第205話:非対称戦
ドーンヘイムの入り口で最初の衝突が繰り広げられていた頃。
ここブラックリッジ王国は、静寂な夜に包まれていた。
無人の通りを、ルキウスが一定の歩調で歩いている。
足取りに焦りはない。
交差点に差し掛かるたびに足を止め、建物の正面を注意深く見つめ、標識を確認する。
代わり映えのしない住宅地が、次々と通り過ぎていく。
『141/A』。続いて『141/B』。そして『141/C』。
男は路地から路地へと曲がり、さらに奥深くへと進んでいった。
目的の住所を見つけるまでに、十五分ほどかかった。
高い壁に挟まれた、狭い路地の行き止まり。
そこでルキウスは足を止めた。
目の前には、雨戸が閉ざされた二階建ての建物がある。
彼は目を細め、入り口の表札にある半ば消えかけた数字を見つめた。
「157/A……」
彼は小さく呟いた。
「ラウル・ヴェルナー……」
ルキウスは内ポケットに手を入れると、眼鏡を取り出してかけた。
ツルを調整し、二歩前へ進み出る。
そして扉の前に立ち、数回ノックした。
時を同じくして、ドーンヘイム。
そこでの準備は、完全な静寂の中で進められていた。
人々は無言で装備を点検し、ポーチのストラップを調整し、軽い準備運動を行っている。
弾薬の分配は、アイロンが自ら監督した。
真新しい拳銃を受け取った戦士たちは、安全装置と弾倉の固定を再度確認する。
最後の準備が整うと、主力防衛部隊は音もなく村の外へと出発した。
集落に残されたのは、武器を持てない数名の女と子供たちだけだった。
部隊は森へ入ると同時に散開した。
アイロンとエリリアは隊列の先頭を進み、迅速に動きを調整していく。
リュモンが地形図と熱源シグネチャを投影し続けている。
エンジニアはそれを利用し、手信号で部隊を周辺の各方向へと配置していった。
「マレクとダーウィンの班は左翼へ。岩場の付近に陣取れ」
アイロンは低い声で指示を出す。
「ガストン、お前たちは右へ行け。低地を塞ぐんだ。私の合図があるまで発砲は許可しない」
その頃。
ノアは単独で、森の上層を移動していた。
速く、そしてほぼ無音で。
幹を軽く蹴り、枝から枝へと跳び移りながら、さらに奥深くへと進んでいく。
地上から約十メートル。
大きく枝を広げたオークの木の上で、彼は息を潜めた。
手のひらを樹皮に押し当て、じっと耳を澄ませる。
二十分ほどが経過した。
最初は静まり返っていた森だったが、やがて枝の折れる音や葉の擦れる音が、地鳴りのような響きに変わっていった。
木々の下の地面が、微かに振動し始める。
金属の鳴る音。荷馬車の車輪がきしむ音。そして、無数のブーツが土を踏みしめる音。
それらが次第に、はっきりとノアの耳に届くようになった。
ノアは首元に手を伸ばし、中央に滑らかなボタンが付いた小さな金属製のカプセルに触れた。
アイロンの短い指示をはっきりと覚えている。
『足音が聞こえたら、このボタンを押せ。これで私と直接繋がる』
ノアは指でボタンを押し込んだ。
瞬時に耳の中でカチッという小さな音が鳴り、軽いノイズ音に変わる。
「アイロン?」
極力声を殺して、ノアは呼びかけた。
エンジニアの声は、遅延なく即座に返ってきた。
『ああ、聞こえている。状況は?』
「足音が聞こえる」
前方の深まる闇を見つめながら、ノアは報告した。
「密集した陣形で、かなりの速度で近づいてきている。もうすぐ俺の担当エリアに入る」
通信の向こう側で、一瞬の沈黙が落ちた。
『接近してくる間に、何人かやれるか?』
アイロンが尋ねる。
『爆薬と拳銃を渡したな。手持ちの武器を最大限に使って、奴らの陣形をかき乱せ』
「了解」
短く答えると、ノアはボタンから指を離して通信を切った。
彼は剣の柄を握り直す。
準備しておいたトラップのピンを腰に固定し、枝の下層へと慎重に降り始めた。
前衛部隊を迎え撃つために。
エドリアク王の進軍部隊は、森の伐採跡を進んでいた。
王自身は、金属板で補強された屋根付きの馬車の中にいる。
エドリアクは不機嫌そうに、小さな覗き窓から外を見ていた。
