第223話:古い習慣
森の奥では、いつもの作業が続いていた。
木が軋む音と斧の音が、松林の間に響く。
エリザは軽々と斧を振るい、刃を幹に深々と沈めていく。
隣では、クレルクの部下たちが働いていた。
作業は順調に進んでいた。
だが、森の静寂を切り裂くような恐ろしい咆哮が響き渡る。
あまりの轟音に、鳥たちは一斉に空へ逃げ出し、足元の地面がかすかに揺れた。
クレルクの部下たちは斧を放り出し、悲鳴を上げながら咆哮とは逆の方向へ散り散りに逃げ出した。
その場に踏みとどまったのはクレルクだけだった。
彼は斧を握りしめ、戦う構えをとったが、次の瞬間、木々の間から巨大な影が現れた。
赤く光る目。
頭部から突き出た巨大で無骨な角。
その異形を見た瞬間、クレルクは恐怖で足がすくんだ。
それを見たエリザは一歩前へ踏み出し、クレルクの前に立ちはだかる。
「すぐに陣地へ戻れ!」
彼女はモンスターから目を逸らさずに命じた。
「え……で、でも、あんたは……!」
恐怖に震えながらクレルクが叫ぶ。
「私が相手をする。私を信じて」
エリザは冷静に言い放った。
しかし、クレルクは恐怖に抗いながらも、その場を離れようとしない。
エリザは眉をひそめた。
彼女は挑発するように大きく動くと、斧を振り上げた。
モンスターの注意を完全に自分へと引きつける。
怪物は怒りの咆哮を上げ、巨大な拳を振り下ろした。
狙いは、クレルクからわずか半メートルの位置にある松の木だ。
ドォン!
凄まじい衝撃音が響き、木は木っ端微塵に砕け散る。
爆風と破片がクレルクを襲い、足元の地面が跳ね上がった。
死の淵を覗いたクレルクは、恐怖のあまり絶叫し、陣地の方へと駆け出した。
エリザは逃げる彼を横目で見送る。
「よし」
彼女は斧を両手で握り直した。
モンスターは吠えながら彼女に向かって突進し、拳を叩きつけようとする。
少女は軽やかに身をかわした。
拳が頭上を通過した瞬間、隙だらけの懐へ飛び込み、斧をその右足に叩き込む。
金属が皮膚を裂く。
だが、強靭な筋肉が刃を阻み、完全に切り落とすには至らない。
エリザは即座に斧を引き抜いた。
しかし、巨体にとってその傷は蚊に刺された程度のものでしかなかった。
真っ向勝負ではこの皮膚は貫けない。
エリザは一跳びで松の木の裏へと隠れた。
モンスターは振り返り、森が震えるほどの咆哮を上げた。
そして両手を大きく広げる。
ドォォォン!
その体から衝撃波が四方八方に放たれる。
木々は軋み、周囲の葉や枝がなぎ倒された。
太い松の幹が盾となり、エリザは直撃を免れた。
木陰から漏れ出した突風が彼女の髪を乱し、一瞬だけ足元を揺るがす。
嵐が収まった瞬間、エリザは飛び出した。
正確な動作で斧を投擲する。
刃は怪物の右肩に深く突き刺さった。
怪物が唸り声を上げて怯む。
その隙を見逃さず、エリザは斧を取り戻そうと飛び上がったが、怪物の自由な方の手がそれを阻む。
空中で軌道を変える。
地面に手をつき、そのまま後方へ反転して攻撃を回避。
さらに近くの木まで跳躍して距離を取った。
木の裏で呼吸を整えながら、彼女は肩に突き刺さったままの斧を睨む。
「ちっ……どうにかして抜かないと……」
巨体が地響きを立てて突進してくる。
幹に拳が叩き込まれるその瞬間、怪物の指先のすぐ近くで、小さな黒紫の光が瞬いた。
エリザはその魔法の火花を視界の端で捉えていた。
一瞬の迷いもなく、彼女は身を屈めて横へ飛び退く。
ドォン!
