第12話:マスターか、オペレーターか?
夜はまだ明けていなかった。俺は唐突な衝動で目を覚ました。
外からは――物音ひとつしない。叫び声もない。
筋肉に鋭い激痛があるわけでもなかった。ただ、異常なほどの胸騒ぎ(アラート)がしていた。
俺は床板に手のひらを押し当て、上体を起こした。木肌は冷たかった。
関節はきしみ、内側で摩擦音を立てながら、身体を伸ばせというコマンドに渋々従った。
『生きる意志』は起動状態だった。
だが、それはバックグラウンド(背景モード)で稼働していた。
俺は己の内面に耳を澄ませ、内部インベントリ(状況チェック)を実行する。
呼吸:正常。
脈拍:毎分六十五回。安静時の俺の基準値よりはやや高いが、安定している。
魔力:粘度が高く、活性化状態。回路をゆっくりと循環中。
それでも……根本的な何かが決定的に狂っていた。
俺は、溝に対して精密に削り出されすぎた部品になったような感覚を覚えていた。
遊び(クリアランス)がない。マージン(許容量)もない。
ただリラックスするという選択肢すら存在しなかった。
「お前が夜明け前に目を覚ますのは珍しいな」
ゼノが静かに言った。
俺はびくりと身体を震わせた。心の奥底では彼がそこにいると分かっていたはずなのに。
老人は部屋の隅、丸太の壁に背を預けて座っていた。その視線は窓の向こうのどこかへと向けられている。
「まだ、起動している」
己の膝を見つめながら、俺は言った。声がくぐもって響く。
「知っている」
彼は短く返した。
「だが……以前とは違う。これまでは、もっと減衰していた。なのに今は……」
ゼノはゆっくりと頷いた。
「おそらく、お前が初めてその力を必要以上に深く受け入れすぎたからだ」
俺は自分の両手を見た。微かな薄明かりの中で、指先が小さく震えているのが分かった。
これまではこんなことはなかった。スキルは単に「ノイズ(雑音)」を遮断してくれていたのだ。呼吸を整え、思考をクリアにするように。
「もし、これを無理に抑え込めば(サプレスすれば)……」
俺は言いかけて口を閉ざした。
言葉にするまでもなかった。俺たちは二人とも、そのルール(仕様)を理解していた。
もし今、力づくでこのスキルを強制終了させれば、俺はこの床から二度と立ち上がれなくなるかもしれない。
俺は目を閉じた。ただ……抗うのをやめようとした。流れを制御しない。
一秒間だけ、自分自身がただの「人間」であることを許容した。
体内の電流が跳ねた。
スキルが出力を最大まで引き上げようとするのを感知する。
筋肉を鋼のワイヤーで縛り上げ、脈拍を戦闘レートまで叩き上げ、視界をスタビライズ(固定)しようとする。
安全装置が脳内で絶叫していた。
『警告:致命的な損傷を検知! 防衛プロトコルを起動します!』
俺はそれを禁止(拒絶)しなかった。
ただ……特定のラインを超えさせないようにした。
いわば、リミッター(制限値)を設定したのだ。
肉体は即座に反応した。
それまで抑え込まれていた痛みが、結晶のように鮮明で鋭利なものへと変わる。
夜の冷気が皮膚の下へと侵入し、全身に鳥肌を立てた。
心臓の拍動が乱れる。胸の奥でパニックが燃え上がった。
【危険。アクティベーション(再起動)。】
俺は奥歯を噛み締めた。
「……俺は、死なない」
小屋の虚空に向かって、掠れた声で呟く。
『生きる意志』の足取りが、その半ばで停止した。
それは……ある種の奇妙な、中間ステータス(保留状態)のままフリーズした。
世界が一瞬で変貌した。
これまで慣れ親しんでいた、あの無菌室のような明晰さが消失する。
音は大きく、しかし混沌となった――壁の木々がきしむ音、ゼノの呼吸、床下のネズミの這い回る気配が押し寄せる。
嗅覚が鋭敏になる。古い埃、老人の吸うきつい煙草、脇腹の凝固した血の臭い。
息を吸うたびに肋骨一本一本の重量を感じ、全身の擦り傷がそれぞれ自己主張を始める。
俺は、恐怖していた。
俺は立ち上がりった。脚が震え、膝が笑う。
一歩。そして、もう一歩。
不確かに、よろめきながらの歩行。
「それだ」
ゼノが静かに言った。
「お前だ。本物の、な。何の飾り気もないお前自身だ」
俺は倒れないよう机の端を掴みながら、彼の方を向いた。
「……俺は弱くなった」
俺は事実を突きつけた。
「お前は、誠実になったのだ」
彼は立ち上がりながら返した。
「これでようやく、己の本当の価値を知ったわけだ」
前世の経験から言えば、「誠実さ(データへの正直さ)」など墓場への直行ルートだと反論したかった。
だが、言葉が喉に詰まった。
なぜなら、これほど脆くなっているにもかかわらず、俺は自分が……『完全』であると感じていたからだ。
数時間が経過した。
太陽が『黒松の森』の向こうから昇り始め、霧を淡い薔薇色に染める頃、俺はすでに机に向かっていた。
目の前には鎧がある。俺の「偉大なる業績」だ。
今のそれは惨めな姿を晒していた――歪み、腱は弾け飛び、メインの骨板には端から端まで深い亀裂が走っている。
最初から突貫工事で間違って組み立てられた、歪な骨格のようだった。
俺はギザギザに割れた破断面に、ゆっくりと指先を滑らせた。
ゼノが俺の傍らに、熱い水の入ったクマグを置いた。苦い根菜の匂いがした。
俺は破損した腱を静かに切り離し始めた。
振動が結合部を破壊するなら――必要なのは、結合部をさらに硬くすることではない。
振動に逃げ道を与えることだ。ダンパー(緩衝装置)を構築する。
肉体が急激な加速に耐えられないなら――装甲をより頑丈にするべきではない。
慣性が俺の骨に届く前に、それを吸収できるよう、より柔軟にしなければならない。
俺は新しい形状を切り出し、硬質な固定具をジョイント(可動軸構造)へと置き換えていった。
骨のプレートはもはや完全に密着して固定されてはいない――
衝撃を受けた際に位置をずらせるよう、複雑に編み込まれた構造の上で「浮いて」いるのだ。
(なぜ、そこまでやる?)
不意に、そんな問いが脳裏をかすめていった。
「まったく、たまにくだらない疑問が浮かぶな」
俺は自嘲気味に笑った。
その夜も、俺はまともに眠れなかった。
肉体は疼き、筋肉は疲労で痙攣し、思考は数式と恐怖の結び目に囚われていた。
俺はナイフを置き、組み直した胸当て(キュイラス)を観察した。
以前のものほど威圧感はないが、そこにはかつての俺が無視していた論理が宿っていた。
「……実戦でのパフォーマンス(挙動)を見せてもらおうか」
俺は目を閉じながら、自分自身にそう呟いた。




