第213話:最後の命令
その頃、クロン王国の近郊。
ルシウス・フェラミールは背筋を伸ばし、左手を剣の柄に添えて立っていた。
その口元には、微かな笑みが浮かんでいる。
彼は向かいに立つ男へ視線を移し、静かに口を開いた。
「やれやれ、ラウル・ヴェルナー……。その地位に恥じぬ実力はお持ちのようだ」
ラウルは柄を握る手にぐっと力を込めた。
短く一歩、前へ踏み出す。
「てめぇ、何者だ?」
「私は『秩序』です」
ルシウスは平然と答えた。
次の瞬間、彼は一気に距離を詰めた。
ラウルの反応は同時だった――乾いた金属音を響かせ、刃と刃が激突する。
一撃、二撃、三撃。
四撃目にして、ラウルは相手の死角のリズムを捉えた。
全身を捻り、全霊の力を込めた斜めの斬撃を放つ。
刃はルシウスの脇腹から滑り込み、胸郭を斜めに両断して肩までを完全に切り裂いた。
しかし。
血飛沫や骨が砕ける音の代わりに響いたのは、静かな「シュー」という音だけだった。
ルシウスのシルエットが千切れ、瞬く間に濃密な灰色の霧へと変わる。
「幻影を相手に戦う気分は……いかがですか?」
どこか頭上から、嘲るような声が降ってきた。
ラウルが鋭く頭を上げる。
ルシウスは広場の端にある高い松の太い枝に座り、両足をぶらぶらと揺らしていた。
だが、ルシウスが言い終わるよりも早く。
広場に立っていたラウルの身体が、一瞬にしてその形を失った。
皮膚も、鎧も、剣も、すべてがただの灰色の泥の山へと変わり、地面に崩れ落ちる。
それと全く同時のコンマ数秒後。
ルシウスの真後ろで――ラウルはすでに、彼の後頭部へと刃を振り下ろしていた。
「俺の幻影の味は、どうだ?」
ラウルが低く唸る。
一閃。
ラウルの刃が、ルシウスの首をあっさりと跳ね飛ばした。
だが、宙を舞う頭部も、後ろへ崩れ落ちる胴体も。
空中で再び明滅し、霧となって溶けていく。
ラウルは枝から飛び降り、草の上にふわりと着地した。
その顔には、不快感に歪んだ表情が浮かんでいる。
「悪くありませんね」
再び、聞き慣れた声が耳に届いた。
ルシウスは、広場の中央――一番最初に立っていたのと全く同じ場所に立っていた。
手のひらを上げ、ラウルに向かって軽く手を振る。
そして、カチャリと静かな音を立てて、三度剣を抜いた。
ラウルは苛立たしげに息を吐き出し、剣を両手で握り直した。
二人は再び、互いに向かって一直線に駆け出した。
同じ頃、ドーンヘイムにおいて。
まともに立っていられるのは、リュモンが肉体を制御するアイロンと、虫の息のダーウィンだけだった。
少し傾斜になった乾いた泥の中には、ノアが横たわり硬直している。
アイロンは己の潜在意識の底から、ふらつくダーウィンの姿を見つめ、必死に祈るように呟いた。
『頼む……。頼むから、お前だけは、ダーウィン。持ち堪えてくれ……』
次の瞬間。彼らの足元の地面が、文字通り裂けた。
オルゲルドとヴァルデスが仕掛けた三つの『C14』が、同時に起爆したのだ。
岩盤を貫くような轟音が地中を駆け抜ける。
地面が三メートルの厚さで隆起し、建造物のコンクリートの土台が外側へとひっくり返った。
セクター一帯が、一瞬にして視界を遮る灰色の粉塵、煤、そして細かな瓦礫に呑み込まれる。
アイロンの視界は一秒だけ奪われたが、直後にリュモンの投影インターフェースのグリッドが網膜に展開された。
渦巻く煙の中に、数百もの赤い熱源シグネチャが明滅する。
それと同時に、広場の上空を覆う雲の隙間から、超巨大な岩の塊が落下してきた。
自動タレットは沈黙したままだ。弾薬もエネルギーセルも、すでに完全に底を突いていた。
『クソッ……! クソッ、なんでこうなる!?』
アイロンは歯を食いしばった。
震える足で傍らに立っていたダーウィンが、血まみれの顎を手の甲で拭った。
その手には、まだ拳銃が握られている。
最後の一滴、極限まで絞り出した不安定なエネルギーのパルスを銃に注ぎ込み、ダーウィンは銃口を跳ね上げて引き金を引いた。