小さな球体が放った細い光線が木を貫き、地面深くまで抉った。
敵が次の行動に移る前、エリザは空中で地面の枝を掴み取る。
尖った端を持つ中くらいの枝だ。
彼女はそれを怪物の顔面へ投げつけた。
怪物は本能的に身をのけぞらせ、一瞬だけ顔を覆う。
エリザは一気に距離を詰め、その鋭利な枝を怪物の開いた目に突き立てた。
怪物がよろめき、目を押さえる。
エリザはそのまま肩に飛び乗り、突き刺さった斧を力任せに引き抜くと、止まることなく首筋を切り裂き始めた。
一撃。二撃。さらに一撃。
怪物は彼女を振り落とそうと暴れまわる。
拳が迫れば身をかわし、指を蹴って宙を舞い、再び首に刺さった斧や角を足場にする。
最後の一撃。
両手で斧を振りかぶり、すでに切り刻まれた首へと全力で振り下ろした。
――グシャリ。
巨大な角を生やした頭部が、断ち切られた体から離れ、草の上を転がった。
首から黒い血が噴き出し、巨体が地に伏す。
エリザは着地し、深く息を吐き捨てて無残な死体を見た。
「……単純すぎ」
彼女は怪物を放置し、陣地へと戻り始めた。
広場に出た途端、クレルクと他の部下たちが駆け寄ってくる。
「エリザ! 無事か!?」
クレルクが血相を変えて叫ぶ。
「エリザ、服が血だらけじゃないか! 大丈夫か!? 何か手伝おうか!?」
口々に心配する声が上がる。
エリザは気だるげに手を振った。
「何を騒いでるの。ただの返り血よ。もう倒したわ」
クレルクは呆然と口を開けて固まった。
エリザは彼らを無視し、陣地の中央へ向かう。そこではまだエリリアが作業を続けていた。
陣地には崩れた壁や、基礎のない屋根といった残骸が散らばっている。
エリリアは疲労に額をぬぐいながらも、必死に次の家を建てようとしていた。
「ただいま」エリザが声をかける。「……血、流してもらえる?」
エリリアが振り返り、彼女の姿を見て目を丸くした。
「血!? あんた、怪我したの!? どうして!? 誰がやったのよ!?」
精霊は一瞬で激怒した。
「まさかクレルクか!? 今すぐあいつを――」
「違う、大丈夫」エリザが慌てて遮る。
「ただの返り血。森でモンスターと戦っただけよ」
「……本気?」エリリアが目を細める。
「ええ」エリザは冷静に答える。
「……なら、いいわ」エリリアはため息をつき、指を鳴らした。
その瞬間、緑の光がエリザを包み込む。
衣服や皮膚に付着していた汚れや血が、跡形もなく消え去った。
作業を終えたエリリアは、彼女をじろじろと眺める。
「あんた……もしかして騎士か何か?」
「違うわ」エリザは首を振った。
「ただ、武器を手に戦う期間が……少し長かっただけ」
「ふーん。まあいいけど」
エリリアはぶっきらぼうに返し、再び建築作業に戻った。
エリザは陣地を見回す。
未完成の残骸の横には、すでに二つの完成した木造住宅が建っていた。
彼女は一軒目のドアを押す。
中は空っぽで窓もない。それでも、どこか暖かさを感じた。
ドアを閉め、二軒目へ向かう。
ドアを開けると、エリザは動きを止めた。
柔らかなマットレスの上に、アイロンが寝転がっている。
彼は壁の一点を見つめていた。一軒目とは違い、この部屋には窓が嵌め込まれ、ベッドまで整っている。
エリザはそれを目に焼き付け、静かにドアを閉めた。
外にはまだ、クレルクたちが集まっていた。
彼らは森の端を警戒し、不安げに囁き合っている。
「まだ怖がってるのね……」
エリザは呟き、広場の端へ歩いた。
松の木にもたれかかって地面に座り込む。
ポケットからタバコとライターを取り出す。
火をつけ、深く煙を吸い込んだ。
頭上の枝葉に向かって煙を吐き出し、目を閉じて休息を味わう。
その時、二軒目の家からアイロンがゆっくりと出てきた。
怯えるクレルクたちに気づき、彼はそちらへ歩み寄る。
「なぜこんなところにいる」アイロンが眉をひそめる。
一人の男が神経質そうに足を動かした。
「……森に、巨大なモンスターが……。この先も仕事を続けていいのか不安で」
「そうか」アイロンは冷静に答える。「で、そのモンスターはどこだ?」
「……エリザが、倒した……」
「エリザが?」アイロンが小さく驚く。
