第19話:壁に耳あり
目を開けた。
最初に感じたのは、匂いだった。
換気シャフトの無機質な乾燥した空気でも、作業場の重苦しい機械油の悪臭でもない。
濡れた土の匂い。
他の誰かにとってはただの自然かもしれないが、俺にとっては……まるで我が家に帰ってきたかのようだった。
あの、前世での記憶。
四六時中ラボに引きこもっていた生活だったが、俺が本当に「生きている」と実感できるのは、いつもこんな瞬間だった。
足元にあるのがコンクリートや金属ではなく、土の隆起や木の根である時。
だが、その平穏は、深く息を吸い込もうとした瞬間に打ち切られた。
「くそ、ったれ……」
激痛に肺を吐き出しそうになりながら、俺は低く呻いた。
「気がついたか」
頭上から、ゼノの声が降ってきた。
五メートルほど離れた倒木に腰掛け、彼は自身のナイフを点検していた。
「……どうにか」
上体を起こしようとしたが、世界が急激に傾き、ぐにゃりと歪んだ。
「俺は、どれくらい……倒れていた?」
「二時間ほどだ。もっと距離を稼ぎたかったが、お前がうわ言を言い始めたんでな。休まざるを得なかった」
唾を飲み込もうとしたが、喉の奥が削り取られたように痛む。
あの場所で一度死んだ身だというのに、今、俺は本物の恐怖を感じていた。
すべての木の影に、誰かの視線が潜んでいるように思えてならない。
まるでリヒターが、今でも不可視のレンズ越しに俺を監視しているかのような錯覚。
「ゼノ……」
木の幹に背を預け、ようやく座る姿勢を保つ。
「俺たちが、自分で台無しにしたんだな?」
ゼノが手を止め、ゆっくりと俺に視線を向けた。
「何の話だ?」
「俺たちの会話だよ。俺のスキルのこと、その仕組み……『肉体の再構成』について。全部自分たちで奴に喋っちまったんだ。リヒターがそんな情報を掴めるはずがない、俺たちの会話を盗み聞きでもしていなけりゃ……」
目を閉じる。
己の愚かさに、胸の奥がキリキリと締め付けられた。
「壁に耳あり」という古い格言が、最悪の形で現実味を帯びていた。
ゼノは答えず、ただ顎で天を指し示した。
空が、不自然なほどの速度で暗転していく。
雨雲だ、と直感した。
最初のひと雫が、俺の額に落ちた。
次の雫が、焼け焦げた手のひらを叩く。
そして次の瞬間、激しい豪雨が森を襲った。
わずか数メートル先の木々すら、水の壁に遮られて見えなくなるほどの質量。
葉を叩く雨音が、一瞬ですべての雑音を掻き消した。
俺は天を仰ぎ、容赦なく降り注ぐ水流に顔を晒した。
この丸一日で初めて、胸の奥の塊がほんの少しだけ解けていくのを感じた。
「おい、小僧!」
ゼノが激しい雨音を突き破る声を上げた。
「立て、急げ! 足場が流されるぞ!」
俺は動かなかった。
前世において、土砂降りは俺の最も好きな時間だった。
誰もが店先の軒下に逃げ込み、傘を広げる中、俺だけは歩みを遅らせたものだ。
襟元から冷たい水が滑り込んでくるのを感じながら、誰もいなくなった通りを歩くのが好きだった。
あの時の街は、白く洗われ、何よりも静かだったから。
「アイロン、聞こえているのか!?」
ゼノが俺の肩を強く掴み、強引に引き起こした。
「聞こえてる……」
木の幹にすがりつきながら、どうにか立ち上がる。
「どこか場所が必要だ」
目元の水を拭いながら、声を絞り出す。
「避難所だ。あんたの小屋は? そこまで持ちこたえられるか?」
「アイロン、お前は確かに賢い」
ゼノの声が、冷淡に、そして鋭く響いた。
「だが、時折とんでもなく間抜けになるな」
「何が違うんだ?」
「俺の小屋の場所など、教団の全員が知っているということだ! 半径五十マイル以内の巡回兵なら誰もな。俺があそこで奴らから隠れ住んでいるとでも思っていたのか?」
俺は思考を巡らせようと、深く眉をひそめた。
「まだ理解できんか?」
ゼノが顔を至近距離まで近づけてきた。
「俺は奴らのために働いている。不定期にな。奴らは俺の居場所を把握しておく必要があるのさ。情報を持たせた伝令や、次の『仕事』の命令書を送り届けるためにな」
ゼノに「秘密の隠れ家」など存在しないという事実が、どうしても脳内で処理しきれなかった。
「リヒターは馬鹿ではない。真っ先にあの小屋へ人員を派遣しているはずだ」
「なら、俺たちには何も残されていないのか?」
「最低限、この忌々しい森がある」
ゼノが俺の肘を掴んだ。
「行くぞ局、真逆の方向へ動く。どこへ向かうかは、移動しながら決める」




