第219話:新たな始まり
「鉄か?」
頭目は目を細め、アイロンの右腕の義手を値踏みするように見つめると、地面に唾を吐き捨てた。
「おい野郎ども、こいつはとんだお宝だぜ!」
周囲を取り囲むボロを纏った男たちが、顔を見合わせて下品な笑い声を上げる。
頭目は再びアイロンに視線を戻した。
「大人しく渡すなら、まあいい。命だけは助けてやるよ」
アイロンは一歩前に出ると、静かな声で尋ねた。
「気のせいか? 今、こいつら俺たちのことをガキ扱いしなかったか?」
「気のせいじゃない」
背後に立つノアが、ひどく乾燥した声で答える。
「なるほど」
アイロンは頷き、血に塗れた頬を持つ男を観察するように、わずかに首を傾げた。
「なあ、教えてくれ……もし俺がお前らのうちの一人を殺したら、お前ら、大声で泣き喚くか?」
頭目は息を呑み、瞬時にその顔を怒りに歪ませた。
「あぁ!? てめぇ、自分が何様だと思ってやがる、このクソガキが!」
「お前たちの主だが」
アイロンは微塵も笑みを浮かべることなく答えた。
「他に何がいる?」
「殺せ!」
男が咆哮し、真っ先に頭上高く斧を振りかぶって突進してきた。
ノアが既に一歩を踏み出し、エリリアが空中で旋回し始める。
だがアイロンは、振り返ることもなく二人に告げた。
「手出しはするな。いいな?」
「……分かった」
ノアは静かに応じ、その場に留まる。
「その方が好都合ね」
エリリアは鼻を鳴らし、興味深そうに観察するため少し高度を下げた。
十一人の男たちが群れを成してアイロンに襲い掛かる。
しかし、彼に到達する数歩手前で――ブーツの下の地面が、突如としてグリップ力を失った。
アイロンが単純な魔法のパルスを放ち、この区画の地面の『摩擦係数』をゼロにしたのだ。
結果は一瞬だった。
全速力で駆けていた盗賊団は、完全に足場を失った。
滑らかな氷の上を走っているかのように、足が空しく地面を滑っていく。
何が起きたのかを理解する間もなく、彼らは一斉にバランスを崩し、くぐもった罵声を上げながら折り重なるように泥の上へ転がった。
アイロンはゆっくりと歩み寄り、足元に倒れ伏す頭目を冷たく見下ろした。
「俺たちを殺すんじゃなかったのか?」
「この、野郎……ッ!」
男は唸り声を上げ、両手で身体を支えようとする。
だが、手のひらは無意味に滑り、足は空回りするばかりだった。
彼らは互いにしがみつき、どうにかして立ち上がろうともがいた。
その瞬間、アイロンは干渉を唐突に切断した。
摩擦が瞬時に回復する。
だが、彼らの身体の慣性は依然として前へと向かっていた。
ブーツが地面を「噛んだ」途端、全員が派手な音を立てて、二度目の顔面泥ダイブをキメることになった。
頭目が真っ先に立ち上がった。
その顔は狂気じみた怒りに歪みきっている。
獣のような咆哮を上げ、彼はアイロンへと飛びかかり、力任せに斧を振り下ろした。
アイロンは軽く身を躱して刃を避ける。
そのまま男の腕の下へと滑り込み、鋭く足を引っ掛けた。
頭目がバランスを崩した隙に、アイロンは軽く跳躍。
回し蹴りの要領で、男の肩甲骨の間へ正確に踵を叩き込んだ。
鈍い衝撃音。
男は呻き声を上げ、再び顔面から地面に崩れ落ちた。
アイロンは流れるような動作で男の後頭部に足を乗せる。
地面に軽く押さえつけながら、残る十人の男たちへと視線を巡らせた。
「これが、お前らの頭か? どう見ても、ただのピエロだが?」
その背後から、一人の男が音もなく忍び寄った。
錆びた剣を両手で振り上げ、アイロンの首筋目掛けて刃を振り下ろそうとする。
だが、技術者は振り返ることさえしなかった。
ただ背後へ人差し指を伸ばし、迫り来る金属を軽く弾く。
その瞬間、刀身に微視的な共鳴波が走った。
甲高い破裂音が響き、剣は数十の細かな破片となって草むらへと散っていく。
アイロンがそのまま空中で手を振ると――圧縮された空気の壁が、襲撃者を5メートル後ろへと吹き飛ばした。
アイロンは深く息を吐き、呆れたように首を振った。
「惨めだな……」
(そして、それは好都合だ)
彼は心の中でそう付け加えた。
頭目を踏みつける力を少し緩め、アイロンは平坦な声で残りの者たちに問う。
