第136話:剣の残響
煙が、市庁舎の砕けた階段に汚れた分厚い絨毯のように立ち込め、石の破片やねじ曲がった金属に絡みついていた。
エリアスは、爆発で粉々に砕け散った装飾柱の残骸を跨ぎ、地下室から出てきた。
一歩進むごとに身体に鋭い激痛が走ったが、彼の動きは滑らかで、焦りはなかった。
(作戦の現フェーズは失敗。スキフは破壊され、艦隊との通信は途絶。シールド維持により個人の魔力は枯渇。支援のない敵地中心部にこれ以上留まることは、数学的に不合理である)
彼は心の中でそう結論づけた。
港への退路を見極めようと広場の端で立ち止まったその時、前方の空気の密度が変わった。
焼け焦げた貨物車の残骸から、濃い影が静かに剥がれ落ちる。
ノアは一言も発しなかった。
だらりと下げられた彼の手には、緩やかに反った長剣が鈍く光っている。
インクイジターのスキフの、エーテル給電ケーブルを叩き斬った刃は、いまだ脂じみた熱を帯びていた。
エリアスは敵を値踏みすることにも、無駄口を叩くことにも時間を費やさなかった。
指先が白木の杖を握り直した瞬間、その先端から短く、目も眩むような閃光が放たれた。
光はノアを直撃したが、その身体を縛り付けるには至らず、ただ顔や手の皮膚を焦がして煙を上げさせただけだった。
ノアはコンマ一秒すら速度を落とさなかった。
鋭い踏み込みで魔法の障壁を食い破る。
一瞬前には貨物車のそばにいたはずの彼が、次の瞬間には処刑人の手の届く距離にいた。
エリアスは瞬時に己の誤りを悟った。
杖の先の光が消える。
エリアスは物理的な防御へと切り替え、呪術を施された超硬度の白木を棍として構えた。
ノアの剣が、正確に鎖骨を狙って上段から振り下ろされた。
刃が杖の木肌と衝突する。
乾いた、きしみあう音が響いた。
エリアスはノア自身の慣性を利用して刃を滑らかに受け流し、杖の石突きで少年の鳩尾を鋭く突き刺した。
胸骨がきしむ音を聞きながら、ノアはよろめいた。
だが、彼はすぐさま攻撃を再開した。
その刃は輪郭を失うほどの残像と化す。
あり得ない角度から、突きと斬撃が絶え間ない一つの奔流となって繰り出された。
しかし、その刃が標的に届く数ミリ手前で、常に防壁に阻まれる。
処刑人は、少年の肩のわずかな動き、重心の移動、ふくらはぎの筋肉の緊張をすべて読み取っていた。
剣が動き出す一瞬前に、彼の脳はすでにその軌道を弾き出している。
彼の反撃は、一撃一撃が致命的だった。
膝裏を狙う容赦のない足払い。肘関節への無慈悲な突き。
受け流しからそのまま連動する、杖の柄での顎への強打。
ノアは、自身の肉体が悲鳴を上げ始めているのを感じていた。
血が顔を伝い、視界を赤く染める。肩や胸の切り傷は塞がろうとせず、傷口の縁は杖との接触によって黒く焦げていた。
(届かない――)
血の塊を吐き出しながら、ノアは冷徹に現状を認識した。
さらに杖の掠めるような一撃が肋骨を捉え、深い溝を刻みつける。
ノアは数メートル後方へと跳んだ。
エリアスは杖を両手で握り直し、構えを変える。
「……これを使うしかないか」
ノアが囁いた。
「エコウル・サビエイ(Ecoul sabiei)」
ノアは剣を下げた。
そして、己の心臓を狂気的な力で数回、強制的に脈打たせた。
体中の血液が凄まじい圧力となり、右肩、前腕、そして手へと一気に流れ込む。
腕は瞬時に膨れ上がり、皮膚が限界まで引き伸ばされた。
血管が黒く変色し、青白い肉体の上に太く脈打つ縄のように浮き出る。
握り締められた指の下で、柄の金属がきしんだ。
筋肉が、細かく苦痛に満ちた震えを始める。
彼は強く足を踏み出した。
わざと左肩を下げ、脇腹を完全に晒しながら。
エリアスはそれを見逃さなかった。
瞬時に確率を算出する。
(敵は疲弊し、集中力を欠き、致命的なミスを犯した。一撃で屠るためのベクトルが開いている)
処刑人は短く、鋭い踏み込みで間合いを詰め、尖った杖の先端をノアの心臓目掛けて真っ直ぐに突き出した。
木肌が鈍い音を立てて肉に食い込み、肋骨を砕き、組織を引き裂いた。
ノアの口から血が噴き出し、短い呻きが漏れる。
だが、少年はその衝撃に逆らうように一歩前へ進み、自ら杖の奥深くへと刺さりに行った。
尖端が背中を突き抜ける。
彼は己の肉体をもって、敵を完全にその場に固定した。
エリアスの目が、わずかに見開かれた。
まさにその瞬間、ノアの刃が奔った。
胸から首のラインを狙った、ただの水平の薙ぎ払い。
しかし、限界を超えた過負荷によって繰り出されたその腕は、あまりの凶暴さで空間を裂き、刃が空気を激しく震わせた。
一振りの刃であるはずのものが、十五条のブレた鋼の弧となって大気を切り裂いた。
コンマ数ミリ秒の差で、全く同じ軌道を追うように次々と重なる。
一撃目が杖を真っ二つに叩き斬る。
二撃目が、本能的に張られたエーテルバリアを粉砕した。
三撃、四撃、五撃目がエリアスの胸を切り開き、衣服の下の防護アミュレットを圧殺し、鎖骨と肋骨を両断する。
六撃目が、右腕を肘から切断した。
残りの刃が、彼の胴体を肉片と骨の砕けた血みどろの塊へと変えていく。
エリアスが膝から崩れ落ちた。
左手に握られた杖の残骸を見つめ、それから、燃え盛るドルンハイムの濃い煙に窒息しそうな夜空へとゆっくりと視線を巡らせる。
彼の唇が、微かに動いた。
穴の開いた肺から、静かな、濡れた吐息が漏れる。
一歩手前に立つノアの耳に、かろうじてその言葉が届いた。
「……許して……くれ……」
最高処刑人の身体が、重々しく横へと倒れ伏した。
その瞳はガラス玉のように曇り、石畳の上の灰の向こうにある、何もない虚空を凝視していた。
ノアはその場に立ち尽くし、破裂しかけた肺で必死に空気を貪っていた。
力が抜けていく指から剣が滑り落ち、硬い石の上に金属音を立てて転がる。
彼は歯を食いしばり、胸から杖の残骸を一気に引き抜いた。
黒い血がどっと舗装路に溢れ出したが、エリアスの魔法による制圧から解放された再生能力が、ゆっくりと引き裂かれた傷口の縁を繋ぎ合わせ始める。
ノアは、辛うじて崩壊を免れた柱廊の冷たい石壁に背を預けた。
ゆっくりと顔を上げると、降り出した雨が彼の顔の煤と血を洗い流し始める。
不意に、雲が割れた。
はるか上空に、巨大な黒いシルエットが現れた。
一隻。続いて二隻。三隻、四隻、五隻。
それらは霧の帳を切り裂き、厳格で完璧な楔形の陣形を保ちながら、不気味なほど機械的な同調で高度を下げてくる。
(クソが、破壊したはずだろう……)
暗闇の中で、一隻、また一隻と赤色の航行灯が灯るのを見つめながら、ノアは思った。
彼は身体を起こし……『心臓』へと向かって歩き始めた。




