第209話:直接制御
凝縮された魔力の塊が、アイロンの顔面を真っ直ぐに狙って飛来していた。
周囲の空気を焼き焦がし、急激な温度変化によって足元の凍った大地がヒビ割れていく。
『……やりたくなかったんだがな』
アイロンは思考の中で呟いた。
『リュモン、やれ』
『了解しました』
彼の意識の内で、システムが即座に応答した。
その瞬間。
アイロンの姿勢が鋭く真っ直ぐに伸びた。
四肢の震えは完全に消失していた。
敵の魔法が、彼の顔面から数十センチの距離まで迫っている。
ほんの一瞬の間に、リュモンが空間の計量を再計算した。
空中に局所的な位相の断裂が発生する。
飛来してきた呪文は、遠方から放たれた矢や弾丸ごと、歪んだ空間の特異点へと吸い込まれた。
そしてそれらは、彼らを狙い撃った魔術師と弓兵たちの頭上へと、正確に実体化した。
アイロンの身体が地面から離れ、空宙へと浮かび上がった。
システムが、側面から迫る新たな敵部隊の接近を検知する。
リュモンは即座に、エンジニアの身体を前方へと高速で射出した。
アイロンの身体の前に、数原子の厚みしかない『空間の刃』が形成された。
猛烈なスピードで敵騎士の隊列を突破していく。
巻き起こった突風が地面を揺らすのと同時。
形成されたその平面は、一切の抵抗もなく、敵兵たちの装甲も、骨も、肉体もすり抜けた。
部隊全体が同時に真っ二つに両断され、何が起きたのかを認識する間もなく、兵士たちは地面に崩れ落ちた。
アイロンは、自らの肉体の動きを内面から観察しながら命じた。
「ドーンヘイムのタレット群を、直接制御下へ置け」
『リモートアクセスの確立を完了しました。村の全自動タレットおよび地雷網は、現在直接コントロール下にあります』
「上出来だ」
アイロンは短く答えた。
「掃討作戦を継続する」
アイロンは、広域センサー網を通じて味方や村人たちの生体反応マーカーを監視していた。
セクターの端で、一つの信号が赤く点滅している。
ゴルバートだった。
『アルゲン(ゴルバート)を全力で保護しろ』
アイロンがコマンドを下す。
『承認しました』
リュモンが冷徹に応答した。
エンジニアの身体は、遅れて飛来する敵の弾幕の軌道を掻い潜りながら、木々の梢の上を高速で飛び抜けた。
ゴルバートの現在地までは、ほんの数百メートルの距離だった。
岩の後ろで縮こまる彼を、数人の騎士が取り囲み、じりじりと距離を詰めている。
『待て。……リュモン、一時停止しろ。何かがおかしい』
アイロンの身体が、空中でピタリと静止した。
灰白色の双眸が、眼下の兵士たちの一挙一動を記録し、分析していく。
『あいつら、本気で殺そうとしていないように見える……』
視覚センサーからの映像を解析しながら、アイロンは訝しげに呟いた。
『私の気のせいか?』
『当該セクターにおける敵の行動分析を完了しました』
リュモンが即座にレポートを返す。
『非武装の民間人に対する攻撃性が84%低下しています。敵ユニットは致死的なダメージを避け、対象の無力化と拘束を試みています。現在、武装した戦闘員の排除が優先されている模様です』
『なるほど。なら、とりあえずこの部隊は監視を続けろ。ゴルバートをローカルレーダーから外すな。同時に、右側のセクターを制圧しろ。本隊が進軍してきている』
『攻撃ベクトルを変更します』
リュモンが応答する。
リュモンに制御されたアイロンの肉体は、瞬時に右へ二百メートル移動し、密集した歩兵部隊の頭上に実体化した。
リュモンが局所的な大気圧の圧縮を起動する。
部隊の頭上の空間が、一気に押し潰された。
装甲馬車や騎士の重い盾は、自らの重量に耐えきれずに無残な鉄くずへと変形し、後続の魔術師たちは空間圧縮の衝撃波によって吹き飛ばされ、即座に無力化された。
アイロンの視界には、インターフェースが絶えず展開され続けている。
敵の残存兵力を示すカウンターが、秒単位で激減していた。
【敵残存兵力:237,838】
一方その頃。
