第195話:ノアの魔法
共同キッチン前の広場での遅い夕食が、終わりを迎えようとしていた。
テーブルの上では空になった鍋が冷め、宙には煮込んだ肉と燃え尽きた炭の匂いがまだ漂っている。
一日の労働に疲れ果てたドルンハイムの住民たちは、静かに言葉を交わしながら、ゆっくりと自分の分の食事を平らげていた。
最初のグループが席を立ち始めた。
数人の少女たちが食器を集め、居住区へと向かう。
それに気づいたクララが声をかけた。
「もう片付けちゃうの?」
「うん、ごちそうさま」と、そのうちの一人が歩きながらエプロンを直して答える。
「もう寝なきゃ。明日も早いし、それに、もうこんな時間だしね」
男たちも一人、また一人とベンチから立ち上がり、重い溜め息をつきながら自分の家へと歩き出した。
少し時間が経つと、消えかけの焚き火のそばに残っているのは、クララ、ダーウィン、マレク、そしてアルバートの小さなグループだけになった。
彼らは無言で炎を見つめ、過酷な一日の後に訪れた夜の涼しさを楽しんでいた。
少し離れたところには、ノアが座っていた。
突然、彼の目の前にエリリアが実体化した。
「ねえ、ノア、そろそろ行かない?」
彼女は静かに、だが切迫した声で囁いた。
「もうこれ以上は待てないわ」
ノアは一言も発することなく立ち上がり、森の方へと歩き出した。
エリリアも瞬時に彼を追って滑るように宙を飛ぶ。
クララがそちらに顔を向け、彼らの背中に向かって叫んだ。
「また訓練に行くなら、キャンプから遠く離れたところでやってね!」
ノアは一瞬立ち止まり、振り返ることなく短く頷いた。
一方のエリリアは空中で楽しげにクルクルと回り、明るい声で返事をした。
「わかった!」
二人の姿が完全に森の奥へ消えると、それまで黙っていたアルバートが口を開いた。
「村だよ」
クララは驚いて医師を振り返った。
「え?」
「村だよ」アルバートは繰り返した。「キャンプじゃない」
クララは一瞬眉をひそめて彼の言葉を反芻し、やがて疲れたように、だが柔らかく微笑んだ。
「あ、そっか……ごめんなさい」
ノアとエリリアは無言のまま歩を進めていた。
精霊は少し前を飛び、時折後ろを振り返る。
「剣は持ってきた?」と彼女が尋ねる。
ノアは腰のあたりを手のひらで短く撫で、一瞬だけ鞘を持ち上げて剣の柄を見せた。
やがて二人は、オークの木々に囲まれた広々とした、人気のない森の空き地へと出た。
エリリアは空中で急ブレーキをかけ、地面すれすれまで滑らかに降下した。
「ここならいいわね」
そう言った彼女の声から、先ほどの軽薄さが完全に消え去っていた。
「じゃあ、始めましょっか?」
彼女の周囲の空間が、わずかに震えた。
次の瞬間、地面から太く節だった根が爆発的に突き出した。
それらはノアの足元へと殺到し、彼の動きを封じてその場に縫い付けようとする。
彼は一瞬の遅れもなく反応した。
鋭い金属音と共に、刃が鞘から抜き放たれる。
ノアは駆け出しながら一気に距離を詰め、正確な太刀筋で根を切り落とした。
エリリアまであと数歩というところまで迫り、彼女の体を両断すべく鋭く剣を振りかぶる。
だが、精霊はただ空気に溶けるように消え去り、瞬時に十メートル上空へと実体化した。
それと同時に、空き地を覆う木々の梢が内側へと曲がった。
巨大な枝が落下し、巨大なトラップとなってノアへ直接牙を剥く。
