第13話:泥臭く、歪み、苦痛
黒松の、密に絡み合う太い枝の隙間から、ようやく光が差し込み始めた頃、俺は小屋から外に出た。
足元を踏みしめるたび、苔がかすかな音を立てて沈み込む。
風はほとんどないというのに、頭上からは枝の擦れ合う鈍い音が微かに聞こえていた。
「今日は、お前が選ぶ番だ」
ゼノが静かに言った。
彼はマントに身を包み、杖に寄りかかりながら、小屋の丸太壁に背を預けていた。老人の視線は、前方に広がる木々へと向けられている。
「力がすべてを決めるのではない。決めるのは、お前自身だ」
俺は一歩を踏み出し、淡い霧に包まれた浅い窪地へと身を沈めた。
筋肉は緊張していたが、パニックはなかった。すべてが緩やかに、そして明晰な意識のもとで進んでいた。
不意に、森が静まり返った。
微かに聞こえていた枝の軋みさえも、完全に消失する。
アノマリー(空間異常)。視認するよりも早く、俺はその気配を察知した。周囲の気温が急激に低下し、十メートル先の草の上が瞬時に白い霜で覆われていく。
最初は、かすかな大気の揺らぎだった。
次の瞬間、それは突進してきた。倒木の陰から、灰色の煙と、低く唸りを上げる闇のエネルギーの渦が飛び出してくる。
その姿は大型の猫科の獣か狐のようにも見えたが、その均衡は絶えず変化していた。四肢は不自然に長く、背は丸く歪んでいる。その眼窩は虚ろな空洞であり、そこから底冷えするような冷気が放たれていた。
奴が動きを止め、同時に俺も足を止めた。
脈拍が不可避に上昇していくのを感じながらも、呼吸だけは平坦に保つ。
「まだだ……」
俺は『生きる意志』を短い手綱で繋ぎ止めるように、肉体的に抑え込みながら呟いた。
獣が鋭い跳躍で、一気に間合いを詰めてきた。
初撃は側方からだった。
半透明の長い爪を備えた影の脚が、俺の左肩へと振り下ろされる。
攻撃線から逃れようとしたが、魔力による加速のない肉体はあまりにも鈍重だった。
爪が骨のプレートに突き刺さる。
プレートがズレ、張り詰められた腱が運動エネルギーの一部を吸収したが、残りの衝撃はそのまま俺の肉体へと突き抜けた。
激しい振動が鎖骨を貫き、肋骨に響き、背骨を伝って下へと抜けていく。
体内で、何かが微かに砕ける音が聞こえた。
その瞬間、『生きる意志』が反逆を起こした。
肉体の防衛システムが、迫る脅威に対して悲鳴を上げる。
両目の奥に、死者のような冷徹な冷気が込み上げてくるのを覚えた。
ほんの一瞬、屈服しかけた。激痛があまりにも強すぎたのだ。
世界の色彩が剥ぎ取られ、視界の端から灰色に染まっていくのを感じる。
だが、俺はゼノの言葉を思い出した。
「……違う!」
噛み締めた奥歯の隙間から、声を絞り出す。
俺は押し寄せるスキルを力ずくで押し戻し、不格好なステップで後退しながら、追撃を辛うじて紙一重でかわした。
獣は空中で強引に角度を変え、再び跳躍してくる。
俺は奴が地を蹴る直前、大気が圧縮される瞬間を捉え、その動きを読み解こうとした。
左へ、わずかなステップ。
上半身を軽くひねり、痛みのない右脚へと体重を乗せる。
奴の爪が俺の胸元から数ミリの空間を切り裂き、皮膚に凍りつくような火傷の痕を残していった。
「見切ってしまえば、そんなものに殺されはせんよ」
どこか頭上の方から、ゼノの声が聞こえた。
ひどく冷静で……退屈そうな響きだった。
理解した。
そして、実行に移す。
集中。呼吸。足の踏み込み角。
左腕はほとんど麻痺して動かなかったため、俺は右腕と体幹の動きだけに意識を絞った。
魔力を外部へと放射し、獣の感覚を狂わせる。
奴は再び俺に向かって突進してきた。
その跳躍が頂点に達した瞬間、俺は右手を前方へと突き出し――わずか十センチ四方の領域の大気密度を、急激に変化させた。
獣の足が、その不可視の「歪み」によって足元を滑らせた。
奴の質量が、慣性のまま前方へと流れる。
俺はその刹那の隙を捉え、奴の後ろ膝のわずか下を正確に蹴り抜いた。
