第211話:すべてが燃える
オルゲルドの乗る馬車の中には、重苦しい唸り音が響いていた。
通信機のスピーカーからは、ノイズ混じりにヴァルデスとエドリアクの声が漏れ聞こえてくる。
「アイロンは危険すぎる」
荒い息を吐きながら、オルゲルドが口を開いた。
「このまま正面から突撃を続ければ、我々の負けだ。奴の集中力をへし折る必要がある」
戦場の騒音に遮られながらも、アーティファクトからはヴァルデスのくぐもった、しかし冷静な声が響いた。
『ああ、その通りだ。奴への直接攻撃は無意味だ。だが、誰にでも弱点はある。奴の親しい人間たちを殺せばいいだけの話だ。冷静さを失えば、奴の反応速度も落ちる』
「名案だ」
オルゲルドは拳を握りしめ、即座に同意した。
そこへ、ノイズ越しにエドリアクの狼狽した声が割り込んでくる。
『待ってくれ……! 一体何を言っているんだ!? それはあのお方の直接の命令に完全に背く行為だぞ!』
オルゲルドはアーティファクトに顔を近づけ、その声に明確な殺意と怒りを滲ませた。
「あのお方も、その命令も、知ったことか」
『全くだ』と、ヴァルデスが同意する。
『アイロンを始末したら、次はその「お方」も殺す。後方にふんぞり返って指図するだけで、少しばかり図に乗りすぎたな』
回線の向こう側で、エドリアクが黙り込んだ。
アーティファクト越しに、彼の浅く、震えるような呼吸音だけが聞こえてくる。彼は自身の陣地で、恐怖のあまり完全に硬直していた。
「本題に入ろう」
オルゲルドは地図の描かれた紙を裏返した。
「私の予備に、まだ使える『C14』が一つ残っている」
『こちらは二つだ』とヴァルデスが応じる。
『起爆装置は無傷。不安定化回路もいつでも起爆できる状態だ』
オルゲルドは通信機に向かって怒鳴りつけた。
「エドリアク! お前のところにはいくつある!?」
『ひ、ひとつだ……』
エドリアクがどもりながら絞り出す。
『C14の制圧用爆薬が……』
「上出来だ」
オルゲルドは邪悪な笑みを浮かべた。
「合計四つ。ドーンヘイム全体を吹き飛ばすには十分な数だ。外周の全域に仕掛けて、一気に起爆する」
『待て』
手元のタブレットで陣形を確認しながら、ヴァルデスが眉をひそめる。
『周囲にはまだ奴らの自動タレットが稼働している。タレットに関しては少し様子を見た方がいい。放っておけば、いずれ弾切れになる』
「却下だ!」
オルゲルドが叫ぶように声を荒らげ、その言葉を遮った。
「待機などあり得ない! 待つ必要などない! 今すぐここで終わらせるんだ。突入し、押し潰し、爆薬を設置して、すべてを吹き飛ばす!」
回線に数秒の沈黙が流れた。
ヴァルデスはリスクを天秤にかけ、短く息を吐いた。
『……分かった。お前の言う通りだ。これ以上長引かせるべきではないな。突破作戦の準備に入る』
オルゲルドとヴァルデスがアーティファクトを通じて強襲部隊のルート調整を始める中。
エドリアクは自陣で、音声送信をひっそりとオフにした。
光が弱まっていく水晶モジュールを震える両手で握りしめ、馬車の隅へと後ずさる。
「何をしているんだ……狂人ども……一体、何をしている……?」
無意識の恐怖に駆られ、煙が立ち昇る地平線を見つめながら、彼は震える声で呟いた。
「やめろ……後で痛い目を見るのは自分たちだぞ……。あのお方に、全員殺されてしまう……」
馬車から数キロ離れたドーンヘイムでは、一瞬たりとも戦闘の熱が冷めることはなかった。