「俺たちの仲間にならないか?」
その言葉に、エリリアは空中でピタリと固まった。
すぐさま彼の耳元まで飛んでくると、小さな手をぶんぶんと振り回す。
「アイロン、あんた正気!? 少しは頭使いなさいよ! こんな人間のクズどもを連れて行く気!?」
「エリリア、こいつらは俺たちの『未来』だ」
アイロンは冷静に彼女をたしなめた。
「だから頼むから、もう少し丁寧な言葉遣いをしてやってくれ」
盗賊の集団の中から、脂ぎった髪を持ち、唇を裂くように傷跡のある女が一歩前に出た。
「本気で、私たちがホイホイあんたについて行くとでも思ってんの?」
女が牙を剥くように凄む。
他の悪党たちも重く暗い呟きでそれに同調し、再びアイロンを取り囲むように包囲を狭め始めた。
「選ぶのはお前たちだ」
アイロンは肩をすくめた。
彼らは一斉に襲いかかってきた。
アイロンは容易く攻撃を躱し、手のひらで突きをいなす。
他人の剣の軌道を逸らしながら、膝や胴体へ短く正確な蹴りを叩き込んでいった。
「食料はいらないのか? 家は? まともな身なりは? ――一言で言えば、まともな人生は?」
「ワケの分かんねぇこと抜かしてんじゃねえ!」
男の一人が咆哮し、大振りな一撃を放つ。
アイロンは瞬時に男の視界から消え去り、その背後へと出現した。
男の首根っこを掴むと、そのまま顔面を地面へと叩きつける。
「お前らに行き場がないことなど、誰の目にも明らかだ。哀れで愚かな人間の寄せ集めだからな」
飛んでくる次の斧を躱し、二人目の襲撃者を足払いで転倒させながら、アイロンは言葉を紡ぐ。
「俺は、近い将来確実に実現する『完璧な快適さ』をお前たちに提案している。お前たちに求めるのは些細なことだ。生き、手伝い、そして俺に仕えること」
頭目が必死に腕を突き、再び地面から這い上がってきた。
顔の泥は真新しい擦り傷と混ざり合い、その眼光は絶望的な怒りに染まっていた。
「ふざけんな……俺たちが、てめぇに仕えるだと!?」
「残念だが、お前たちに選択肢はない」
アイロンは静かに答えた。
彼が手のひらをわずかに下へ向けると。
盗賊たちの周囲の空気と土壌の分子の『運動エネルギー』が、一気にゼロへと急落した。
分子運動の完全な停止。
空気中の水分と土の奥深くの湿り気が、コンマ数秒で強固な氷の層へと結晶化する。
激しい氷結音が鳴り響き、十一人の人間全員が、足元から首の高さまで巨大な氷塊に閉じ込められた。
指一本動かすことすら不可能。衣服の布地すらも完全に凍りついている。
空間にパニックの波が広がった。
盗賊たちは荒い息を吐き、固定された首の範囲で必死にもがきながら、恐怖の悲鳴を上げ始めた。
アイロンは滑らかに剣を抜いた。
傷跡のある女の元へとゆっくり歩み寄り、その首筋の静脈に刃を押し当てる。
「選択肢は二つだ」
アイロンは頭目の目を見据えて言った。
「一つ目は、今ここで死ぬこと。二つ目は、俺たちについてきて忠誠を誓うこと。さっきも言った通り、お前たちが夢見る最高の生活を提供しよう」
頭目は歯を食いしばり、言葉を絞り出した。
「……クソ喰らえだ!」
「そうか」
アイロンは短く息を吐いた。
迅速な一撃を見舞うべく、剣を頭上に振り上げる。
「待ってくれ!」
盗賊の一人が悲痛な声を上げた。
「頼む、やめてくれ!」
女の首まであと一センチのところで、アイロンは剣を止めた。
哀れな盗賊は空気を飲み込みながら、パニックに陥った視線を頭目へと向ける。
「クレルク……おい、もう従おうぜ!? ただ……」
当のクレルクは、自分の部下たちを見渡していた。
ある者は震え、ある者は泣き、ある者は祈りを捧げている。
「わ……分かった」
恐怖を押し殺し、クレルクがその言葉を遮った。
アイロンは滑らかに剣を下ろし、鞘へと収める。
「素晴らしい」
「だが……」
クレルクは喉の奥に込み上げる塊を無理やり飲み込んだ。
「約束してくれ。あんたについて行けば、俺たちは本当に今よりマシな生活ができるんだと」
「約束する」
アイロンは平坦な声で答えた。
彼が指を鳴らすと、温度が瞬時に正常値へと戻る。
氷はあっという間に溶け去り、ただの飛沫と濡れた泥に変わった。
