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第212話:堕落

ノアは濡れた泥の中に倒れ伏していた。


息を吸うたび、胸郭に鈍い痛みが走る。


頭はガンガンと鳴り、口の中には吐き気を催すような鉄の血の味が広がっていた。


どうにか肘を地面に突き立て、彼は上体を起こす。


その左手は、しっかりとエリリアを握りしめていた。


立ち込める煙の切れ間。


ノアの目の前で、魔法がアルベルトの側頭部を貫いた。


彼が即死し、そしてアイロンがその場に立ち尽くす光景が焼き付く。


ノアはむせび泣くように息を吐き、痺れた両足に鞭打って立ち上がった。


ポケットはない。エリリアをしまう場所などない。


右手に剣を握り直し、ふらつきながらも一歩前へ踏み出す。


「行くぞ……」


ノアは自分自身に言い聞かせるように嗄れた声で呟いた。


廃墟から百メートル離れた場所。


絶え間ない爆発の轟音で耳が遠くなりそうだった。


ダーウィン、マレク、クララは、押し寄せる敵部隊に応戦していた。


地中からの爆発音が大地を揺るがした時、ダーウィンはピタリと射撃を止めた。


ゆっくりと、首を向ける。


負傷者、女子供、男たち、そしてアルベルトがいたはずの強固なバンカー。


その場所には今、黒煙を上げる瓦礫の山があるだけだった。


ダーウィンの目が見開かれる。


指先から拳銃が滑り落ちた。


マレクの叫び声など耳に入らず、彼はバンカーに向かって駆け出した。


細かなコンクリート片に足を取られながらも、焼け焦げた瓦礫の上へとよじ登る。


「アルベルト!」


ダーウィンは引き裂かれたような声で叫んだ。


瓦礫の端に、彼を見つけた。


アルベルトは重い梁に挟まれ、横向きに倒れていた。


その側頭部には、血に染まり、溶けかかった氷の破片が突き刺さっていた。


ダーウィンはその場に崩れ落ちるように膝をついた。


震える両手が、アルベルトの血まみれの襟首を盲目的に掴む。


動かない体を、必死に揺さぶり始めた。


「アルベルト……アルベルト、頼む、黙らないでくれ! なあ、聞こえるか!? 立てよ、クソッ! アルベルト!」


アルベルトの頭は力なく左右に揺れるだけだった。


ガラス玉のような瞳は空を見つめ、砕けた頭蓋から黒ずんだ血がゆっくりと泥の上へと滴り落ちている。


ダーウィンの背後。


煙に覆われた溝から、重装騎士が音もなく姿を現した。


兵士は無言で剣を構え直し、膝をつく少年の首へと刃を振り上げる。


ダーウィンは振り返ることすらしない――周囲のことなど、何も見えていなかった。


凶刃が振り下ろされる、ほんの一瞬前。


リュモンが、騎士の兜と胸当ての間の無防備な隙間に、鋭く刃を突き立てた。


頸椎が砕ける乾いた音が響く。


継ぎ目が弾け飛び、首を失った兵士の体がコンクリートの上に崩れ落ちた。


アイロンの眼がダーウィンを捉える。


エンジニアの喉から、無機質な声が漏れた。


「そいつは死んだ。しっかりしろ。ここは戦場だ、葬式会場ではない」


返事を待つことも、一瞬の猶予を無駄にすることもなく。


リュモンはつま先で地面を蹴り、煙の中へと消え、次なる敵兵の群れへと向かっていった。


ダーウィンは泥の中に座り込んだままだった。


その頬を涙が伝う。


彼は額を地面に擦り付け、静かに嗚咽した。


「なんで……なんでこんなことに……ッ!」


五十メートル後方。


マレクとクララは、その惨状を目の当たりにしていた。


マレクは一瞬、動きを止めた。


奥歯を強く噛み締める。


無意識のうちに、二筋の濁った涙がこぼれ落ちた。


彼は血まみれのグローブの甲で乱暴にそれを拭い去り、銃のボルトを引いた。


傍らのクララは、込み上げてくるものを必死に飲み込んだ。


涙で視界が滲む中、指先だけが機械的に動き、新しい弾倉を拳銃に叩き込む。


「アルベルトのために……」


マレクは歯を食いしばって唸った。


「アルベルトのためにも、俺たちは絶対に勝たなきゃならない!」


前方では、敵の魔術師部隊が陣形を固めていた。


歩兵の盾の陰に隠れ、防衛線に向かって魔法の雨を降らせている。


奴らを叩き出すには、濃密な援護射撃が必要だった。


マレクは右翼の塹壕へ振り向き、爆発音をかき消すほどの声を張り上げた。


「ガストン! ガストン、どこだ!? 援護しろ、クソ野郎! 俺があの魔術師どもを黙らせてくる!」


――沈黙。


「クソッタレが!」


マレクは吐き捨てるように叫んだ。


これ以上の一秒たりとも無駄にはできない。


太もものホルスターから拳銃を抜き放つ。


濃い焦げ臭さにむせ返りながら、マレクは飛び出し、煙に包まれた村の入り口へと一直線に突っ込んでいった。


煙の中から、二人の軽装剣士が飛び出してくる。


マレクは双銃を構え、至近距離で引き金を引いた。


耳をつんざくような轟音とともに銃口が火を噴く。


不安定なエネルギーが兵士の鎧の中で直接爆発した――閃光、そして爆音。


燃え盛る死体の間をすり抜け、走りながら短剣を抜き放つ。


そのままの勢いで、三人目の歩兵の喉を掻き切った。


血を吸った泥に足を取られながらも、敵の陣形をこじ開け、前へ前へと進んでいく。