彼は横へ飛び込み、降り注ぐ木材の塊を躱した。
その勢いのまま高く跳躍し、折れ曲がる枝の上へと飛び乗る。
エリリアと同じ高さに到達したノアは、再び斬撃を放つため刃を突き出したが、精霊はまたしても跡形もなく消え去った。
足場を失い、ノアは空き地へと真っ逆さまに落下していく。
その落下地点の地面が泥土を巻き上げて爆発し、中から恐ろしい速度で巨大な木の幹が突き出してきた。
強烈な一撃がノアの足裏にまともに命中し、彼を夜空高くへと打ち上げる。
成長し続けるその巨木の頂上で、ノアは必死にバランスを保った。
次の攻撃に向けて身を屈めようとしたその瞬間――巨大な幹は緑色の火花の雲となって瞬時に蒸発した。
再び足場を失い、ノアは途方もない高空から猛スピードで地上へと落下していく。
落下しながら、彼は空き地を囲む木々が異常に伸びていくのを見た。
その枝は生きた鋭利な槍と化し、落下軌道をすべて塞ぐように彼めがけて殺到してくる。
ノアは瞬時に反応した。
空中で身を丸めて最初の木のトゲを躱し、ブーツの裏でそれを蹴り飛ばして一時的な足場にし、さらに下へと飛ぶ。
迫り来る無数の幹の刺突を躱しながら駆け抜け、ついに地面へと着地した。
すかさず泥の中から新たな根が這い出し、彼の足首を掴もうとするが、ノアは電光石火の速さでそれを斬り払う。
一息つく間もなく、彼は前へと踏み込んだ。
空間がブレる。
ほんの数分の一秒後、彼はエリリアの背後を完全に取っていた。
精霊の首筋を狙い、ノアは鋭く剣を振り抜く。
しかし、剣の刃は彼女の肌から数センチのところでピタリと止まった。
まるで目に見えない(インビジブルな)不可破の壁に激突したかのように。
予期せぬ抵抗に、ノアは歯を食いしばる。
「何なんだよ、クソッ」
くぐもった声が漏れた。
反撃は即座にやってきた。
左から極太の蔓が飛び出し、死の抱擁のごとくノアの脚に巻きつくと、空き地の端まで彼を力任せに放り投げた。
ノアは背中から近くの巨大な木の幹に激突し、肺から空気を吐き出した。
剣を握りしめたまま、ゆっくりと地面へずり落ち、息を整える。
エリリアは彼の方へ滑らかに向き直り、静かな表情のまま空中に滞空していた。
「私のパッシブ防御よ」
彼女は平坦な声で説明した。
「攻撃を仕掛けてくる相手が、心の底で深く自分に自信を持てていない時にだけ発動するの」
ノアの顔が怒りに歪む。
彼は勢いよく立ち上がり、再び猛烈なスピードで駆け出した。
「それがどうしたって言うんだよ!」
新たな刺突のため剣を構えながら、彼は吠えた。
エリリアは彼が切っ先を突き出す直前に空中に溶け、嘲笑うような声の残響だけを残した。
「ダーウィンでさえ、もう状況を理解してるはずよ」
ノアは急激に戦術を変えた。
盲目的に突っ込む代わりに、木々の枝へと飛び乗る。
猛烈なスピードで枝や小枝を剣で切り落としては、強烈な打撃と投擲で次々とエリリアに向けて撃ち出していく。
木材の弾丸が、凄まじい音を立てて精霊へと降り注いだ。
エリリアはただ片手を前に突き出した。
飛来する枝や丸太は、彼女の体に触れることなく、瞬時に空中で静止した。
彼女の注意が逸れた隙を突き、ノアは瞬時に彼女の背後へ実体化する。
刃は完璧な弧を描き、精霊を真っ二つにしようと迫った。
だが、またしても刃は目標の数センチ手前で静止した。