リュモンが敵の装甲を切り裂き、短い空間パルスが歩兵たちを次々と吹き飛ばしていく。
しかし突如として。
その滑らかで超高速の動きに、異常が生じた。
次の踏み込みが、明らかに鈍った。
アイロンの左足が重く泥に沈み込み、体が通常よりもコンマ数秒長く静止してしまう。
直後、背後から乾いた銃声が響いた。
本来なら躱す身体の一メートル横を通り抜けていたはずの銃弾が、分厚い生地を掠める。
さらに次の瞬間、敵の魔術師が放った小型の炎の矢が袖を焦がし、くすぶる穴を開けた。
『なんだ……!?』
アイロンは思考の中で怒鳴った。
『リュモン! なぜ動きが落ちた!?』
その直後だった。
彼の両目から、ドロリとした濃い血の筋が細く流れ落ちた。
『生体魔力回路および循環器系への負荷が、許容限界を突破しました。脳髄および筋肉組織の毛細血管に微細な断裂が発生しています。これより先の魔法および飛行能力の行使は極めて困難であり、ホストの生命に致命的な危険を及ぼします』
『体なんてどうなってもいい!』
口内に広がる明確な血の鉄錆の味を感じながら、アイロンは息を吐き捨てた。
『我々はこの戦争に絶対に勝たなければならない! 何をしてでもいい、このまま奴らを蹂躙しろ!』
『承認。心停止を回避するため、極限の省力化モードへと移行します』
両耳を劈く重い耳鳴りと共に。
アイロンの身体は、上空二メートルの高さから地面へと墜落した。
前方では、開けた場所から密集した騎士の集団が突撃を仕掛けてきていた。
盾を構えながら地を蹴って走る彼らだったが、十歩も進むことはできなかった。
突撃する彼らの足元で、鼓膜を破るような乾いた破裂音と共に、仕掛けられていた地雷が起爆したのだ。
数人の騎士が木っ端微塵に吹き飛び、残りの者たちはパニックに陥りながら地雷原の手前で急ブレーキをかけた。
リュモンは頭を振り、まつ毛にまとわりつく血の雫を振り払う。
その間にも、アイロンは意識の中で問いかけた。
『敵の残存数を見せろ』
アイロンの視界に赤いデジタル数字が浮かび上がり、セクター内の熱源シグネチャを急速に再計算して、ある数値で停止した。
【73,123】
『七万三千か……』
アイロンは喉の奥で唸り声を上げた。
その一秒の合間にも、リュモンは剣を両手で握り直し、駆け寄ってきた兵士の喉元へ正確な突きを放ち、絶命させていた。
『王どもはどうした? あのクソ野郎どもはどこにいる!? そもそも戦場に出ているのか!?』
『指揮官ユニットを検索中』
リュモンが即座に応答する。
『ターゲット「オルゲルド」「ヴァルデス」「エドリアク」を半径四キロ圏内で捕捉しました。しかし、彼らの指揮拠点の周囲には、三層の抑圧バリアと静的フィールドが展開されています。当該セクターへの直接テレポートは、肉体の即座の崩壊を招きます』
『クソッ……分かった。残存するすべてのリソースを、騎士と魔術師どもに振り向けろ』
リュモンが歩兵の主力部隊の只中を切り開いている間。
左翼では、エリリアとノアが依然として防衛線を死守していた。
エリリアは地上数メートルの宙を浮遊していた。
彼女の力により、地中から極太の丸太や、複雑に絡み合った根の塊が次々と隆起してくる。
それらが突撃してくる騎士たちの陣形を破壊し、重装歩兵たちを空へと跳ね上げ、同時にノアのための足場として機能していた。
ノアはアーチ状になった根を蹴って跳躍し、敵の盾を飛び越えながら、短く正確な刺突で鎧の関節の隙間を次々と貫いていく。
