第154話:「Z」
オーク材の机に、まだらな光が落ちていた。
ドルンハイムの朝は灰色で、肌を刺すように冷たい。
執務室には、削りたての木材と安物のハーブティーの匂いが漂っていた。
アイアンは車椅子に座っていた。
彼の向かいには一人の男。
森で保護された、マレクと名乗る男だ。
アルバートに包帯を巻かれたその両手は微かに震え、膝の上で一定のリズムを刻んでいる。
彼のそばには、粗削りな木製のマグカップが三つ。
低い天井に向かって、湯気が立ち上っていた。
アイアンはゆっくりと、急な動きを避けるようにして、一つのカップをマレクの方へ押しやった。
もう一つは手元に残す。
「飲め」
アイアンの声は低く響いた。
「温かいものを入れれば、頭も回るようになる」
マレクは両手でカップを掴んだ。
火傷しそうなほど熱いお茶を、木肌から指を離すこともなく、貪るように喉に流し込む。
部屋の隅、ドアのすぐ脇にはヴァルターが張り付いていた。
その手は剣の柄に置かれている。
執務室のどこにもノアの姿はなかった。彼は周辺の安全を確保するため、外のどこかへと「溶け込んで」いるのだ。
「ソル=ケシュ」
カップを下ろし、マレクはようやく息を吐き出した。
「村の名前はソル=ケシュだ。ここから沼地を抜けて、南へ三日の距離。……だが、今はもう関係ない。村は消えちまった」
「最初から全部話せ」
アイアンは一口啜った。
「どんな化け物だ? ラインハルトの連中か?」
マレクは首を横に振った。
「そうだったらよかったんだがな……。略奪者には慣れてる」
「だが、あれは霧だった。夜に現れたんだ」
「そこから馬ほどの大きさの、毛の抜け落ちた猟犬みたいな化け物どもが這い出してきた。それに……角の生えた奴らもだ」
「一撃で家が木っ端微塵になった。一振りで人間が真っ二つにされた」
男は口を閉ざし、カップの底を見つめた。
「俺たちは逃げた。七家族でな」
「残ったのは、俺たち三人だけだ」
アイアンは口を挟まずに聞いていた。
角の生えた化け物――ミノタウロスか何かだろう。ただの村に勝ち目などあるはずもない。
だが、問題はそこではない。
「お前たちは単独で逃げてきたわけじゃないと、ノアが言っていた」
「あの惨劇から逃げ出すのを、誰かが手助けしたはずだ」
マレクが弾かれたように顔を上げた。
その目に、一瞬だけ光が戻る。
「粉引き小屋が燃え上がった時、そいつは炎の中から現れたんだ」
「一人で。鎧も、剣も持たずに。少なくとも俺には何も見えなかった」
「ただ、奇妙な黒い外套を着ていた」
「名前は?」
アイアンは短く尋ねた。
「『Z』だと名乗った」
(Z?)
(面白い)
アイアンは心の中で呟いた。
「で、そいつはどうやってお前たちを救った? 見返りに何を要求した?」
「そいつが……ただ動いただけで、化け物どもは死んだんだ」
「見返りなんて何も求めちゃいない。ただ、『北へ向かえ。そこが一番近い集落だ』とだけ言った」
アイアンは目を細めた。
「Z、か」
「それで、ただお前たちを逃がしたと?」
ドアのそばからヴァルターが口を挟んだ。
「ああ。それに、そいつは小さな黒い塊をくれた」
「それがブンブンと鳴っている間は安全だと言っていた」
「俺たちは三日間歩き続けたが、化け物は一匹たりとも近づいてこなかった」
「暗闇の中で吠え、歯ぎしりをしていたが……決して近づけなかったんだ」
アイアンの中で、何かがカチリと音を立てた。
「その代物は今どこにある?」
アイアンは身を乗り出した。
「見せろ」
マレクは申し訳なさそうに肩を落とした。
「あれは……バラバラに崩れちまった」
「四日目、あんたらの集落の周りの森に入った途端にな」
「あの牛の化け物に襲われたのは、まさにその時だ」
アイアンは車椅子の背もたれに寄りかかった。
(耐用期間。デバイスの稼働リソースが、この領地の境界で正確に尽きた)
(偶然か? 違うだろう)
(『Zという人物』は、彼らをどこへ向かわせるべきか知っていた)
(そして恐らく、そのデバイスがどれだけ持つかも正確に把握していたはずだ)
(……それとも、俺の考えすぎか?)