しばらく進んだ後、マレクは急ブレーキをかけた。


ブーツが何かに引っかかったのだ。


水たまりの轍の中に、ガストンが倒れていた。


切断された頭部は、仰向けに泥の中に転がっている。


三歩先には、剣でズタズタに切り刻まれた胴体が横たわっていた。


マレクは立ち尽くした。


胸の中で、心臓が重く一度だけ脈打つ。


「クソ……」


絞り出すような、ひび割れた声が漏れた。


血だまりを跨ぎ、マレクはさらに通りを進んだ。


次の家の崩れたポーチで、ケイデンを見つけた――彼の胸郭は、崩れ落ちた梁によって押し潰されていた。


少し先には、石積みの壁に背を預けたまま、腹に三つの風穴を開けて事切れているルナの姿。


入り口の戸口からは、エイデンの動かない体が半分転げ落ちていた。


皆、死んでいた。


マレクの頭の中で、何かが弾ける音がした。


理性が真っ白に染まる。


一切の制御を失い、彼は獣のように咆哮した。


周囲など見向きもせず、迫り来る三十人の重装騎士の部隊へ向かって、単身特攻をかける。


手当たり次第に拳銃を乱射し、鋼の盾に混沌の弾丸を撃ち込みながら、手の届く限りの敵を剣で斬り刻んでいった。


背後から、歴戦の兵士が音もなく剣を振り上げる。


マレクは振り返りもしない。背中への一撃を受け入れるかのように。


だが最後の一瞬、二人の間にリュモンが割り込んだ。


エンジニアの剣が空を切り裂き、騎士の手首ごと切断する。


直後、正確な蹴りを叩き込み、兵士を後方へと吹き飛ばした。


「怒りで理性が曇っているな」


リュモンが乾いた声で告げる。


「黙れ!」


マレクは血と唾を撒き散らしながら絶叫し、アイロンの肩を力任せに突き飛ばした。


「黙れ! 俺たちに関わるな!」


リュモンは瞬時に優先順位を再計算した。


マレクが命令に従わないと判断した彼は、自身の戦闘ルートを再構築する。


無言のまま、圧倒的な速度でマレクの背後にピタリと追従し始めた。


マレクの死角を完全にカバーし、彼に致命傷が届くほんのコンマ数秒前に、すべての敵を刈り取っていく。


右翼でマレクとリュモンが敵陣を切り裂いている間。


クララは、崩れかけた家屋の小さな陣地を死守していた。


彼女の両手には二丁の拳銃。


一丁はアイロンから渡されたもの。


もう一丁――柄に傷が入り、乾いた泥の跡が残るそれ――は、ほんの数秒前に地面から拾い上げたものだ。


クララは両腕で銃火を撒き散らしていた。


発砲のたび、強烈な反動が肩を打つ。


スライドが激しく前後し、熱を帯びた薬莢が足元の泥の中へと吐き出されていく。


唇が震えていた。


耳の奥で止まらない耳鳴り。


煙と、無意識のうちに溢れる涙で、視界はねっとりとした膜に覆われている。


集中力を取り戻すため、血が滲むほど強く下唇を噛み締めた。


そして、鼻から深く荒い息を吸い込む。


「駄目……負けちゃ駄目……」


銃声の合間、戦場の轟音をかき消すように彼女は自分に言い聞かせた。


「感情に支配されちゃ駄目。それは間違いよ。大丈夫……すべて制御下にあるわ。しっかりして、クララ。全部大丈夫……」


左腕を素早く跳ね上げ、走り抜けようとした兵士を短い連射で撃ち抜く。


すぐさま右手の銃口を盾持ちの騎士へと向けた。


その頃。


村から二キロ離れた装甲馬車の中。


オルギエルドは地図の上に身を乗り出し、通信用の結晶器を口元に押し当てていた。


アーティファクトのガラス越しに、前線が廃屋の周辺で膠着状態に陥っているのが見える。


「一斉掃射だ! 今すぐやれ!」


オルギエルドは声を嗄らして吠えた。


「すべて吹き飛ばせ!」


「しかし、そこには味方の歩兵も残っております!」


ノイズ混じりに指揮官の声が響く。


「歩兵など知るか! 撃てと言っているんだ!」


狂気に満ちた叫びとともに、オルギエルドはアーティファクトを強く握りしめた。


一秒後。


数百の砲門が同時に火を噴く、鼓膜を破るほどの爆音が轟いた。


クララは左の銃をリロードする暇すらなかった。


頭上の空気が、一瞬にして圧縮される。


最初の大口径弾が、クララの右前腕に直撃した。


骨が砕け、指先から弾き飛ばされたアイロンの拳銃が泥の中へ落ちる。


激痛に悲鳴を上げる間もなく、二発目の衝撃。


鈍い音とともに左肩を撃ち抜かれ、彼女の体は半回転して地面に叩きつけられた。


さらに続く、途切れることのない弾幕の壁。


太ももを貫通し、右膝を粉砕し、そして深く腹部に食い込んで内臓を引き裂いた。


衝撃波が、クララの体を激しく仰向けに吹き飛ばす。


手から滑り落ちたもう一丁の銃も、すぐそばの泥の海へと沈んでいった。


息が詰まる。


口の中には瞬時に温かい血が溜まったが、吐き出すことすらできなかった。


それはただ顎を伝い、襟元へと流れ込んでいく。


少女は仰向けのまま、無力に空を見つめていた。


戦場の音――怒号、銃声、燃え盛る炎の音――が急速に遠ざかり、ただの低いノイズへと変わっていく。


指先がわずかに痙攣し、地面を探ろうとしたが、腕は言うことを聞かなかった。


(どうやら……)


薄れゆく意識の中、最後の、静かな思考がよぎる。


(どうやら、これで……終わりみたい……)


