第202話:無重力
アイロンは、図面や計算表がびっしりと書き込まれた分厚い書類の束をマレクに手渡した。
「ここにあるのが全てだ」
彼は書類をポンポンと叩き、淡々とした口調で言った。
「森への接近経路における地雷原の配置図、起爆装置の図面、タレットの射角計算書、そして残り2基の防空塔の仕様書。何か質問は?」
マレクは素早く数ページをめくり、線や記号に目を凝らした。
「なんとかなるさ。図面は詳細だし、連中も最初の2基でコツを掴んでる。一番の問題は資材だな」
「資材は準備してある。私は工房にいる。村が襲撃されでもしない限り、邪魔をしないでくれ」
そう言い残し、アイロンは背を向けて工房へと向かった。
後ろ手で扉を閉め、かんぬきをかける。
彼は部屋の奥の隅へ行き、木箱の上に腰を下ろして胡座をかいた。
目を閉じ、呼吸を整える。
自身の内なる感覚に集中し、次第に外界との繋がりを断ち切っていった。
一方、外ではドーンヘイムの人々が作業を続けていた。
広場では金床の音が鳴り響き、職人たちが正確な型板に従ってタレットの新しい部品を鋳造している。
大工たちは息を合わせて丸太を運び、外側の防柵を補強していた。
村の誰もが、自分の居場所と果たすべき役割を明確に理解していた。
塔の骨組みとなる金属製の梁は、普通の人間が扱うにはあまりにも重すぎる。
そのため、最も困難な工程にはノアとエリリアが割り当てられていた。
ノアは、巨大なH鋼を肩に担いで運んでいた。
その傍らでは、微かに光を放ちながらエリリアが宙に浮いている。
彼女はさらに3本の同じ梁を空中に浮遊させ、組み立て現場へ正確に運んでいた。
少し離れた森の境界線では、ガストンとアドリアンが作業にあたっていた。
彼らの前には、アイロンが明確な赤い印をつけた地図が広げられている。
「よし、ここの深さは最低でも50センチは必要だな」
ガストンは図面を確認し、掘りたての穴を指差した。
「そうしないと『セレスティアル』のセンサーが、歩兵じゃなくて野生動物に反応しちまう」
アドリアンは木箱から組み立て済みの爆薬を慎重に取り出した。
その地雷は、平たい金属製の円盤だった。
内部には爆薬となる不安定な『カオス』のコア。
外殻には爆風を真上へ導く『オメガ』製の装甲。
上部には空間密度の変化を感知する『セレスティアル』製の非接触センサープレート。
アドリアンは地雷を土の中に沈め、土を被せると、落ち葉で慎重に偽装した。
「よし。これでまた一箇所、完了だ」
彼はふうっと息を吐き出した。
正午ごろ、マレクは身を粉にして働くノアのもとへ歩み寄った。
彼はちょうど、塔の新たな角の支柱を固定し終えたところだった。
「今日の肉体労働はここまでにしとけ」
マレクは言った。
「それより鍛錬に行ってこい。自分の技を磨くんだ」
ノアは黙って頷き、木箱に立てかけてあった自分の剣に手を伸ばした。
マレクは、隣を漂う精霊に向き直った。
「エリリア、こいつについて行ってやってくれ。できる範囲で手助けを頼む」
「分かったわ、見守っておくわね」
彼女はそう答え、歩き出したノアの後を追って飛んでいった。
やがて、ルナの叫び声が響き渡った。昼休みの合図だ。
作業員たちは道具を置き、皆で囲む焚き火の場所へと集まっていった。
クララはボウルに食事をよそい、スプーンを持ってアイロンの工房へと向かった。
彼女は少しだけ扉を開け、中を覗き込む。
部屋の奥にアイロンが座っていた。
目は閉じられ、その呼吸は一定で深く保たれている。
クララは数秒間、敷居に立ったまま様子を伺った。
今は邪魔をするべきではないと悟り、静かに扉を閉めると、皆と一緒に昼食をとるため焚き火へと戻っていった。
夕方になると、作業は新たな活気を帯び始めた。
総出の作業の末、人々はさらに2基の塔を組み立て終えた。
その上部プラットフォームには、真新しい潤滑油を光らせながら、完成した自動防空タレットがすでに鎮座している。
その頃、アイロンはゆっくりと目を開けた。
体内で鳴り響いていたエネルギーの轟音は静まり、均一で安定した流れへと変わっている。
工房の小さな窓から外を見ると、すでに日が暮れかかっていた。