近衛兵たちが掲げる松明の火が、闇の中から木々の幹を浮かび上がらせる。
道端には、討伐された巨大な魔物の死骸が転がっていた。
王は前方へと視線を移し、道の状況を値踏みする。
突然、数百メートル前方で強烈な閃光が弾けた。
大爆発が起き、大地が揺れる。
衝撃波が先頭の一般兵たちをなぎ倒し、土塊と木片が四方八方へと飛び散った。
「陛下をお守りしろ!!」
護衛隊長が絶叫する。
近衛兵たちは即座に馬車を分厚い陣形で取り囲み、盾を構えた。
隊列が停止する。
周囲には煙、焦げた臭い、そして舞い上がった土埃が立ち込め、視界を遮った。
前衛指揮官が前へと飛び出し、脅威の出処を見極めようとする。
だが、何も見えない。
「状況を報告せよ! 攻撃したのは誰だ!?」
彼は暗闇に向かって怒鳴りつけた。
兵士たちは混乱した様子で顔を見合わせ、煙で何も見えないと口々に答えた。
やがて、爆心地に最も近かった見張りの一人が、怯えた声で叫び返した。
「爆発は……から……」
その背後の闇から。
音もなく姿を現したノアの刃が、一瞬にして兵士の喉を切り裂いていた。
「どこだ!? どこにいる!?」
死体が倒れる音に振り返り、指揮官が吠える。
しかし、返答はない。
「クソッ……大砲を用意しろ! 急いで砲身を向けろ!」
兵士たちが慌てて砲座を動かし、金属音を響かせながら狙いを定めようとする。
爆発の煙がまだ晴れないことを利用し、ノアは混乱に陥った騎士の隊列へと突っ込んだ。
周囲の者が盾を構える間もなく、数名の兵士が地面に崩れ落ちる。
敵の弓兵たちが茂みや枝に向かって盲滅法に矢を放ち始めたが、それは虚しく葉を落とすだけだった。
唐突に。
隊列の奥から、赤い魔力の塊――敵の呪文が飛来した。
大音響と共に爆発が起こり、土を抉り、二本の木をなぎ倒す。
だがノアは、魔術が着弾するよりも早く効果範囲から離脱していた。
道の左側、深い茂みの中へと姿を消している。
前衛が損害を出しているにもかかわらず、未だ敵の姿すら捉えられない。
それを見たエドリアク王は、馬車の扉を少し開け、指揮官たちに向かってヒステリックに叫んだ。
「撃て! 茂みに撃ち込め! ここら一帯を更地にしろ!!」
砲兵の指揮官たちが命令を受け、野砲が四方八方への一斉射撃を開始した。
砲弾は小型ながらも、凄まじい貫通力を秘めている。
轟音と共に木の幹を貫き、下草を木端微塵に吹き飛ばす。
しかしノアは、一秒たりとも同じ場所に留まることなく、絶え間なく位置を変え続けていた。
再装填のため、砲撃がほんの一瞬だけ止む。
その隙に、エドリアクは通信のアーティファクトを起動し、オルゲルドとヴァルデスを呼び出した。
「前衛が襲撃を受けた」
周囲で近衛兵たちが慌ただしく動く中、エドリアクは早口で報告する。
装置からオルゲルドの声が響いた。
『ノアか?』
「そのようだ」
エドリアクは肯定する。
「動きが速すぎる。大砲で面制圧しているが、掠りもしない」
『クソッ……』
オルゲルドの声に、明らかな怒りが混じった。
『いいだろう。一刻も早く殺せ。周囲を焼き尽くし、すべて破壊してでも、そいつを仕留めるんだ!』
「言われなくても、そうしている」
エドリアクは素っ気なく答えると、アーティファクトの通信を切った。
同じ頃。
ノアは砲撃の合間を縫うようにして、再び歩兵の隊列へと滑り込み、敵兵の数を着実に減らしていた。
だが、絶え間ない砲撃のせいで、ノアにとっても隠れ場所の確保は困難になりつつあった。
周囲の木々はなぎ倒されるか、あるいはへし折られて切り株のようになっている。
葉は散り落ち、ノア最大の優位性が失われようとしていた。
瓦礫の中を未だに移動し続けている影に気づき、敵の魔術師の一人が前へ出た。
彼は片膝をつき、抉られた地面に両手を深く突き立てる。
一秒後。
ノアの足元の土がバチバチと音を立てた。
地中から直接、枝分かれした稲妻が吹き出し始める。
轟音と共に放電が地面を突き破り、草を焼き尽くし、残った根を四方へと粉砕していく。
その魔術はエドリアクの兵士たちを避けながらも、中立地帯を徹底的に蹂躙した。
