第134話:白い静寂
世界が、ラグっていた。
俺の状態を表すには、その言葉しかなかった。
首を動かそうとすると、視界の映像がコンマ数秒遅れて更新される。
数値が二重にブレ、互いに重なり合い、オレンジと青のピクセルが混ざり合った判読不能なモザイクへと変わっていく。
俺は机の前に座り、アルベルトが持ってきてくれたコーヒーカップに焦点を合わせようとしていた。
指先が細かく震え、どうしても取っ手を掴めない。
俺は右手を伸ばした。
陶器のざらついた感触、その温もりを感じた――次の瞬間、乾いた破裂音が響いた。
カップが、指の中でただ砕け散った。
黒い液体が北セクターの地図の上に広がり、俺たちのタレットの配置を沈めていく。
「クソが」
俺は掠れた声で毒づいた。
「休め、アイアン」
アルベルトが傍らに立っていた。
「お前がどれほど眠っていないか、もう数えるのもやめた。神経系が限界を超えている」
「まだ時間はある、アルベルト」
俺は手のひらで額を拭った。
「最低でも八時間。おそらく十時間は猶予がある。その間にレンズの焦点を再調整できる」
「魔導師どもは今、怯えている。怯えた敵ほど予測不能なものはないぞ」
ウェイランドが口を挟んだ。
「奴らは来ない」
俺は灰色の、重い頭を頑なに振った。
「エーテル背景は安定している。見てみろ」
俺は壁にグラフを投影した。
線は平坦で、かすかな微動があるだけだった。
こめかみで重く鈍い痛みが脈打つ。
一瞬、かすかな囁き声が聞こえたような気がした――街の数千の命の声が、一つの地鳴りのようになって押し寄せる。
市庁舎の下の配管を流れる水、地下室で這い回るネズミの気配、広場で弾薬の給弾不良を巡ってダーウィンと言い争うヴァルターの姿が、すべて視えてしまう。
静寂を願い、俺は目を閉じた。
[注意:第三スペクトルに異常を検知。センサーエラーの確率:89%]
「またノイズか……」
俺は机を拳で叩き、毒づいた。
「ダーウィンがまたコンデンサーの巻線をショートさせたな」
通りの人々は体力を温存するように、ゆっくりと動いていた。
バリケードの任務がない者たちは、舗装路の上でそのまま眠ろうとしている。
二隻目の装甲艦を撃破したことで、街には危険な高揚感が漂っていた。
「ヴァルター、『ヴェープル』の調子は?」
俺は錯覚を振り払おうと、無線に向かって尋ねた。
「生きている」とキャプテンが応じる。
「だが左の履帯がギリギリだ。ダーウィンが継ぎ接ぎしようとしているが、予備のコマがない。それとアイアン、港に妙な霧が降りてきた。これは正常か?」
「ああ。ただの霧だ、ヴァルター。くだらないことに気を取られるな」
「了解。お前がそう言うならな」
だが、衝撃は頭上から唐突に降ってきた。
すべてはコンマ数秒の出来事だった。
市庁舎の上の空で、何かが音もなく弾けた。
[注意:中央ノードへの直撃を確認]
「なにい――」
言い終える時間はなかった。
作戦本部の天井が、凝縮された熱エネルギーによって爆発した。
一メートルの厚さの石板が、白熱する瓦礫と化す。
爆風が俺の身体を壁へと叩きつけた。
叫ぼうとしたが、耳鳴りと目の前の暗闇がそれをかき消した。
俺の『ネットワーク』が、街中に張り巡らせた『眼』が――すべて消滅した。
「アイアン!」
耳鳴りを突き抜けて、ウェイランドの声が響く。
立ち上がろうとしたが、足が言うことを聞かない。
視界に灰色の斑点が泳ぐ。
作戦本部が燃えていた。
夜空を背景にした天井の割れ目に、俊敏に動く何かのシルエットが見えた。
細身の、艦だ。
「奴らが……来た……」
煙に咽びながら、俺は掠れた声を出した。
市場の広場にいたヴァルターが、誰よりも早く反応した。
上空から火球が降り注ぎ、戦闘魔導師たちがすでに着地し始めたとき、彼は命令を待たなかった。
「砲兵隊、戦闘用意!」
彼の怒号が爆発音を圧する。
「『ヴェープル』を回せ! 光った場所を狙え! 散弾を使え、鉄を惜しむな!」
『ヴェープル』のエンジンが咆哮を上げ、黒煙を吹き出す。
速射砲が霧に向かって盲目的に火を噴き、鉛の壁を作り上げた。
ウェイランドが俺の脇を抱え、崩落する天井から遠ざけるように通路の奥へと引きずっていく。
「近衛兵!」
彼はすでに入り口に陣取っていた部下たちに叫んだ。
「地下を守れ! 『心臓』に届かれたら終わりだ! アルベルト、技師を頼む!」
伯爵はブロードソードを引き抜き、ドアの隙間に身を構えた。
その頃、ノアは闇に紛れて降下部隊の指揮官たちを確実に間引きしていた。
俺は通路の床に横たわり、壁に背を預けていた。
アルベルトが俺に何かを叫び、頬を叩いていたが、意識が遠くてほとんど認識できない。
「装置を……くれ……」
俺は囁いた。
「寝てろ、バカ野郎! 脳震盪と魔力枯渇だ!」
アルベルトが俺の頭に包帯を巻こうとする。
「『雷鳴』が……冷却システムをやられた……」
俺は彼の腕を掴んだ。
「塔を完全に破壊されたら、この街は無防備になる」
俺は無理やり目を開けた。
世界は二重には見えなくなったが、ひどく平板だった。
ルモンを起動しようとする。
胸に走る鋭い激痛と、唇に広がる血の味。
「動かない……」
俺の頭が、力なく胸へと落ちた。
その時、市庁舎をさらなる衝撃が揺るがした。
上層のどこかで、建設用の足場が轟音を立てて崩落する。
「バルコニーに敵襲!」
ウェイランドの部下の一人が叫んだ。
俺はリボルバーのあるベルトへと手を伸ばした。
通路の壁の亀裂から、市庁舎の中庭へとゆっくりと降下してくるインクイジター(異端審問官)のスキフ(高速艇)が見えた。
純白の船体に、金の装飾。
スキフの側面ハッチが音もなくスライドした。
展開されたタラップから、一人の男が降りてくる。
重厚な鎧も、大仰なローブも身につけていない。
シンプルな、白い長上着。
そして、白木で作られた細い杖。
男は砕けた石材と、倒れた民兵たちの死体を踏み越えて歩んでくる。
「あいつは……」
アルベルトが顔を青ざめさせ、囁いた。
「最高処刑人。エリアスだ」
白衣の影が中庭の中央で立ち止まり、顔を上げた。
俺は再びスキルを呼び出そうとした。
(頼む、動け! ほんの少しでいい!)
脳内で叫び散らす。
だが、応答はない。
「アイアン、地下の奥へ行け」
ウェイランドが俺に近づき、肩に手を置いた。
「俺たちが食い止める。できる限りな」
「ウェイランド、よせ……」
「行け!」
伯爵は一喝し、壁の裂け目へと背を向けた。
最高処刑人エリアスが杖を掲げた。
その先端で、柔らかな光が灯り始める。
俺の頭の中には、ただ一つの思考だけが残されていた。
(クソが……どうしてだ? なぜ、これを予測できなかった……?)