一方、マレクが敵部隊を突破していた場所。


空気が濃密な破裂音に引き裂かれた――部隊が一斉射撃に移行したのだ。


泥から引き抜いた剣と右腕の義手で、リュモンは途切れることのない防御円を描き出していた。


金属音とともに銃弾が義手から火花を散らし、鋳鋼に当たってひしゃげる。


刃が風を切る音を立て、飛来する破片の軌道をことごとく逸らしていった。


しかし、抜けきらなかった二発の弾丸が、アイロンの左前腕と首の露出した皮膚を掠め、深い裂傷を残した。


一秒と経たないうちに、傷口の端が急速に黒ずみ、緑色を帯び始める。


傷の周囲の皮膚は瞬く間に炭化し、萎縮していった。


『リュモン!』


血管を這い回るような、焼け焦げるような冷気を感じながら、アイロンは自身の意識の中で吼えた。


『毒だ! 首と腕だ!』


「中和プロセスを開始」


アイロンが言い終わるよりも早く、リュモンは残留魔力のパルスを直接患部の組織へと注ぎ込んだ。


緑色の変色がみるみるうちに焼き尽くされ、灰色の乾燥したかさぶたへと変わる。


傷口は厚く薄い膜で覆われ、毒素の血流への侵入を完全に遮断した。


怒りに目を血走らせたマレクは、弾幕に一切の注意を払っていなかった。


銃を構え、さらに一歩前へ踏み出した瞬間、一発の弾丸が彼の右肩を撃ち抜いた。


衝撃でマレクの体は宙で回転し、地面に叩き落とされる。


リュモンは瞬時に移動ベクトルを再計算。


低く長い三歩の跳躍で、エンジニアは倒れた青年の傍らへと滑り込んだ。


えぐれたマレクの肩に血まみれの手のひらを押し当て、リュモンは最後の一滴まで再生魔力を注ぎ込む。


静かなシューという音とともに筋肉が繋がり始め、動脈からの出血が止まる。


だが次の瞬間、敵の戦列が再び、密集した一斉射撃を放った。


二発の弾丸が同時にマレクの左太ももを貫き、骨を粉砕する。


三発目と四発目が右膝と脛を撃ち抜いた。


さらに三発の銃弾が、彼の両腕を貫通する。


胴体だけが無事だったのは、アイロンが義手で彼の体を覆い隠し、金属の腕で主要な打撃を受け止めていたからに過ぎない。


マレクは息を呑むような鈍い悲鳴を上げ、再び泥の中へと崩れ落ちた。


手足の破れた動脈から、どす黒い鮮血がとめどなく溢れ出す。


『クソッ! 一体どうなってやがる!?』


アイロンは狂乱して吠えた。


『リュモン、治癒しろ! 治癒して後ろへ下がれ!』


「命令の実行は不可能です。治癒および再生用の魔力リザーブは完全に枯渇しました。これ以上の試みは、ホストの即時的な死をもたらします」


『構うもんか!』


アイロンは体の主導権を奪い返そうと足掻きながら叫んだ。


『何でも使え! 残り全部持っていけ! そいつを助けろ!』


「物理的退避の決定を下します」


リュモンは感情を交えずに答えた。


魔力によるエネルギー消費を抑え、リュモンは左手でマレクの襟首を掴んだ。


純粋な腕力のみを使い、弾雨を弾き返しながら、泥の中を強引に引きずって移動する。


移動しながら、マレクの足の傷を焼灼するために微弱なパルスを使おうとしたが、何も起こらなかった。


しばらくして、リュモンはマレクの体を松の枝の安全な影へと引きずり込んだ。


比較的遮蔽された空間に入ると、リュモンは一瞬だけアイロンの首を後ろへ向けた。


視覚センサーが、崩れた家屋の一つがある遠方の側面を捉える。


そこには、ピクリとも動かないクララが横たわっていた。