銃口が吠える。
強烈なエネルギーの閃光が、落下する巨大岩のど真ん中へと食らいついた。
乾いた破砕音が鳴り響き――空中で、巨大な岩が木っ端微塵に砕け散った。
ダーウィンは重い息を吐き出し、呼吸を整えながら叫んだ。
「諦めるには早すぎる! 最後までやり抜こうぜ!」
アイロンは一瞬の硬直から我に返った。
『ああ……その通りだ!』
彼は瞬時にリュモンへと思念を飛ばす。
『全員に防御態勢をとらせろ! もうどうなってもいい、使える魔力を全部使い切れ!』
「承認」
アイロンの身体の周囲に、透明なベクトル・フィールドの輪郭が展開される。
飛来する弾雨が、見えない障壁に激突した。
金属の軋むような悲鳴と火花のシャワーを散らしながら、銃弾は軌道を変え、跳弾となって後方へ弾き返されていく。
自らの弾丸を浴び、鎧を貫かれた数十人の騎士たちが次々と倒れた。
数発の弾丸が弱まった障壁を抜け、アイロンの身体を掠めたものの、防衛線はかろうじて持ち堪えた。
戦場から二キロ離れた装甲馬車の中。
煙に包まれた結晶器のスクリーンを見つめながら、ヴァルデスとオルゲルドは満足げに笑みを浮かべていた。
「奴らも限界だな」
ヴァルデスが冷酷な笑みを深める。
二人の王は全く同時に通信機を口元に寄せ、強襲部隊の指揮官たちに最終命令を下した。
「終わらせろ。一匹残らず踏み潰せ」
歩兵の戦列が再び前進を開始する。
その後の五分間。リュモンは限界を超えて過負荷となったアイロンの肉体を操り、剣と鋼の義手で絶え間ない円形の防御軌道を描き続けた。
麻痺に縛られながらもエリリアを胸に抱き続けるノア。彼への接近ルートを、リュモンは一人で完全に封鎖していた。
敵の波状攻撃に、ほんの十秒間だけ短い隙が生まれた時。
アイロンは意識の中で、ダーウィンへと意識を向けた。
青年は押し殺したような重い呻き声を上げ、左膝から崩れ落ちていた。
震える手から拳銃が滑り落ちる。
彼は熱を帯びた粉塵の中に両肘を突き、うつ伏せに倒れるのを辛うじて堪えていた。
アイロンは目を凝らし――そして、恐怖に凍りついた。
ダーウィンの脛に空いた弾痕が、黒く泡立つような瘡蓋に覆われていたのだ。
傷の周囲の肉がみるみるうちに黒ずみ、腐敗し、膿のような体液を垂流しながら崩れ落ちていく。
「ダーウィン……」
リュモンの音声モジュールを通じ、ノイズ混じりのアイロンの声が響く。
「その傷は、どこで……? いつ撃たれたんだ……?」
ダーウィンは歯を食いしばり、申し訳なさそうに視線を落とした。
「悪い……。ごめん、アイロン」
青年は、途切れ途切れの掠れた声で答える。
「さっきの一斉射撃の時……掠っちまった。邪魔したくなくて……俺だけで、耐えられると思ったんだ……」
リュモンは瞬時に手を伸ばし、崩壊していくダーウィンの脚の組織に手のひらを押し当てた。
ほんの微小な再生パルスだけでも起動しようと試みる。
しかし、エンジニアの指先からは、無力な静電気の乾いたパチパチという音が鳴っただけだった。
「エラー。組織の修復は不可能です」
毒は猛烈な勢いでダーウィンの脛を侵食し続けており、彼は物理的にもう左足に体重をかけることすらできなかった。
「警告」
戦闘の轟音を切り裂くように、リュモンの無機質な声がアイロンの脳裏に響く。
「敵歩兵の銃器類弾薬が完全に枯渇しました。現在展開中の戦力は、近接戦闘および魔法に限定されています」
『チャンスだ……!』
アイロンは意識の中で叫んだ。
『突破しろ、リュモン!』
リュモンが弾け飛ぶように駆け出した。
限界を超えた筋肉が断裂の悲鳴を上げ、皮膚からは文字通り灰色の煙が立ち昇る。
顔や腕の毛穴からは、どす黒い血が細かな雫となって滲み出していた。
リュモンは歩兵の陣形の中へ嵐のように突っ込んだ。
両断される盾、へし折られる槍の柄、飛び散る火花――。
リュモンは敵に息をつく暇すら与えず、次から次へと兵士を斬り伏せていく。