敵の塹壕から宙に浮くエリリアに向けて銃弾や魔法の炎の矢が放たれると、ノアは瞬時に彼女の傍へと駆けつけ、刃で弾を切り落とし、自らの体で精霊を庇った。
自身の馬車から、観測用の結晶器を通じてその戦闘を注意深く観察していたオルゲルドは、エリリアの姿を捉えると目を細め、鼻で笑った。
「……ようやく出てきたか」
王は腰から、黒い金属合金でできた重厚な菱形のケースを取り外し、カチャリと音を立ててそれを展開した。
その構造は瞬時に変形し、携帯型端末のような形状へと姿を変える。
上部は鈍く発光するフラットなスクリーンとして開き、下部のパネルにはライトアップされた数十個の細かいキーが浮かび上がった。
オルゲルドは素早い指捌きで、必要なコマンドの組み合わせを叩き込んだ。
ちょうど五秒が経過した。
エリリアの周囲の空中に、音もなく複数の紫色の光点が明滅した。
精霊が振り向く暇さえ与えず、その光の点滅は彼女の身体を一直線に貫通した。
肌に傷跡は一つもなく、血の一滴も流れなかったが、エリリアの身体は完全な麻痺状態へと陥った。
自身の制御を失い、彼女は虚空から真っ逆さまに落下していく。
「エリリア!」
彼女の落下を察知したノアは、瞬時に黒焦げた切り株を蹴り上げ、迎撃へと飛び出した。
地面に叩きつけられる寸前で彼女を受け止めようと、両手を力一杯伸ばす。
だが、その光景はすでに、魔法のアーティファクトを通じてヴァルデスの目に捉えられていた。
戦場の反対側で。
ヴァルデスはケースから四角いプレート状のモジュールを取り出した。
それを前腕に押し当てると、金属はガチャガチャと音を立てて腕に巻き付き、手袋と一体化した。
ヴァルデスは冷酷な笑みを浮かべ、指を鳴らした。
ノアがまさに着地しようとしていた地点の地中から。
耳障りな破砕音と共に、無数の鋭利な石の棘が突き出した。
しかしノアは、空中で身体を捻らせた。
靴の裏で最初の切っ先を擦るようにして軌道を変え、石の杭の群れからすんでのところで逃れた。
だが——。
ノアの後頭部のすぐ背後の空中に、ごく微小な黄色の光点が灯った。
音も、閃光すらもなく。
極細の光線が、少年の後頭部の骨を貫通し、額へと真っ直ぐに抜け出た。
エリリアの身体は物言わぬまま硬直しており、その身を包んでいた光の輪郭は微かに明滅し、徐々に消えかかっている。
ノアは、咄嗟に踏み込んだ。
伸ばした腕で彼女の身体を引き寄せ、己の胸にきつく抱え込む。
「待て……! 諦めるなよ……ッ」
少年は、血を吐くような声で喘いだ。
ノアは黒焦げになった木々の幹を掴みながら、トーチカ(強化シェルター)の方角へと死に物狂いで駆け出した。
遠目からは、そのセクターは完全に無人に見えていた。
だが、彼がそこに接近した途端、分厚い煙幕の至る所から敵の歩兵たちが湧き出してきた。
全身を完全武装した重装騎士の一人が、すでにトーチカの壁のすぐそばに立っていた。
その手には『C14』が握られている。
兵士はすべての安全装置を解除し、起爆プロセスをアクティブにした。
「やめろ!! そこから離れろ!!」
ノアは喉が張り裂けんばかりの声で咆哮した。
剣を握り直し、跳躍と共に最後の数メートルをゼロにする。
刃は、騎士の首と肩の間の装甲の隙間へ正確に突き刺さった。
金属が砕ける鈍い音が響き、兵士の巨体が地面に崩れ落ちる。
しかし。
起爆装置のタイマーは、すでにゼロに達していた。
ノアにとって、まるで時間の流れが遅くなったかのように感じられた。
絶対的な静寂の中。