自身の意識の奥底で、アイロンは無力感と狂気に満ちた絶叫を爆発させていた。


『リュモン! 彼女を助け出せ! 何とかしろ! 魔力を使え! 隠しリザーブを起動しろ!』


「実行不可能です。対象『クララ』は生命維持に適合しない損傷を受けました。三十秒前に物理的な死を確認。ホストの再生リソースは完全に枯渇しています。使用を試みれば、あなたの心臓は即座に停止します」


マレクが重く息を吸い込んだ。


煤と血にまみれた指先が、辛うじてアイロンの袖を握りしめる。


生命の兆候すら消えかけていたが、その濁った瞳は彼へと向けられていた。


「置いてけ……」


泥に血を吐き出しながら、マレクは粘つくような声で絞り出した。


「俺は置いていけ、アイロン……俺なんかに、時間を無駄にするな……」


『マレク、黙れ!』


怒りが理性を飲み込んでいくのを感じながら、アイロンは唸った。


だが、マレクはゆっくりと、しかし確固たる意志を持って首を横に振った。


「もう、いいんだ……」


彼は囁いた。


アイロンは数秒間、動きを止めた。


光を失っていくマレクの瞳を見つめ、遠くに転がるクララの動かない体を見つめ。


内で渦巻いていた混沌とした怒りが、急速に冷え込んでいくのを感じた。


意識が澄み渡っていく。


エンジニアは無理やり深呼吸をし、強引に感情のコントロールを取り戻した。


『分かった……』


アイロンは息を吐く。


『もういい。リュモン、やめろ。魔力の供給試行を停止しろ』


三十メートル右方では、未だに不均等な戦闘が続いていた。


ノアは荒い息を突き、かろうじて足を踏みとどまりながら三人の騎士を相手に応戦している。


左手では、エリリアを胸に強く抱き寄せていた。


身をよじり、短い足払いで一人目の兵士の足を刈り取る。


しかし、二人目へ致命の一撃を振り下ろそうとしたその瞬間、彼の体は突如として痙攣に襲われ、硬直した。


ノアの筋肉が一瞬にして強張る。


剣は空中でピタリと止まった。


敵の硬直を見逃さなかった三人目の騎士が、流れるような動作で両手剣を構え直す。


そして渾身の力で、ノアの無防備な胸のド真ん中へと切っ先を突き出した。


ノアは、動かない首と背中を無理やり強張らせ、最後の力を振り絞って重心をずらす。


そのまま横向きに、岩場の上へともんどり打って倒れ込んだ。


敵の剣は、彼の肩のすぐ横の地面へと突き刺さる。


左手のエリリアを離さぬまま、ノアは斜面を転げ落ち、アイロンの足元に重い音を立てて転がった。


「アイロン……」


ノアは嗄れた声で呟き、せめて顎だけでも上げようともがいた。


「俺……ほとんど動けない……足が言うことを聞かないんだ……」


「対象『ノア』のダメージ分析」


リュモンが即座に応答する。


「敵のテクノロジーによる微小パルス放電が血管系に拡散し、運動ニューロンの完全な一時的ブロックを引き起こしています。筋麻痺です。物理的応答は九十四パーセント低下」


アイロンは動けないノアを見下ろし、次いで意識を失ったマレク、そして微かに光を放つだけのエリリアへと視線を移した。


「クソッ……」


足元の地面が、再び震え始めた。


鬱蒼とした森の奥から。


新たな歩兵の波が、整然とした陣形を組んで森の開けた場所へと姿を現していた。

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