エリリアがゆっくりと腕を下ろすと、目の前で静止していた枝が力なく地面に落ちた。
「納得した、ノア?」
彼女は振り返りもせずに冷たく尋ねた。
ノアは後ろへ大きく跳び退き、距離を取って荒い息をつく。
「俺がそんな言葉、本気で信じると思うか?」
歯の間から絞り出すように言った。
彼が新たな一撃を放つ前に、エリリアは彼の頭のすぐ横に実体化した。
彼女の手のひらが、ノアが防御の姿勢をとる暇すら与えぬほどの速度で突き出される。
精霊の腕から硬い蔓が飛び出し、ノアの頭部に巻きついて彼の視界を完全に奪った。
「どう思おうと勝手だけど、真実は私にあるのよ」
彼女は彼の耳元で囁いた。
その瞬間、エリリアは腕を鋭く下へ振り下ろした。
蔓に縛られたノアは、猛スピードで顔面から地面へと叩きつけられ、鈍い衝突音を響かせた。
頭部を覆っていた緑の拘束が滑り落ち、即座に消散する。
エリリアは彼に背を向け、肩をすくめて、すでに飛び去ろうとしていた。
「悪いけど、臆病者と付き合う気はないわ」
肩越しに冷たく言い放つ。
ノアは泥の中に倒れたままだった。
ゆっくりと仰向けに寝返りを打ち、虚ろな目で暗い夜空を見上げる。
「俺が……臆病者……?」
静かに呟いた。
彼は一瞬動きを止め、それから手のひらで顔を覆った。
胸の奥から漏れた最初の小さな笑い声は、瞬く間に高笑いへと変わっていった。
エリリアは立ち止まった。
予想外の反応に少し困惑し、明らかな疑問の表情で彼を振り返る。
ノアは顔から手を乱暴にどけ、笑い続けた。
「俺が? 臆病者?」
さらに狂気じみた笑い声を上げながら、吐き捨てるように言った。
「冗談じゃない!」
一秒前まで地面に倒れていたはずのノアは、次の瞬間には姿を消していた。
エリリアは慌てて周囲を見回し、わずかな動きでも捉えようとする。
ノアは木々の梢の間を常軌を逸した速度で移動していた。
血流のすべてを意図的に右腕へと集中させる。
筋肉は限界まで張り詰めているが、速度はさらに上がり続けていく。
状況のコントロールを失いつつあると悟ったエリリアは、両手を指を閉じたまま鋭く上に突き出し、力強く左右に開いた。
その瞬間、彼女から強大な魔力パルスが放たれた。
エネルギーの波が、半径百メートル以内のすべての木を根こそぎ薙ぎ払い、吹き飛ばす。
地面はむき出しになり、荒れ果てた更地と化した。
だが、ノアの姿はどこにもない。
突如、精霊の目の前で空気が鋭く揺れた。
彼女が横へ身をかわすのがギリギリだった――斬撃が彼女の羽を切り裂く。
脅威を認識する間もなく、ほんの数分の一秒の間に、目に見えない新たな刃が次々と飛来した。
エリリアは距離を取ろうと上空へテレポートしたが、攻撃はそこまで追尾してきた。
新たな斬撃が彼女の羽を完全に、根元から切断する。
切り離された羽の残骸が宙を舞い、エリリアは純粋な魔力のみでその高度に滞空し続けた。
荒い息をつきながらバランスを保ち、精霊は漏れ出すエネルギーへと視線を向ける。
(これこそ、私たちが必要としていたノアだわ)
彼女の脳裏にそんな考えがよぎる。
(彼は理性を飛ばしてる。ここで私が本気を出さなければ、確実に殺される)
ノアが潜む暗闇から、最後の一撃が放たれた。
数分の一秒の間に、刃の暴風雨がエリリアへと殺到する。
精霊は即座にその脅威を魔力視覚で捉え、驚きのあまり目を見開いた。
(二十……いや、三十!?)