「……ああ」
アイロンはゆっくりと頷き、納得したように言った。
「そうか。なら、恐怖が収まったらすぐに仕事に戻れ」
「は、はい!」
アイロンは踵を返し、広場を見渡した。
木の下に座るエリザを見つけ、彼女の隣へ歩み寄り、同じ木に背を預けて座り込む。
「……あんたがモンスターを倒したってのは本当か?」と小声で聞く。
エリザはくつろいだ姿勢を崩さず、煙を吐き出した。
「ええ」
「なら、いい仕事だ」
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。
アイロンは彼女の指先にあるタバコの火を見つめ、数秒後に口を開いた。
「……まだあるか?」
エリザは驚いて顔を向ける。
「あんた、タバコなんて吸うの?」
「……まあ、昔はな」
エリザはパックからもう一本抜き出し、火をつけて彼に手渡した。
アイロンはそれを受け取り、唇に挟んで深く吸い込む。
「いつ辞めたの?」とエリザが尋ねる。
「……四、五年くらい前か」煙を吐き出しながらアイロンが答える。
「へえ。今いくつ?」
「十九。もうすぐ二十だ」
エリザは心の中で計算し、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「じゃあ、十三か十四で辞めたってこと? それまでどんだけ吸ってたのよ……。おませなガキだったのね」
アイロンは図星を突かれて咳き込んだ。
「……まあ、そういうことだ」
「へえ。で、なんで辞めたの? 健康のため?」
アイロンの脳裏に即座に思考が駆け巡る。
『別世界に飛ばされて、環境の変化で全部忘れてたなんて言えないな……』
少しの間を置いて、彼は口を開く。
「……まあ、いろいろあってな。ストレスが多すぎたんだ。あまりの過酷さにタバコのことなんて忘れて、いつの間にか吸わなくなっていた。でも、あんたが持ってるのを見て……昔、これがどれだけ助けになったか思い出したんだ。それで、今でも効果があるか試してみようと思って」
「で、どう?」とエリザが聞く。
「同じくらい効く? それともなんか違う?」
「……まだ分からない。でも、確かに少し落ち着く気がする」
「そっか」
アイロンは木に背を預けたまま、地面に座り込んだ。
もう一度深く吸い込み、呟く。
「こんなこと言うのは変かもしれないけど……なぜかあんたを見ると、知り合いを思い出すんだ」
「そう」とエリザは短く答えた。
アイロンは疲れたように、建築中の陣地の先を見つめて溜息をつく。
「……先は長いな」
「そうね」とエリザも見る。
「でも、全部やり遂げられると思うわ」
「そうだな」アイロンは口元を緩めた。「……なんだか、それが少し嬉しいよ」
エリザはそれを聞いて動きを止める。
彼の横顔をじっと見つめた。
その瞳の奥で、何かが一瞬駆け抜け、すぐに消えた。
アイロンはタバコの吸い殻を地面で消し、握りしめて立ち上がる。
「よし、行こう。窓を嵌めて、二つ目のベッドを作らないと」
「ええ、そうね」エリザは頷いた。
アイロンは陣地に向かって歩き出す。
エリザは彼の背中を長く見つめ、小さく呟いた。
「……変な人」
木から離れ、アイロンは家々へ向かう。
『リュモン、診断を』彼は心の中で呼びかける。『ニコチンとタールによる生物学的有害性は?』
頭の中でリュモンの冷静な声が響く。
『分析完了。ニコチンによる化学的害はゼロです。体内のタールも数秒で浄化されます。悪影響はありません』
「完璧だ……」アイロンは小さく呟いた。
二軒目の家に戻り、マットレスの上に置かれたガラス板を回収し、一軒目の建物へ向かう。
高圧のベクトルを指先に集中させ、切り出した強化ガラスを窓枠に合わせる。
透明な板はカチリと音を立てて木枠に嵌まり、完璧に隙間を塞いで冷たい森の風を遮断した。
三十分後、すべての作業が完了した。
太陽が地平線に沈みかけている。
クレルクたちはようやく落ち着きを取り戻し、恐る恐る建物を眺めていた。
エリリアは芝生の上に力尽きて大の字になっており、エリザは静かに、すっかり様変わりした陣地を見守っていた。