支えを失った者たちは音を立てて地面に倒れ込み、激しく咳き込みながら荒い息を繰り返した。
数人の男たちがすぐさま女の元へ這い寄り、怯えた様子でその肩に触れる。
「大丈夫か!? どこも怪我してねえか!?」
少し離れた場所では、立ち上がろうとするクレルクに、若い男が小声で尋ねていた。
「俺たち……これでよかったんですかね?」
「……分からねえ」
足元を見つめながら、クレルクは静かに呟いた。
(クソッ……こいつはとんでもねぇ悪魔だ)
拳を握り締め、アイロンの背中を睨みつけながら、彼は心の中で毒突いた。
(だが……)
クレルクは部下たちを、そしてアイロンを交互に見やる。
(もし、あいつの言葉の半分でも本当なら……)
「まあ、これで一件落着だな」
アイロンは静かに締めくくった。
エリリアが彼の耳元に留まり、小声で尋ねる。
「あんた、自分のガラクタがないからっていよいよ頭がおかしくなったの?」
アイロンは彼女の言葉を無視し、我に返りつつある悪党たちの方を振り返った。
「で、お前ら来るのか? 来ないのか?」
それから、彼は少しだけ声を張って付け加えた。
「ついでに言っておくが、俺と一緒にいるこのノアとエリリアは、俺よりずっと容赦がないし強い。次に俺たちを襲おうと考える時は、慎重になることだな」
クレルクは、無口なノアと小さな精霊へと視線を移した。
ゴクリと緊張の唾を飲み込み、彼は無言のままアイロンの後に続いた。
残された仲間たちも、それに従う。
一行は轍に沿ってゆっくりと歩き始めた。
アイロンは頭の後ろで両手を組み、先頭を歩く。
背後からは、十数個のブーツが重々しく泥を跳ねる音が響いていた。
「で、どうしてそうなる?」
アイロンは前を向いたまま尋ねた。
「『どうして』って、何が?」
肩の上を飛んでいたエリリアが、不思議そうに聞き返す。
「どうして俺のガラクタがないと、俺の頭がおかしくなってることになるんだ?」
「いちいち説明しなきゃ分かんないの!?」
精霊は小さな手を大げさに広げた。
アイロンは小さく鼻で笑う。
「お前には分からないさ。人がいなきゃ村は作れない。ましてや国家なんて論外だ」
「そりゃあそうだけど、でもこいつら……」
エリリアは後ろを振り返り、暗い顔でとぼとぼと歩く盗賊たちを見た。
「あいつらがどれだけ絶望しているか、見れば分かるだろう」
アイロンは彼女の言葉を遮り、少し声のトーンを落とした。
「ああいう手合いは、大抵の場合、多くのものを失っている。自分たちから全てを奪った連中を憎んでいるのさ。それが強盗であれ、殺人鬼であれ、あるいは貴族であれな。だが、自分たち自身がまさに『その連中』と同じになり果てていることには気づきもしない」
彼は少し間を置いて、こう付け加えた。
「ああいう連中は――最も危険であると同時に、最も扱いやすい」
「どういう意味だ?」
ノアが口を開いた。
「こちらが強ければ、連中は絶対に従う。だが、一度でも弱みを見せれば、瞬く間に喉笛を食いちぎりに来る」
アイロンは淡々と説明する。
「いいわよ、でも……あいつら、多分人殺しくらいやってるわよ? それも一度や二度じゃないはず」
エリリアが執拗に食い下がる。
「それに……あんた、あいつらを部下って呼んでたけど。あんたの性格からして、どうせ奴隷みたいにこき使う気なんでしょ」
「俺って、そんなに酷い奴に見えるか?」
アイロンは彼女を横目で睨んだ。
エリリアは無言で、深く頷いた。
アイロンは重いため息をつく。
「……ああ、確かにこき使うかもしれない。だが奴隷とは違う。奴らには自由がある。まあ……俺の言葉が絶対の命令になるのは当然だがな。殺しの件については……全くどうでもいい」
彼は両手を下ろし、話を続けた。
「いずれにせよ、もし連中が暴れて周辺の住民に迷惑をかけるようなら――その時は即座に叩き出すか、いっそ始末するだけだ」
「そっか……」
エリリアは短く返事をした。
無言の行軍が十分ほど続いた頃。
突然、エリリアが空中でぴたりと止まり、憤慨したような高い声を上げた。
「ちょっと待って! ってことは、夜は私とノアで野営地の見張りをさせられるってこと!?」
