第20話:低き地平線の鼠
上層地平の広間が静寂に包まれることは決してなかった。
そこには常に、蜂の巣を突いたかのような、魔力蓄電池の微かな駆動音が地鳴りのように鳴り響いている。
導師ヴァルトはパノラマウィンドウの前に立ち、灰色の靄の向こう、眼下で回転する教団の巨大な機構を見つめていた。
その顔に、一瞬の苛立ちがよぎる。
「つまり、あの『バッテリー』は逃げ出したということか」
振り返ることもなく、彼は言った。
三歩後ろに控えていたリヒターは、短く頷いた。
内心の煮え返るような怒りを押し殺し、努めて端正な冷静さを装っている。
「技術用排水路を利用されました、導師。第四セクターの共振爆発は単なる陽動に過ぎません。本命は冷却系統でした」
「お前たちの配管作業の顛末など興味はない、リヒター」
ヴァルトがゆっくりと振り向いた。
「検体アルファは、このセクター全体の、エーテル流を安定させるための鍵だ。我々の最も有望な『リソース』が霧散したと評議会に知られたらどうなるか、分かっているのか?」
「私の部下がすでに動いています」
リヒターは一歩前に出、声に最大限の確信を込めた。
「第一掃討班をゼノの小屋へ向かわせました」
「ゼノか……」
ヴァルトは忌々しげに顔をしかめた。
「自分を守護者だと勘違いしている老いぼれ傭兵め。命令を聞け、リヒター。私に必要なのはアルファだ。生きてさえいればどんな状態でも構わん。脳がスキルに命令を伝達できればな」
「それ以外は――ゼノも含め、僅かでも抵抗すれば即座に排除しろ」
リヒターは、ほとんど気づかれない程度に眉を上げた。
「ゼノは長年、有用な道具でしたが」
「過去の話だ」
ヴァルトは冷酷に切り捨てた。
「今はただの障害だ。それと、〈狩人〉を呼び戻せ。日没までに通常の巡回兵が仕留められなければ、猟犬を放つ」
リヒターは一礼し、命令を受諾した。
「それから、もう一つ」
扉の手前で、ヴァルトが彼を呼び止めた。
「内部セキュリティの報告書を精査しろ」
リヒターの動きが一瞬止まった。
ポケットの中の記録用結晶を、指先が無意識に強く握り締める。
「――私が直々に調査いたします、導師」
一方、森の中。
俺はぬめり気のある丸太に腰掛け、震えを止めようと抗う自分の指先をぼんやりと見つめていた。
ゼノは俺とは完全に正反対だった。
あの年齢にもかかわらず、驚くべき効率の良さで森の中を動き回っている。
「おい、手貸せ」
彼は、自然の障壁となって直角を成している二本の倒木に向かって、しなやかで長い枝の山を引きずりながら言った。
立ち上がろうとしたが、膝がガクガクと震え、危うく苔の中に顔面から突っ込みそうになる。
「座っていろ」
老人はぶつぶつと文句を言った。
「それより、知恵を貸せ」
彼は骨組みのようなものを作ろうと、枝を地面に突き刺し始めた。
その動きは正確だったが、呼吸が酷く荒いのが見て取れた。
ゼノは俺たちの足跡を眩ますために、すでに何度も風の魔術を使用していた。
そして今もなお、空気中に微かなピリピリとした感覚が漂っている。キャンプの臭いを外部へ逸らすための、薄い結界を維持しているのだ。
おまけに、俺の脚の傷を自身の治癒魔術で塞ぐという負担まで背負わせてしまっていた。
「そうじゃない」
彼の作業を見つめながら、俺は掠れた声を出した。
「ただ突き刺すだけじゃ、最初の突風でこの即席小屋は俺たちの頭の上へ崩落する。根元を交差させて編み込み、先端を一つの加圧点に集めて縛るんだ。負荷を分散させろ」
「負荷の分散、か……。よし、やってみるか」
「それと、その葉は……」
彼が集めてきた大きなフキのような葉の山を指差す。
「下から上に向かって、瓦のように重ねて敷き詰めるんだ。水が内部に流れ込まず、外側を滑り落ちるように」
ゼノは無言でその助言に従った。
己の工学知識が、ゴミと小枝の山に応用されていく光景を見るのは、どこか奇妙な感覚だった。
「あんたも大したもんだよ、爺さん」
即席の隠れ家の屋根を修復し終える彼を見つめながら、俺は静かに言った。
「そんなに……器用な人だとは思わなかった。いや、本当は分かってたけどな」
「生きたければ、これくらい嫌でも身につく」
彼は額の汗を拭いながらぶっきらぼうに言った。
「お前と出会う遥か前から、俺はこの森を配置換えのように這い回っていたんだ」
俺は笑みを浮かべ、何かを言い返そうとした。
――その瞬間。
パキリ。
すぐ近くで、枝の折れる鋭い音が響いた。
自身の血流が跳ね上がり、耳の奥が瞬時に詰まった。
首を動かすことすらできず、俺はその場で凝固した。
(奴らだ。見つかった。もう終わりだ)
凝り固まった首を、ゆっくりと後ろへ巡らせる。
丸太の皮に、指先が痛むほど強く爪を立てた。
誰もいない。
荒い呼吸を吐き出す。
背中を冷たい汗が伝い落ちるのを感じた。両手の震えは、さらに激しさを増していた。
「ただの風だ、アイロン」
ゼノが静かに言った。
彼はいつの間にかナイフを手に構えて静止していたが、その眼差しは冷静だった。
「神経が過敏になっている。落ち着け」
「あんたは気楽でいいよ」
俺は手のひらで顔を拭った。
「俺はただ……文字通り、奴らの尾行がすぐ後ろに迫っているのを感じるんだ、ゼノ」
「まだ遠い」
ゼノはナイフを収め、即席小屋の入り口を顎で示した。
「中に入れ。最低でも二時間は眠る必要がある。明日はさらに過酷になるぞ」
俺は頷いた。彼の言う通りだった。
アイロンとゼノが横になろうとしていたその頃。
上層地平の薄暗い部屋の中は、全く異なる空気に包まれていた。
リヒターはある男の肩に手を置き、その指先を鎖骨へと深く突き立てた。
「答えろ。お前は我々を、小馬鹿にしているのか? ジェラルド」