奴は青白い煙を上げながら、湿った草地へと激突した。
しかし、それでもなお奴は動きを止めず、体勢を立て直そうともがいていた。
こめかみで脈拍が激しく乱打する。
呼吸は途切れ途切れの喘ぎ声となって漏れ出していた。
背中と大腿の筋肉が、乳酸の蓄積で灼けるように熱い。
「力が人を救うのではない」
木々の影からゆっくりと姿を現し、二メートルほど離れた場所で足を止めたゼノが言った。その表情は依然として無感動だった。
「人は、己自身で自分を救うのだ。お前が、お前自身を統制しろ」
獣は諦めていなかった。
霧に溶け込みながら俺の周囲を旋回し、輪郭のぼやけた灰色の残像へと変わっていく。
俺は息を吐き出し、側面を防御するために、大きな松の根元へと静かに一歩下がった。
奴が倒木を飛び越え、頭上から襲いかかろうとした瞬間、俺は奴の顔面に向けて短い圧力の衝撃を放った。
獣は頭をのけぞらせ、再びバランスを崩した。しかし今度は転倒せず、攻撃の軌道をわずかに狂わせるにとどまった。
その爪が、俺の耳元からわずか一センチの場所の木の皮を激しく削り取った。
「呼吸しろ……」
血の気の引いた唇で、俺は呟いた。
「ただ、呼吸を繋げ」
奴は三度目の跳躍を仕掛けてきた。今度はさらに高く、俺の喉元を正確に狙って。
牙のない剥き出しの顎の正面で、大気が激しく振動するのを感じながら、俺は奴を限界まで引きつけた。
最後のコンマ一秒まで、じっと待つ。
距離が残り五十センチまで縮まった瞬間、俺は右手を掲げ、溜め込んでいた圧力を一気に解放した。
爆音とともに周囲の大気が内側へと収縮し、空白を埋めようと殺到する。
獣はその真空のポケットへと強引に吸い込まれ、奴自身の構造ごと内側から引き裂かれた。
――パキィン!
悍ましい破砕音が響き、獣は形を失った肉塊となって草地へと墜落した。
そして次の瞬間には空気中へと溶けて消え去り、後にはただ、黒く焦げた一握りの苔と、強烈なオゾンの臭いだけが残された。
俺はその場に立ち尽くしていた。
膝が細かく震え、無事な方の手で松の幹を支えなければ身体を保てなかった。
ゼノが杖を突きながら近づいてき、じっと俺の顔を覗き込んだ。
「感じるか?」
彼は静かに尋ねた。
彼が何を言わんとしているのかを察し、俺はすぐには言葉を返せなかった。
胸の奥が灼けるように熱く、肩は痛みの拍動を刻み、呼吸は未だに乱れたままだ。
「……感じる」
俺は息を吐き出した。
「それが生きているということだ、アイロン。お前の計算や設計図ではない。この、泥臭く、歪で、痛みに満ちたすべてがな」
彼は俺の全身に視線を向けながら、顎をしゃくった。
「あんたの励まし方は、いつもそんな風なのか?」
「生き残る見込みのある奴にだけな」
ゼノは肩をすくめた。
「それ以外の連中に言葉をかけても、何の意味もない」
「なら、俺は運が良かったと思うことにするよ」
「調子に乗るな。これはただの準備運動だ」
身体の節々の痛みを堪えながら、俺は彼の後ろを一歩踏み出した。
「それなら、賢い師匠のような口の利き方を始めるには、ずいぶんと奇妙なタイミングを選んだもんだな」
ゼノは振り返りもせず、鼻で笑った。
「たまには賢い師匠の気分を味わってもいいだろう。それに、お前の方こそ、ようやく生身の人間らしい思考を始めるには随分と奇妙なタイミングを選んだではないか」
俺は沈黙した。
「それと、忘れるな」
彼は言葉を継いだ。
「外の世界に出れば、お前の言う『実験』とやらに付き合ってくれる時間など、誰も与えてはくれんぞ」
「だからこそ、今ここで実験を重ねておく時間が必要なんだ」
「ふん、それはどうだかな」
老人はそう言い残し、森の奥へと足を進めた。
「行くぞ。この近くに灰色の針根草が自生している。肩の炎症くらいなら、あれで抑えられる」
一歩進むごとに肉体が悲鳴を上げるのを感じながら、俺は彼の背中を追った。