「いいだろう、ヴァルター」
空のカップから目を離すことなく、アイアンは呼んだ。
「こいつらの荷物を調べろ。そのデバイスの残骸を、塵一つ残さず回収したい」
「それから、茶をもう一杯淹れろ」
マレクは腰に下げた脂ぎった革袋に手を突っ込んだ。
そして、一掴みの灰色の粉を手のひらにあけた。
「これだ。残ったのはこれだけなんだ」
彼は囁いた。
「音が止んだ後、熱を持った。それからカチッと音がして……ただのゴミになっちまった」
アイアンは再び身を乗り出す。
暗灰色の顆粒。艶はない。
所々に微細な青い火花のようなものが光っていた。シリコンか、あるいはもっと複雑な素材の残骸だろう。
匂いは? 鼻をつく、化学的な異臭だ。
「ヴァルター」
アイアンは言った。
「ナイフを貸せ」
キャプテンが幅広の狩猟用ナイフを差し出す。
アイアンは刃先で、難民の手のひらに乗った粉の山をかき分けた。
灰色のゴミの中に、極小の、溶けた金属の破片を見つける。完璧な切断面だ。
「そいつは『ブンブン鳴っていた』と言ったな?」
アイアンはマレクの目を真っ直ぐに見据えて尋ねた。
「ああ……細くて、甲高い音だ」
「長く近くにいると、耳が詰まるような感じがした」
アイアンは身を引いた。
『リュモン。成分分析』
[解析完了]
タイプB-4ポリマーの痕跡を検出。
リチウム塩の残留物を確認。
高濃度の酸化ケイ素。
暫定結論:携帯型アクティブ超音波防護エミッター。動力源:統合セル。稼働リソース枯渇。
(奴が何者であれ、天才だな)
(三日間のタイマー付きの装置を奴らに持たせるとは……)
アイアンは内心で考えを巡らせた。
「それで、そいつはどこへ行くとも言わなかったのか?」
ヴァルターが口を開いた。彼は窓際に立ち、広場で働く労働者たちを眺めている。
「その代物を渡して、ただ消えたと?」
「俺たちを見捨てたわけじゃない」
マレクが顔を上げた。
「後ろに追っ手がついてるって言ってたんだ。何か、恐ろしいものが」
「俺たちにも聞こえた……丘の向こうから。地面が揺れていた」
「そいつは背中から長い棒のようなものを引き抜いて……何かを押すと、俺たちの石と同じように唸り声を上げたんだ」
「もっと、ずっと大きな音でな」
「そいつは言った。『振り返らずに走れ。一時間経っても俺が戻らなければ、手が離せないということだ』」
「それだけだ」
「Z、か」
アイアンは呟いた。
「ヴァルター、こいつを連れて行け。アルバートにもう一度飯を食わせてやってくれ」
「まともな寝床も見つけてやれ。工具倉庫からは離れた場所にな」
泥だらけのブーツで床を汚しながらマレクが部屋を出ていくと、ヴァルターが机に近づいてきた。
「どう思う?」
キャプテンは険しい顔をしていた。
「お前の知り合いか?」
「違う」
アイアンは窓の外に目を向けた。
もしZがテクノロジーを使っているのだとしたら、何らかの方法でこの世界の技術を知り得たのか、あるいは……。
俺と同じ、もう一人の転移者か。
マレクが通った後のドアが閉まる。
その瞬間、ノアが音もなく姿を現した。
「上位悪魔ねえ」
彼は鼻で笑った。
「村の連中にしてみりゃ、馬よりデカくて吠える奴は、片っ端から『上位悪魔』になっちまうんだろ」
「どうせただのトロールかグールあたりだろ」
アイアンは車椅子の車輪を回し、再び机に向き直った。
「どうだろうな。お前の言う通りかもしれない」
ヴァルターは眉をひそめ、机に一歩近づいた。
彼の手が、本能的に剣の柄頭に置かれる。
「お前はあの化け物の存在を信じてるのか、アイアン?」
「ああ」
アイアンは淡々と答えた。
「少なくとも、あの男から嘘の匂いはしなかった」
アイアンは指の関節で机の表面をコツコツと叩いた。
「仮に、そのZが死んだとしよう」
ヴァルターの声が硬くなる。
「その……武器のエネルギーが尽きて、化け物に食われたとしたら。どうなる?」
「なら、奴は跡を追ってくるだろうな」
アイアンは静かに指摘した。
「あの難民たちからは、何マイルも先からわかるほど恐怖の匂いが染み付いてる」
「化け物が奴らを狙っていたのか、それとも単にあの地域を掃除していただけかはわからんが、匂いを辿ってくるはずだ」
「俺たちの門の真ん前までな」
ノアは思案げに顎を擦った。
その唇には微かな笑みが浮かんでいる。
「最高じゃねえか。俺の退屈しのぎにはなるかもな」
「俺から言わせれば、奴らは囮じゃなく理想的な労働力だ」
アイアンが話を遮った。
「だが、状況は最悪だな」
彼は、机に残されたあの「代物」の灰色の粉を見つめた。
頭の中で歯車が高速で回転し始める。
Zとは何者だ?
奴は人々を救った。それが一つ目の事実。
奴らに携帯型防護ジェネレーターという、貴重で代用のきかないリソースを消費した。これが二つ目の事実。
奴らをドルンハイムへ向かわせた。つまり、ここが安全だと知っていた。これが三つ目の事実。
論理的に考えれば、Zは人類側のプレイヤーだ。
敵ではない。そもそも敵なら、役に立たない「ゴミ」のために命を懸けたりはしない。
頭が痛くなる。
残された選択肢は、おそらく一つだけだ。
「ヴァルター」
アイアンは集中力を帯びた眼差しを上げた。
「南のパトロールを倍にしろ」
「森の手前の射界を確保するんだ。壁から三百ヤード以内の茂みはすべて伐採しろ」
「茂みから何かが這い出てきたら、門に近づく前に気づけるようにしておきたい」
キャプテンは短く頷いた。
「了解した。ダーウィンにはどう指示する?」
「地雷を仕掛けさせろ」
「鉄パイプの切れ端と、釘と、火薬で作ったやつだ。南の獣道すべてに配置しろ」
ヴァルターが部屋を出る。
ノアはかすかな湿気の匂いだけを残し、廊下の暗がりへと溶け込んでいった。
執務室に静寂が戻り、壁に掛けられた重厚な時計の秒針の音だけが響く。それもまた、アイアンの発明品の一つだった。
「Z、か……」
窓の外を見つめながら、彼は息を吐いた。
「生きていてくれるといいがな」
窓の外からヴァルターの声が聞こえてきた。
キャプテンは声を張り上げ、指示を飛ばしている。
労働者たちが重い丸太を南門へと運んでいく。砕石とスクラップを積んだ荷車が軋む音を立てていた。
『リュモン。南セクターのパッシブスキャンを開始しろ。最大半径でだ』
[受諾。スキャンモードをアクティブ化。エネルギー消費を最適化します]




