活動の兆候を示し始めていた。
スキルが筋肉から疲労の毒素を洗い流し、組織を緩やかに修復していく。
自分の手のひらを見つめる。
赤黒い変色は消え去り、代わりに衣服が擦れるだけで痛むような、薄い皮膚が形成されていた。
(どうしてこんな人生になってしまったんだ……)
その思考が、傷ついたレコードのように頭の中で巡り続ける。
つい最近まで――少なくとも俺の記憶の中では――俺は普通の技術者だった(もっとも、「普通」というにはいささか語弊があるが)。
設計図、計算、クライアントとの終わりのない議論、そして自販機のコーヒー。
それがいまや、異世界の森の中に座り込み、魔術インクイジション(異端審問)から身を隠しながら、傭兵と隠れ家を共有している。
すべてが長引く、あまりにもリアルな悪夢のようだった。
強く目を瞑れば、自分のアパートで目を覚ますのではないか。これはただの過労が見せた幻覚に過ぎないのではないか、と。
「俺は一体、何のためにこんなことをしているんだ?」
虚無に向かって呟く。
「何のための、生存だ?」
脳裏にふと、ゼノの顔が浮かんだ。いつものニヤついた笑みと、あの言葉。
『熱くなるな、小僧。切り抜けてみせるさ。これ以上のクソ溜めからだって這い上がってきたんだ』
「あいつらを、見つけなければ……」
頭の中に、温かい声が蘇る。
「サン……」
言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
結界の境界の空気が急激に波打ち、ゼノが中へと踏み込んできた。
俺はびくりと身体を震わせ、心臓がいつものように跳ね上がったが、見慣れたシルエットを確認して息を吐き出した。
ゼノは満足そうな様子だった。
その肩には、この土地特有の角の生えたウサギのような獲物が担がれており、手には奇妙な、光を放つ草の束が握られている。
「よお」
彼は、大きく燃え上がらせないよう注意していた焚き火の傍らに獲物を下ろした。
「お前のスキルも、少しずつ目を覚ましているようだな」
「どうにかね」
俺は作り笑いを浮かべた。
「それは何の獣だ?」
「俺たちの夕食さ」
彼は手際よく獲物を解体し始め、俺はただその手元を見つめていた。
ゼノの持つ冷静さは、周囲に伝染する。
彼がそこにいるだけで、世界は再び確固たる現実を取り戻し、被害妄想は背景へと退いていく。
だが、あの瞬間から俺を苦しめていた疑問が消えることはなかった。
「ゼノ」
彼が即席の串に肉を刺し始めたところで、俺は声をかけた。
「話してくれ」
彼は顔を上げなかった。
「何についてだ? このキバウサギの正しい焼き方か?」
「違う。あの弟子のことだ。どんな奴だったんだ?」
ナイフを握
るゼノの手が、一瞬だけ止まった。
彼の肩が強張るのが見えた。また冗談で受け流すか、あるいは地獄へ失せろとでも言うかと思ったが、代わりに彼は重い溜息をついた。
「……彼女の名は、ライダー」
彼は静かに語り始めた。
「いいか、世の中には、壊れた世界を見て、お前のように部品に分解しようとするのではなく、治療しようとする人間がいるんだよ」
彼はすでに火の通った肉の一片を切り出し、ナイフの先端に乗せて俺に差し出した。
それを受け取ったが、食欲は湧かなかった。
「あいつは俺の最初の弟子だった」
ゼノは炎の向こうのどこかを見つめながら続けた。
「俺は殺し方を教えたが、あいつは口を開けば交渉がどうのと言っていた。南部の同盟間で、あの戦争が勃発した時、ライダーは仲介人として赴いた」
ゼノが歪んだ笑みを浮かべる。
「それで?」
俺は静かに尋ねた。
「二つの交戦国の間に立ちはだかる者が、どうなるかなど、決まりきっているだろう?」
ゼノはわずかに沈黙し、それから付け加えた。
「……それで俺は教団に身を投じたのさ」
その声は、完全に低く沈んでいた。
ナイフを鞘に収める彼の両手が、微かに震えているのが見えた。
「なあ」
俺は慎重に話題を変えた。
「この肉……ブーツの底みたいな味がする。本当にその光る葉っぱで正しくマリネできてるのか?」
ゼノはハッとしたように瞬きをし、一瞬でその眼差しに現実の光が戻った。
彼は俺を見、それから肉に目を落とし、突然鼻で笑った。
「ブーツの底だと? 贅沢な奴め。これは最上級の珍味だぞ。下層地平なら半年の寿命を差し出してでも手に入れたがる代物だ!」
「いいから食え。さもないと明日、足を動かすことすらできんぞ」
「よし」
ゼノは立ち上がり、焚き火の残り火を踏み消し始めた。
「過去は沼だ。長く立ち止まれば立ち止まるほど、深く引きずり込まれる。明日の夜明け、北の〈峠〉へ向けて出発するぞ」
「峠へ?
俺も立ち上がる。ルートに対する工学的な関心が、内側からじわりと湧き上がるのを感じていた。
「ああ。あそこは魔力の背景が酷く乱れている。奴らの探索アミュレットも機能不全を起こすはずだ。寝ろ、アイロン」
俺は脆い即席小屋の中へと編み込まれた葉の下へ這い込み、外でゼノが結界を強化するために何かを囁いている声を、ただ聞いていた。