アイロンは立ち上がり、工房を出て森の奥へと向かった。
背後から聞こえるドーンヘイムの建設作業の音やハンマーの音が完全に聞こえなくなるまで、彼は早足で迷いなく歩き続けた。
木々に囲まれた、人里離れた小さな空き地を見つけると、エンジニアは足を止めた。
彼の目的は単純だ――『飛行』を習得すること。
そのために、彼は3つの連続したステップからなるアルゴリズムを構築していた。
アイロンは自身の肉体の分子構造に意識を集中させた。
頭の中で命令を下し、自分自身の原子がこの星の重力場と相互作用するのを一時的に停止させる。
その瞬間、彼の体重はゼロになった。
足が地面から離れ、高さ50センチの空中に浮遊する。
ただ一箇所に浮かんでいるだけでは無意味だ。
前へ進むため、アイロンは2メートル前方に、強力な重力場を持つ人工的な特異点を頭の中で作り出した。
目の前の空間が歪み、無重力状態の彼の体は物理的にその点に向かって『落下』し始める。
特異点は彼の視線と思考に追従して移動するため、この落下は完全に制御可能な飛行へと変わるのだ。
停止、あるいは降下するには、体に元の重さを戻せばいい。
高速移動時の慣性を殺すためには、コンマ数秒だけ自分の背後に引力点を投影し、それをダイナミックブレーキとして機能させる。
アイロンは深呼吸をし、肩の力を抜いて、質量を遮断しようと試みた。
【試行一回目】
体がピクッと動き、数センチ浮き上がったが、左足が急激に跳ね上がり、バランスを崩してしまった。
アイロンは集中力を乱し、足の裏から地面にドスッと落ちた。
「感度が高すぎる」
彼は呼吸を整えながら呟いた。
【試行二回目】
今度はもっと柔らかくアプローチした。
体重が滑らかに消失し、アイロンは空中で安定して静止した。
体の姿勢を制御しながら、数メートル前方に重力点を作り出そうと試みる。
空間が微かに歪んだ直後、エンジニアの体は前方に激しく引っ張られた。だが、移動ベクトルを修正する間もなかった。
引力点が下へズレすぎたせいで、アイロンは草むらに突っ込んでしまった。
「また焦ったか」
彼は立ち上がり、膝についた葉っぱを払い落とした。
数百回の失敗と打撲の末、アイロンはついに最適なリズムを掴んだ。
滑らかに地面から離れる。
目の前の空間が従順に収縮する。
エンジニアは前へと滑るように進み、2本の樫の木の間を通り抜け、松の木の周りで旋回し、背後に相殺フィールドを発生させて急ブレーキをかけた。
質量を戻し、ふわりと両足で着地する。
その頃には、森はすっかり暗くなっていた。
アイロンは村へと歩いて戻る。歩きながら、今行ったテストの分析を繰り返した。
「リュモン。一つ、理論上の質問がある」
彼は口を開いた。
「もし状況が制御不能に陥り、私がドーンヘイムの全住民を安全な場所へテレポートさせろと命令した場合……お前はそれを実行できるか?」
回答までの沈黙は、ほんの一瞬のことだった。
『要求を処理しました』
頭の中で淡々とした声が響く。
『生体組織のテレポートは可能です。しかし、生物オブジェクトの空間転移リソースには制限があります。一度に転移可能な限界値は、個体数6まで。1サイクルでの村の全住民の完全な避難は、技術的に不可能です』
「なるほど」
アイロンは目を細めた。
「ならば、この選択肢は究極の緊急時のみに残しておくか」
倒木を跨いでさらに数歩進み、彼はより厳しい口調で付け加えた。
「それからもう一つ。来るべき戦いで、状況がどうしようもなく最悪な方向へ転がった時の話だ。私の生命に危機的脅威が及んだ瞬間に限り、お前に私の体の完全な制御権を譲渡することを許可する」
「だが……! ウェイランドとの戦いで見せたような、あのクソみたいな真似は二度とするな。さもなければどうなるか、分かっているな?」
アイロンの内部で、低い機械音が微かに響いた。
アイロンは満足げに頷いた。
前方には、すでにドーンヘイムの焚き火のオレンジ色の明かりが木々の間から見え始めている。
アイロンは工房近くの空き地に出た。
焚き火のそばには、マレク、アルベルト、ダーウィン、そしてクララが座っていた。