ノアは魔術師のリーダーをいち早く視認し、雷の嵐を横切るように駆け出した。
全速力で二つの閃光の間をすり抜け、術者へと肉薄する。
そして、短い一撃でその首を刎ね飛ばした。
止まることなく、彼はアイロンから渡された拳銃を抜き放ち、近くにいた魔術師の集団に向かってエネルギー弾を三発撃ち込む。
弾丸は陣形の中央で炸裂し、魔術師たちを四方へ吹き飛ばした。
後ろへ飛び退き、遠くの無事な木の枝へと跳び乗る。
ノアは荒い息を吐いた。
彼の服は焦げていた。
「クソッ……あと少し遅ければ、終わってたな」
顔の煤を拭いながら、彼は低く独りごちた。
「もっと慎重にいかねえと」
彼は動きを止め、敵前衛の奥深くを見つめた。
視線が捉えたのは、エドリアク王が乗っている、重装甲の箱のような馬車。
ノアは瞬時に軌道を計算する。
拳銃を真上に向けると、引き金を引き、空に向かって弾丸を放った。
次の瞬間。
ノアは王の乗る馬車の鉄の屋根の上に、瞬時に転移していた。
「屋根の上だ! 撃て!!」
眼下にいた近衛兵たちが、即座に咆哮する。
ノアが装甲越しに一撃を叩き込むよりも早く。
護衛の反応速度が上回り、一斉にクロスボウが構えられた。
彼は再び姿を消す。
その一秒後、先ほど彼が空に向けて放った弾丸が、エドリアクの馬車に正確に降り注いだ。
大音響と共に爆発が起こる。
だが、煙が晴れた後、ノアは見た。
装甲の防御結界は、凹み一つなくその一撃を耐え抜いていたのだ。
「どういう冗談だ?」
遮蔽物の陰からそれを見つめ、ノアは毒づいた。
「あそこだ! 側面にいるぞ!」
指揮官の一人が叫んだ。
砲兵部隊が瞬時に小型砲の砲身を回し、素早い一斉射撃を放つ。
ノアは横へと跳んだが、密集した無数の散弾が彼を掠めた。
破片の一つが左腕の前腕を切り裂き、もう一つが脛に食い込む。
彼は地面に倒れ込んだが、痛みをこらえ、倒れたオークの巨木の後ろへと転がり込んだ。
そして素早く森の奥へと後退し、姿を眩ます。
安全なくぼ地まで辿り着くと、ノアは力なく木に寄りかかった。
自身の傷口を見下ろし、眉をひそめる。
切り傷の縁が急速に緑色の膜で覆われ、周囲の組織が黒く変色し始めていたのだ。
喉が渇ききり、激しく咳き込む。
草の上に血を吐き出した。
時間を無駄にすることなく、ノアはコンバットナイフを引き抜く。
素早い動作で、黒く感染した腕と脚の肉を削ぎ落とし、健康な血が流れるまで傷口をえぐり出した。
組織がゆっくりと収縮を始める。
激痛を伴う処置であり、数分を要したが、最終的に皮膚は完全に再生した。
ノアは立ち上がり、首の通信機に指を触れ、ボタンを押し込んだ。
「アイロン、奴らの大砲に気をつけろ」
彼は早口で言う。
「砲弾は、掠っただけでも標的を毒に侵す。即効性の毒だ」
イヤホンから、短く平坦なエンジニアの返答が響いた。
『了解した』
通信が切れる。
その頃アイロンは、森の別の区域で鬱蒼とした木の葉に身を隠しながら前進していた。
周囲の接近ルートを注意深く監視し、敵の本隊を待ち受けている。
約五時間が経過した。
ヴァルデス王の隊列は、担当する森の区画を進軍していた。
彼もまた、オルゲルドやエドリアクが使っているのと同じ、金属板で覆われた重い箱型の馬車に乗っている。
進軍の最前線では、魔物たちが攻撃的になり、頻繁に短い戦闘が勃発していた。
その小競り合いの中で、不注意な行動をとった前衛の騎士数名が命を落としていた。
側面の指揮官が急いで王の馬車の覗き穴に近づき、損害を報告する。
それを聞いたヴァルデスは、ただ顔をしかめただけだった。
「本気で言っているのか? たかが魔物風情に殺されるだと?」
王は苛立ちを露わにして吐き捨てた。
その時、前衛の状況が急変した。
第一列を歩いていた騎士の一人が、深い茂みの中から隊列を横切るように音もなく歩み出た、巨大な影に気づいた。
それをまた新たな大型の魔物だと思い込んだ兵士は、雄叫びを上げて突進し、上段から剣を振り下ろした。
彼の剣は、装甲に激突した瞬間に粉々に砕け散った。
機械の巨体は微動だにしない。