爆弾のケースに細く深い亀裂が走り、そこからまず純白の光が、次いで灼熱のオレンジ色のプラズマが噴き出してくるのが見えた。
ノアは咄嗟のステップで退避しようとした。
だが、逃げ切るより早く、爆発の衝撃波が彼の背中に激突した。
己の肋骨がメキメキと折れる音が響く。
爆圧が彼の体を吹き飛ばす。ノアは十メートル近く宙を舞い、頭から回転しながら、高熱を帯びたクレーターの中へと全身を激しく打ち付けられた。
彼の背後で、トーチカのドーム状の屋根が鈍い轟音と共に内側へと崩落していく。
リュモンの足元の地面が、グラリと揺れた。
血に染まった靴底を、倒した騎士の死体に押し付けて急ブレーキをかける。
顔を上げると、トーチカがあったはずのセクターから、炎の混じった分厚い粉塵の柱が空高く立ち上るのが見えた。
『リュモン……! そこで何が起きた!?』
アイロンが唸る。
『防衛拠点「トーチカ」からのシグナルをロスト。高出力爆弾の起爆事実を確認』
リュモンは、灰と化した拠点の前の開けた空間へと飛び出した。
強化シェルターだったものは、もはや見る影もなかった。屋根は真っ二つに折れて内側へ崩落している。
周囲には鉄筋の破片、くすぶる木材、そしてドーンヘイムの住人たちの遺体が散乱していた。
リュモンはつまずきながら、熱を帯びた瓦礫の上へと足を踏み入れた。
周囲に生きている者の気配はない。
燃え残った梁がパチパチと爆ぜる音と、風の音だけが鳴り響いていた。
その時。
巨大な壁の瓦礫の下から、乾いた咳き込む音が聞こえた。
リュモンは瞬時に首を向けた。
コンクリートの板の下で。灰黒色の煙を飲み込み、血を吐きながら、アルベルトが這い出ようとしていた。
彼の両足は崩落した鉄骨に完全に押し潰され、左腕は力なく垂れ下がっている。
それでも彼は、泥に指を突き立て、死に物狂いで自分の体を外へと引きずり出そうとしていた。
『アルベルト!』
アイロンが息を呑むと同時。
リュモンは前方へ飛び出し、コンクリートの塊を引き剥がそうと手を伸ばした。
二人の距離は、残り三メートルを切っていた。
リュモンが身を屈め、瓦礫の端を掴もうとした、まさにその瞬間だった。
八十メートル離れた煙の立ち込める森の境界から、圧縮された空気が短く空を裂く音が響いた。
敵の魔術師が、氷の槍を放ったのだ。
防御のために腕を上げる暇など、リュモンにはなかった。
氷の槍は、アルベルトの右こめかみに正確に突き刺さった。
頭蓋骨を貫通し、そのまま彼の頭部の下にあるコンクリートへと深々と突き立つ。
ほんの数秒前まで泥を掻き毟っていたアルベルトの指から、力が抜け、地面へと落ちた。
その瞳孔は完全に固定され、貫通した氷の周囲で、どす黒い血が瞬時に凍りつき始める。
リュモンは、両手を伸ばした姿勢のまま、完全に硬直した。
アイロンを取り巻く世界から、すべての音が消え去ったようだった。
爆発音も、風の音も、己の耳鳴りさえも消失した。
彼は、アルベルトの虚ろな目を見つめていた。
そして彼自身の両目からも、乾いた煤と混じり合いながら、新たな血の筋がゆっくりと流れ落ちた。
一秒間のショックと硬直。
それは次の瞬間、完全に燃え尽き、圧倒的な『殺意』と『怒り』へと取って代わった。
リュモンは、ゆっくりと立ち上がった。
氷の槍が飛んできた丘の方角へと、静かに振り返る。
事態を悟った敵の魔術師は、すでに後ずさりを始めていた。
アイロンの声は、ひどく静かだった。
『リュモン……』
『拝命』
『全員、排除しろ。……一匹残らずだ』