エリリアは再びテレポートを発動させ、ノアの真正面に実体化した。
それと同時に、根や太い幹、土塊が瞬時に飛び交い、ノアを完全かつ強固な繭の中に密閉し、完全に封じ込めた。
(くそっ、今日はもうテレポートは使えない)
空中に滞空しながら、エリリアは思った。
だが、彼女の内的な独白は一瞬で断ち切られた。
百分の一秒後、その繭は細かな木っ端へと粉砕されたのだ。
それを見たエリリアは急いでさらに高く舞い上がり、身を隠して射線を外れようとした。
遥か上空から魔力視覚で彼を観察すると、彼の構造がはっきりと見て取れた。
ノアは右腕に血を送り込み続けている。
だが、今の彼の腕は過剰な圧力で破裂することはない――完全に安定し、完璧なバランスを保ったまま機能していた。
エリリアは魔力視覚の目を閉じ、疲労困憊しながらも、満足げな笑みを浮かべた。
「それがあなたの魔法だったのね、ノア……」
彼女は静かに呟いた。
精霊は焦土と化した空き地の中心へと飛んだ。
エリリアの右手が体の前で固く握りしめられる。まるで目に見えない鞘を握るかのように。
そして左手がそこを滑らかになぞり、実体化しつつある刃を抜く。
その武器は純粋な魔力で織り上げられており――完全な緑色で、刃の縁は眩いエメラルドの光を放っていた。
(それでも、今のあなたがそれを使うのは危険すぎる)
下界のノアを見下ろしながら、エリリアは思った。
彼女自身の体もすでに限界に達していた。
顔面は蒼白で疲弊しきっており、胸の奥から乾いた咳が漏れた。
その瞬間、ノアの放った何百もの見えない斬撃が上方へと殺到し、空中の精霊を包み込むように渦を巻いた。
凄まじい疲労を押し殺し、エリリアはその場で鋭くスピンし、エメラルドの武器を前へと突き出した。
「『断裂』ッ!」
彼女は叫んだ。
魔法の剣の切っ先がエメラルドの光で爆発する。
エリリアは渾身の力で一太刀を振り抜いた。
空間が純粋なエネルギーによって引き裂かれた。
迫り来るノアの斬撃は、その圧倒的な力に耐えきれず瞬時に消滅する。
エメラルドの波が周囲一帯を飲み込んだ。
半径五百メートル以内のあらゆる木々が真横に両断され――その上半分は一瞬にして木端微塵に吹き飛び、煙を上げる平坦な切り株だけが残された。
その破壊的な一撃はノア自身にも襲いかかった。
一瞬の閃光――剣の柄を握りしめたままの彼の右腕が、きれいに切断された。
続いてエメラルドの刃は、彼の左脚を膝のすぐ上から切り落とした。
血塗れになり、ノアは掘り返された大地へと崩れ落ちる。
エリリアは激しく、途切れ途切れに呼吸しながら、ゆっくりと地上へ降り始めた。
絶望的な疲労に耐え、強引に少しでも彼に近づこうと飛ぶ。
ノアの体は彼女の目の前に横たわっていた。
しかし、彼女が近づききる前に、精霊の顔を思わず歪ませる光景が起きた。
切断された右腕と左脚が、猛烈な勢いで元通りに癒着し始めたのだ。
エリリアは悔しさと苛立ちから顔をしかめた。
まるでテレポートしたかのように、ノアは飛び出し、一瞬にしてエリリアのわずか一センチ手前まで肉薄していた。
再生した腕が瞬時に突き出され、刃が彼女を貫かんと迫る。
最後の最後、ギリギリの鋭い身のこなしでエリリアは切っ先を躱した。
剣は風切り音を立てて彼女の顔のすぐ横を通り過ぎる。
だが、精霊の手のひらを突き出す時間だけはあった。
彼の胸に触れ、彼女は静かに、だがはっきりと言葉を紡いだ。
「『怠惰な夏の日の微睡み』」
魔法は即座に効果を発揮した。
ノアの突進の勢いが、その場で完全に霧散する。
彼はよろめき、その動きはぎこちなく緩慢なものへと変わった。
膝から崩れ落ち、必死に意識を保とうと目を開き、そしてまた閉じる。
エリリア自身も完全に地面へ降り立った。
力は完全に尽き果て、疲労のあまり泥の中に倒れ込みそうになる。
ノアはまだ睡魔と戦いながら、最後の攻撃を試みたが、彼女から数メートル離れたところで力尽き、ついに眠りに落ちた。
ドルンハイムから遠く離れた森の奥深く、焦土と化した荒野に静寂が降りた。
しばらくして、エリリアは眠るノアへと視線を向けた。
「今のあなたの性格じゃ、まだその力は使いこなせないわ」
押し寄せる疲労と戦いながら、彼女は静かに囁いた。
「いつか……全部乗り越えてくれるって、信じてるからね」