アイロンの『4号ゴーレム』だった。
ゴーレムは一切の遅滞なく動いた。
その巨大な金属の腕が電光石火の如く伸び、騎士の胸当てを掴み上げる。
そのまま力任せな一撃で、垂直に地面へと叩きつけた。
鋼鉄の鎧が、一瞬でひしゃげる。
「大砲を出せ! 奴を撃て!!」
後退りしながら、前衛部隊の指揮官が絶叫した。
予備の砲兵部隊が慌てて砲身を向け、直接照準で一斉射撃を放つ。
轟音と共に砲弾が強襲兵器に直撃し、黒煙の雲で包み込んだ。
しかし、煙が晴れると。
ゴーレムは依然としてその場に立っていた。
装甲には、凹み一つ刻まれていなかった。
ヴァルデスは至近距離での爆発に馬車が揺れるのを感じ、荒々しく覗き窓を開けた。
「今度は何だ!? なぜ止まっている!」
馬車に随伴していた魔術師の一人が、魔力センサーを怯えた目で見つめながら答えた。
「陛下、未知の存在からの攻撃です」
ヴァルデスは完全に忍耐の限界を迎え、周囲のどよめきを掻き消すほどの声で怒鳴った。
「クソッ……我々は魔物狩りに来たわけではないぞ!! C14を持て! 何もかも木端微塵に吹き飛ばせ!!」
その命令に、指揮官は一瞬ためらったが、反論はしなかった。
彼は特別護衛のついた近くの補給馬車へと駆け寄る。
そして強化箱の中から、鈍い光を放つインジケーターが付いた重い金属の塊――『C14爆薬』を取り出した。
その間にも、ゴーレムは前衛の騎士たちを徹底的に蹂躙していた。
開かれた手のひらから、『混沌』のエネルギー弾が次々と放たれる。
それは弧を描き、進軍する部隊の真上の空へと降り注いだ。
後方の魔術師十名が、これに同時反応する。
素早く両手を前にかざし、幾重にも重なる十枚の防壁を展開した。
一番上の最初の盾が、カオスの直撃を受けて轟音と共に砕け散る。
だが、それに続く盾が圧力を持ち堪え、エネルギーは霧散した。
「三つ数えるぞ!」
指揮官がゴーレムの側面に回り込みながら叫ぶ。
「一! 二! 三!」
彼は力任せにピンを引き抜き、C14をゴーレムの足元へ直接投げつけた。
そして、全力で遮蔽物の後ろへと駆け戻る。
炎の柱が天を衝いた。
衝撃波が半径四百メートル以内のすべてを根こそぎ抉り取り、消し飛ばす。
分厚い粉塵の幕が少し収まると、ヴァルデスが命令を下し、隊列は焼け焦げた伐採跡を通って進軍を再開した。
しかし、行軍は再び止まった。
煙と煤の中から、鋭く軋むような金属音が響いてきたのだ。
直撃を受けたにもかかわらず、その重構造体は強制的な再構築を始めていた。
分厚い胸部装甲には深い亀裂が走り、煤にまみれ、明らかに強度は低下している。
それでもゴーレムは立ち上がり、再び敵陣に向かって走り出した。
「冗談だろ……」
迫り来るゴーレムを見つめ、指揮官は歯軋りした。
その瞬間、一人の魔術師が前に出た。
ゴーレムを視界に捉え、指を結び、詠唱する。
「大崩壊」
動くゴーレムの足元の地面が瞬時に爆発し、四方へ吹き飛んだ。
できた地割れの中から、高密度の茶色い魔力線が噴出する。
その帯はゴーレムの四肢に死の如く巻き付き、ねじり上げ、機械の関節を引きちぎった。
凄まじいエネルギーの反動が、損傷したゴーレムを後方へと吹き飛ばす。
呪文の最後。
空中に舞い上がっていたすべての土塊が機械の上で圧縮され、一つの巨大で重い岩塊となった。
それは轟音と共にゴーレムのひび割れた胸の上に落ち、機体を地面へと縫い留めた。
魔術師は荒く息を吐き、顔面を蒼白にさせ、膝を折った。
指揮官が間一髪で駆け寄り、魔術師の腕を支える。
「よくやった! ガンヴェスト、こっちだ! すぐに彼の手当てをしろ!」
駆けつけた衛生兵たちに命じる。彼らは即座に魔術師を後方へと運んでいった。
残されたヴァルデスの部隊は陣形を立て直し、さらに道を前進した。
周囲では、爆発と魔術によって引火した森が、徐々に激しい山火事へと変わり始めていた。
そして後方。
燃え盛る倒木の残骸の中で。
引きちぎられたゴーレムの腕の一本が、ビクッと痙攣し。
ゆっくりと、本体へと引き寄せられ始めていた――。