作業の最後の仕上げについて、彼らは静かに語り合っている。近づいてくるエンジニアに最初に気づいたのはクララだった。
「あ、アイロン!」
彼女は笑顔で声を上げた。
皆が一斉に彼の方を振り向き、疲れてはいるが満足げな笑顔と軽い会釈でリーダーを出迎えた。
クララはすぐに座っていた丸太から立ち上がり、足早に厨房の方へと向かっていった。
「どうだ、司令官。仕事の成果を見てくれ」
マレクは誇らしげに塔の方へ顎をしゃくった。
「組み立ては終わったぜ。最後の2基も配置済み、タレットも固定してある。冷却システムの充填も完了だ」
アイロンは焚き火の近くへと歩み寄った。
「素晴らしい仕事だ」
彼は淡々と答えた。
「私のテストも無事に完了したよ。見てくれ」
彼は普通に一歩前に踏み出したが、足を地面につけることなく、そのまま滑らかな動きで空中へと上昇していった。
マレクは口を開けたまま固まり、アルベルトは驚いて目をこすり、ダーウィンは今までいじっていた工具を危うく落としそうになった。
「すげぇ……」
ダーウィンは宙に浮くエンジニアをまじまじと見つめ、息を呑んだ。
「あんた……エリリアみたいに飛べるようになったのか!? かっけぇ!」
「まあ、近いな」
アイロンは微かに微笑み、ふわりと足の裏から地面に降り立った。
その時、クララが戻ってきた。
手には、湯気を立てるボウルと木製のスプーンが大事そうに抱えられている。
「アイロン、今日一日何も食べてないでしょ。ほら、やっと食べて」
「ありがとう」
アイロンは温かいボウルを受け取ると、火のそばにある空いている木箱に腰を下ろした。
薪が燃える小さなパチパチという音を聞きながら、夕食に手をつける。
アイロンは無言で温かい粥を口に運び、炎の中で枝が燃える静かな音に耳を傾けた。
他の皆も黙り込み、ひとときの平穏を味わっている。
マレクは長い木の枝で炭をいじりながら、じっと焚き火を見つめていた。
やがて、彼は耐えきれなくなったように小さな声で尋ねた。
「アイロン……。つまり、もうすぐ戦争が始まるのか?」
エンジニアはゆっくりとスプーンを下ろし、彼を見据えた。
焚き火の周りが一瞬で静寂に包まれる。
アルベルト、クララ、そして丸太の端で息を潜めたダーウィンが、期待と不安の入り交じった視線をアイロンに向けた。
誰もが無意識のうちに同じことを理解していたが、皆が抱える不安を最初に口に出したのはマレクだった。
「100パーセントの確証はない」
彼は答えた。
「だが、王たちの動向や全体の勢力図から判断するに、戦争は間違いなく起こるだろう。まあ、私が間違っている可能性もあるが」
「そうか……」
マレクは静かに息を吐いた。
突然、ダーウィンの背後――天蓋の下にある組み立て用の作業台の一つで、大きな火花が散った。
鋭い放電音が鳴り響く。
皆が一斉に音の方を振り向いた。ダーウィンが勢いよく立ち上がる。
「あークソ、また配電盤の接点がショートしたか」
彼はぼやいた。
「今すぐ見てくる。何か焼け焦げる前にな」
「行ってこい」
マレクが手を振る。
ダーウィンが暗闇の中へ二、三歩進んだところで、アイロンがその後ろ姿に向かって低く声をかけた。
「ダーウィン。自分自身の名を冠した賞だけはもらうなよ」
彼は足を止め、不思議そうに振り返った。
「賞?」
困惑する彼の顔を見て、アイロンは微かに笑みをこぼした。
「いや、忘れろ。ただの……独り言だ」
ダーウィンは肩をすくめ、天蓋の暗闇の中へと消えていった。
アイロンは残りの粥を素早く平らげ、空になった器をクララに差し出した。
「改めて礼を言う。美味しかったよ」
「気に入ってもらえて嬉しいわ」
クララはボウルとスプーンを受け取った。
「さて。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみ、アイロン」
マレクが答えた。
エンジニアはきびすを返し、工房へと向かった。
その道すがら、彼は左手を前に上げ、ゆっくりと手のひらを握りしめて拳を作り、そして再び指を開いた。
「慣れないとな」
彼は小さく呟き、工房の扉を開けた。