結晶器越しに、ヴァルデスは冷ややかな嫌悪感を浮かべてその光景を観察していた。
「まだ終わらせないつもりか?」
王は通信機に向かって冷徹に言い放つ。
「もう十分だ」
盾持ちの背後で数分間呪文を練り上げていた魔術師たちが、一斉に杖を振り上げ、抑制の封印を解き放った。
防衛陣地の前の空間が、一瞬極限まで圧縮されたかと思うと。
次の瞬間、目が眩むような同心円状の巨大な魔法波となって破裂した。
破壊のインパルスが、その軌道上のすべてを薙ぎ払う。
切り倒された松の木が木っ端微塵に粉砕された。
アイロンと、その近くにいたダーウィンの身体が、文字通り空中に跳ね上げられ、三十メートル後方へと吹き飛ばされた。
二人は凄まじい音を立てて地面に叩きつけられる。
リュモンは肩から重々しく転がった。
着ていた服はほとんど燃え尽き、胸や両腕の皮膚は真っ黒な火傷に覆われ、煙を上げている。
隣には、激しく咳き込むダーウィンが倒れていた。
彼の身体も酷く焼け焦げており、左脚の腐りかけた傷口は衝撃でさらにどす黒く変色していた。
リュモンは喘ぎながら、両肘を突いて上体を起こす。
首を向け、ドーンヘイムの廃墟の上に静かにそびえ立つ塔を睨みつけた。
『クソッ……!』
アイロンの悲痛な咆哮が轟いた。
『一体お前は何のためにそこにあるんだよ、クソッタレが!! 何のために!!』
「感情的ストレスレベルの低下を実行します」
リュモンが神経系に残留ブロック・パルスを流し込みながら応答する。
「制御回復。歩兵接近の脅威を検知」
リュモンはアイロンのパニックと狂乱を強制的に鎮火させ、彼の理性を稼働状態へと引き戻した。
それと並行して、沸騰寸前のエンジニアの肉体を地面から引き剥がすように立たせ、迫り来る騎士たちの最初の一撃を剣で弾き返す。
生き残った騎士たちが包囲網を狭めてくる。
盾の向こう側では、魔術師たちがすでに新たな呪文の詠唱を重々しく響かせていた。
リュモンは背筋を伸ばして立った。
胸の中の心臓は狂ったような速度で乱打を繰り返し、両目からは、乾いた煤と混じり合った血の細い筋が再び流れ落ちる。
『リュモン』
アイロンが、最終コマンドを下した。
『すべてを焼き尽くせ。……何も残すな』
「承認」
その答えが響く。
「リミッター解除。オーバーロードを開始します」
リュモンに制御されたアイロンの肉体が、目を開けていられないほどの閃光を放った。
強烈な跳躍。迫り来る敵の包囲網の遥か上空へと、瞬く間に舞い上がる。
空中にいる状態で、アイロンの剣と義手から、超巨大な弧を描くエネルギー波が解き放たれた。
鼓膜を破るほどの爆音とともにそれが地上へ叩きつけられ、敵歩兵の前衛部隊を一瞬にして灰燼に帰す。
だが、アイロンの瞳は残酷な現実を捉えていた。
森の青白い煙の向こうから、未だ数百の無傷の兵士たちが、廃墟に向かって行進を続けているのだ。
跳躍の頂点、空中に滞空するアイロンにとって。
時間の流れが、極限まで遅くなったかのように感じられた。
絶対的な静寂の中、彼は眼下に広がる敵の刃と、静止したような戦場を見つめていた。
「リュモン……」
アイロンが静かに尋ねる。
「空間転移は、あと何回残ってる?」
「空間転移可能回数、残り三回です」
アイロンは一瞬だけ目を閉じた。
「ノア、エリリア、ダーウィンの三人を転移させろ。……お前が見つけられる、一番安全な場所へ」
「完全な形での実行は不可能です」
リュモンの冷たく、乾いた声が響いた。
「対象『ダーウィン』は死亡しました。生体反応ゼロ。死因はアナフィラキシーショックおよび組織の毒性崩壊です」
アイロンは眼下に視線を落とした。
黒焦げになった大地の上。
泥に顔を突っ込んだまま、ダーウィンはピクリとも動かず横たわっていた。
アイロンの口元に、苦く、ほんの僅かな自嘲の笑みが浮かぶ。
「……死んだ、か」
かすかな吐息とともに呟く。
「そうか……。なら、ノアとエリリアを飛ばしてくれ……」
「そして俺は……。ここらで、すべてを終わらせる」