防壁を張られた装甲馬車の内部。
中央のテーブルの上にはひび割れた燭台が置かれ、周囲には引き裂かれた報告書と地図が散乱していた。
オルゲルドは怒りに身を任せ、居場所もない様子で車内を歩き回っていた。
外からは、鈍い打撃音と絶え間ない爆音が響いてくる。
「てめえら、頭おかしいんじゃねえのか!?」
オルゲルドは叫び、木製の杯を壁に全力で投げつけた。
馬車が鈍く揺れる。
「五十万もいたんだぞ!? その半分がもう死んだだと!? どんな騎士どもだよ!! まともに仕事一つできねえなら、何のために生かしておいたと思ってんだ!!」
入り口のそばで新しい報告書の束を持っていた部下の一人が、首をすくめながら恐る恐る口を開いた。
「オ、オルゲルド様……我々も、このような事態は予想しておらず……」
「黙れ!!」
テーブルの端に両手をつき、荒い息を吐きながらオルゲルドが怒鳴りつけた。
「黙って自分の仕事をしろ!!」
彼は通信のアーティファクトをひったくった。
スピーカーからは、重なり合う怒号が瞬時に飛び出してきた。
側面の指揮官、魔術将校、そして参謀の将軍たちが互いに怒鳴り合い、失敗の責任を押し付け合い、増援を要求し合っている。
その騒音を切り裂くように、ヴァルデスの冷徹な声が響き渡った。
『全員、黙れ』
彼の声に、通信回線が一時的に静まり返る。
『ただ、すべて殺せ。それだけでいい。人間だろうが何だろうが、関係ない。まとめて始末して、そのあとであの男も殺す』
オルゲルドは一瞬、硬直した。
両目が見開かれ、やがてその顔に浮かんでいた感情の色が変わっていく。
「……ええ」
オルゲルドは低く、しかしはっきりとアーティファクトに向かって言った。
「あなたの言う通りだ」
すると、回線を繋いでいたエドリアクのしゃがれた声がスピーカーから聞こえてきた。
『待ってくれ……駄目だ、お願いだ、やめてくれ……! 我々は……』
『嫌ならやるな、臆病者』
ヴァルデスが冷酷に吐き捨て、一方的に通信を切断した。
オルゲルドは不敵な笑みを浮かべ、自身のアーティファクトの電源を切った。
そしてすぐさま部下の方へと向き直り、生きとし生けるものすべてを殲滅せよとの冷酷な命令を下した。
そこから数十キロ離れた別の馬車の中。
エドリアクは座っていた。
車内は静寂に包まれている。
彼は身動き一つしなかった。
ベンチに腰掛け、拳を固く握りしめ、ガラス玉のようなうつろな目で一点を見つめている。
王の言葉が、彼の頭の中で何度もリフレインしていた。
入り口付近に立っていた若い副官が、心配そうな表情でもじもじしていたが、おずおずと一歩前へ出て静かに尋ねた。
「エドリアク様……大丈夫ですか?」
エドリアクはゆっくりと、乾いた喉を鳴らして唾を飲み込んだが、床から視線を上げることはなかった。
「ああ……」
かすれた声で、彼は答えた。
「たぶんな……」
まさにその時。
アイロンの意識の中で、一連の緊急警告が激しく点滅し始めた。
『警告:敵の行動パターンが「完全殲滅フェーズ」へと移行しました。全セクターにおける攻撃性の急激な上昇を検知』
リュモンが報告する。
アイロンは視覚情報を、森の中でゴルバートを包囲していた部隊へと切り替えた。
兵士たちの様子は、数秒で完全に変貌していた。
騎士たちはもはや距離を保とうとせず、男を拘束しようとする素振りも見せない。
一人の兵が歩きながらクロスボウを構え、恐怖に縮こまるゴルバートの胸に狙いを定める。
隣に立つ魔術師の掌には、攻撃魔法の炎が灯った。
「急いでゴルバートの元へ!」
アイロンが命令を下す。
クロスボウの矢がゴルバートに向かって放たれ、魔術師が手から炎の塊を放った瞬間。
男の目の前の空間が弾け飛んだ。
歪んだ大気のマイクロ・ヴォルテックスから、リュモン(アイロン)が飛び出してきた。
飛来する矢と炎は平面の重力シールドに衝突し、瞬時に跳ね返されて地面へと逸れた。