「そういうことになるな」
アイロンは鼻で笑った。
「ヤダ! 絶対ヤダ! ヤダー!」
彼女は悲鳴を上げながら、彼の頭の周りをぐるぐると飛び回る。
「分かった分かった、何か考えるさ」
アイロンは適当にあしらったが、内心ではニヤリと笑いながらこう思っていた。
(どうせお前たちに選択肢なんてないんだがな)
次第に、暗い夜の帳が草原を覆い始めた。
列の後方から、クレルクの自信のなさそうな声が聞こえてきた。
「あの、すみません、アイロンさん……そろそろ、野営にしませんか?」
アイロンは足を止め、振り返る。
「なぜ?」
「えっと……俺も部下たちも、かなり限界でして」
クレルクは唾を飲み込みながら答えた。
「お前たち、長距離を歩くのには慣れているんじゃないのか?」
アイロンは片眉を上げたが、ボロボロになった悪党たちの疲労困憊した顔を見て、小さく息を吐いた。
「……分かった」
彼は自分たちの仲間に向き直る。
「ここで野営にする」
「オーケー」
エリリアが肩をすくめる一方で、ノアはただ不満そうに唇を噛んだ。
アイロンは周囲を見渡した。
暗闇の中には何も見えない。森も、丘もなく、ただ一面の草むらが広がっているだけだ。
「ここで直接寝るしかないな。エリリア、焚き火の準備をしろ」
精霊は一瞬で乾いた枝や枯草を集め、手際よく小さな山を作った。
アイロンが近づき、指を軽く振る。
枝の周囲の空気温度を『発火点』まで引き上げると、乾いた木々は途端に明るい炎を上げて燃え盛り始めた。
「よし、準備完了だ」
アイロンは大きく伸びをした。
「全員、おやすみ」
彼は左腕を頭の下に敷き、そのまま草むらの上にゴロリと横になった。
エリリアは地面から少し浮いた場所で足を組み、瞑想に入る。
クレルクの部下たちは、ヒソヒソと囁き合いながら、おずおずと火の周りに陣取った。
三十分ほどが経過した。
焚き火が静かにパチパチと音を立て、荒い寝息を立てる盗賊たちの上に長い影を落としている。
クレルクが、そっと片目を開けた。
全員が眠っているように見えた。
彼の視線が、草の上に置かれたアイロンの剣へと向けられる。彼の頭から、ほんの数歩の距離だ。
頭目は息を殺しながらゆっくりと四つん這いになり、慎重に一歩前へと這い進む。
そして、剣の柄へとそっと手を伸ばし――。
「……何をしている?」
耳元で、平坦な声が響いた。
クレルクは恐怖で飛び上がり、勢いよく身をよじって振り向いた。
彼の背後にはノアが立っていた。
腕を組み、冷ややかな視線を彼から微塵も逸らすことなく見下ろしている。
「あ……」
背中を冷や汗が伝うのを感じながら、クレルクは口ごもった。
「ち、違う、ただ、用を足しに行こうと……」
「そうか」
ノアは乾燥した声で返した。
「行け。手早く済ませろ」
(クソッ……)
クレルクは心の中で毒突き、重いため息をつくと、逃げるように暗闇へと消えていった。
数時間が過ぎ、朝が訪れた。
アイロンが最初に起き上がり、関節を鳴らしながら背伸びをする。
エリリアは滑らかに瞑想から覚め、ノアは少し離れた場所で既に周囲の音に耳を澄ませていた。
焚き火はすでにほぼ消えかけ、薄青い煙だけが立ち上っていた。
「片付けろ」
アイロンは精霊に短く命じた。
エリリアが指をパチンと鳴らす。
燃え残りの枝と灰は、一握りのエメラルドグリーンの火花となって瞬時に空中に霧散した。
アイロンは、もぞもぞと起き上がってきたクレルクへと視線を向ける。
アイロンと目が合った頭目は、言葉を交わすまでもなく全てを察し、大慌てで部下たちを叩き起こし始めた。
約五分後、十四人の一行は再び街道を歩き出していた。
一方その頃。
少し離れた小高い丘の上を、一人の少女が歩いていた。
軽やかなベージュのカーディガンに、暗い色のパンツ。そして左腰の硬いベルトには、長剣が吊るされている。
彼女はふと立ち止まり、足元を見つめた後、遥か遠くへと視線を向けた。
街道を歩き去る、十四個の影の方向へ。
「……これが、私をここに導いたのね」
少女は静かに呟いた。
道を行くシルエットに目を凝らし、彼女は言葉を続ける。
「ってことは……『彼』は、あの集団の中にいるの?」