敵の兵士たちが状況を理解する隙も与えず、リュモンはゴルバートの襟首を掴み上げ、テレポートの重力負荷で首の骨が折れないよう、空間固定で姿勢をロックする。
「なっ……」
唖然としたゴルバートが息を呑む暇しかなかった。
『座標の再計算を実行。目的地:ドーンヘイム中心部』
彼らの周囲の空間が一点に圧縮され、次の瞬間、二人は戦場から完全に姿を消した。
彼らが元いた場所には、焦げた草地に刻まれた深いクレーターと、衝撃波で吹き飛ばされた騎士たちだけが残された。
一瞬の後。
二人は火薬の煙で熱せられた、ドーンヘイムの村の中央広場に立っていた。
ゴルバートは瞬間移動による強烈なめまいに耐えきれず、膝から崩れ落ちた。
周囲では、タレットの激しい銃撃音が響き渡っている。
村の家屋のほとんどは全焼するか、敵の砲撃を受けて倒壊していた。
村の上空には重低音が響いている。リュモンの制御下にあるタレット群が、押し寄せる歩兵の波を切り裂きながら、森の入り口へ向けて絶え間ない十字砲火を浴びせていたのだ。
無傷で残っているのは、『塔』と『トーチカ(強化シェルター)』の二つだけだった。
トーチカの銃眼で警戒にあたっていた防衛隊員たちが、即座にエンジニアの姿に気づいた。
半壊した壁の陰から、ガストンが飛び出してくる。
「アイロン! 戻ったのか!」
ゴルバートが重々しく地面にへたり込む中、リュモンはただ短く頷いただけだった。
「状況はコントロール下にある」
感情のない声でリュモンが言う。
「よく持ち堪えたな」
村外れの木々の間から、新たな敵の魔術師の部隊が溢れ出してきた。
アイロンの姿を認めるや否や、彼らは急いで大規模な魔法の構築を始める。
彼らの周囲に、プラズマと放電の渦が巻き起こる。
リュモンは即座に、周囲の物理定数を改変するアルゴリズムを実行した。
アイロンを中心とする半径三百メートルの範囲に、システムはエネルギー的な『真空』を創り出した。
微細な物質のいかなる振動をも遮断する、空間力場である。
外部の魔力フィールドへのアクセスは完全に遮断された。
魔術師たちが練り上げていた魔法が、瞬時に掻き消える。
魔術師たちは恐怖に顔を強張らせ、立ち尽くした。
次の瞬間、リュモンの指示を受けたタレット群が正確な一斉射撃を浴びせ、そのセクターの敵を完全に一掃した。
事の顛末を見守りながら、アイロンはリュモンに語りかけた。
『エリリアに繋げ』
一秒後、鋼のぶつかり合う音と木々がへし折れる轟音に混じって、エリリアの苦しげな喘ぎ声が通信機から聞こえてきた。
『エリリア!』
アイロンが呼びかける。
『まだモンスターを召喚できるか?』
「無理よ……」
彼女は荒い息を吐きながら、もう一人の敵を斬り伏せて答えた。
「召喚したモンスターはもう全部殺されたわ……新しく呼び出す力は、もう残ってない……」
「チッ……」
アイロンは舌打ちした。
「分かった。限界だと感じたら村へ撤退しろ。全員ここにいる」
「了解」
エリリアが短く答え、通信が切れる。
アイロンの魔力無効化領域の範囲外にいる敵の魔術師たちは、絶え間なく村の周辺へと魔法を撃ち込んでいた。
歩兵部隊は木々や建物の残骸に火を放つ。
敵の指揮官たちは、無謀にも兵士たちを炎の壁の中へと突撃させ続けていた。
ドーンヘイムは深い煙に包み込まれた。
風はなく、有毒な煤が重く沈殿していく。
トーチカの周辺では、人々が立っているのがやっとの状態だった。
マレク、ガストン、そして生き残った防衛隊員たちは、濡れた布を口と鼻に押し当てながら、激しく咳き込んでいる。
刺激の強い煙が目を焼き、煤にまみれた顔に涙が伝い、視界を完全に奪っていた。
「クソッ……息が、できねえ……」
マレクが咳き込みながら、なんとか外の様子を窺おうとする。
彼は袖で目を擦りながら身を乗り出し、半壊した壁の上から顔を出した。
熱風の煽りを受け、一瞬だけ煙幕が晴れる。
マレクの目に映ったのは、煤と亀裂にまみれた彼らのゴーレムの一体が、猛火の中で単騎で戦い続けている姿だった。




