第124話:再起動
迎賓館の二階にある部屋は、静寂に包まれていた。
ダーウィンはそこに、アイアンの殴り書きのスケッチを頼りに急造した、手製の加湿器を設置していた。
窓際の椅子には、老医師のアルバートが座っている。
彼の手には、細かくびっしりと書き込まれた手帳が握られていた。
「三日目、か」
彼は手帳から目を離し、独り言のように呟いた。
「脈拍五十二。体温三十五度四分。……アイアン。お前さんがようやく戻ってくる決心をした時、目の前に広がる光景を気に入るとは到底思えんよ」
カシアンの放った『重力の針』は、癒えない傷跡を残していた。
かつて職人街や穀物庫が立ち並んでいた場所には、浅いクレーターがぽっかりと口を開けている。
粉砕された石、砕け散った木材、そして破壊された家財道具で埋め尽くされた、ギザギザのすり鉢状の穴だ。
ウェイランド伯爵は、その窪みの縁に立っていた。
身につけているのは、石灰の粉で真っ白に汚れた簡素な革のダブレットだ。
「閣下」
完全に疲労困憊した様子のヴァルターが歩み寄る。
「揚水ポンプへの主要な進入路は確保しました。ですが、隣接する家屋の基礎がずれています。今すぐ補強しなければ、夜明けには水車小屋も崩壊するでしょう」
ウェイランドは瓦礫の山を見つめていた。
彼の親衛隊は生き残った領民たちと肩を並べて働いていたが、人手だけでは到底足りなかった。
「奴はどこだ?」
伯爵は周囲を見渡して尋ねた。
「ここだ」
背後から冷ややかな声が響く。
ノアが瓦礫の山の頂に立っていた。
肘まで袖を捲り上げた、質素な作業着姿だ。
「倉庫の中央の梁を持ち上げたい」
ウェイランドは瓦礫を指差した。
「あの下に水門へのアクセス機構が埋まっている。ダーウィン曰く、あれがなければ残りの区画への給水を復旧できないそうだ。ウインチと二十人の男手が必要な作業だが……あるいはお前一人で十分か」
ノアは、二枚の花崗岩の間に挟まれた、鉄で補強された巨大なオークの丸太に近づいた。
彼はその木材に指をかける。
空気を震わせるような、低く鈍い軋み音が響いた。
突如としてかかった凄まじい重圧により、ノアのブーツの下で石が砕け、泥にめり込んでいく。
短く鋭い呼気と共に、彼は丸太を一気に引き抜き、肩に担ぎ上げた。
「支柱を入れろ」
目を丸くし、口をぽかんと開けて立ち尽くす衛兵たちに向かって、ノアが言い放つ。
「これを永遠に持っている趣味はないぞ」
労働者たちが慌てて丸太の下に仮設の支柱を打ち込んでいると、瓦礫の上に突如として生温かい風が吹き抜けた。
「うるさすぎるわ」
エリリアの擦れるような声がした。
彼女は、持ち上げられた丸太の真上に実体化した。
今日の彼女は少し様子が違う。枯れ葉と脆い樹皮で編まれたドレスを纏い、その髪は乾いた根の塊のようだった。
彼女は、すぐそばにある崩れかけた家屋の基礎に両手を押し当てた。
「大地が怒っているわ」
彼女は悲しげに言った。
「もうこれ以上、この石たちを支えたくないって」
「なら説得してやれ」
ノアは丸太を担ぎ直しながら不満げに呟いた。
基礎の亀裂から、太く筋張った根が勢いよく飛び出した。
それらは互いに絡み合い、隙間を埋め、石積みを強固な生きた網目で縛り上げていく。
「これでいい?」
エリリアがノアを見下ろす。
割れた石のど真ん中に、可憐な淡いブルーのスノードロップが二輪、瞬時に花を開いた。
「救いようがないな」
ノアは設置されたばかりの支柱に丸太を下ろし、ズボンで手を拭った。
「全て建て直すぞ。ヴァルター!」
ウェイランドが号令を下す。
「大工たちを東の橋へ向かわせろ。それからダーウィンに伝えろ、手動でポンプを回そうとするのはやめろとな。ネジ山を潰すだけだ。ノアの手が空くのを待つように言え」
夜は唐突に訪れ、廃墟を青い薄闇の中へと葬り去った。
アイアンの工房の中だけは明るかった。ダーウィンが手の届く限りのランプを全て点灯させていたからだ。
彼は破れかけた図面の山に埋もれるようにして、作業台に背を丸めて座っていた。
腕は肘まで重油にまみれ、その顔には涙が伝っている。
「どうしてこんなにクソ難しくするんだよ、アイアン……」
彼は分配バルブの回路図を睨みつけながら囁いた。
「どうして普通の人間みたいに書けないんだ? 『エーテル抵抗のベクトルから蒸気圧の平方根を引く』……? 一体全体、どういう意味なんだよ!」
ダーウィンは水道に直結するメインの蒸気ボイラーを組み直そうとしていたが、アイアンの残した技術数式は、完全に狂人のうわ言にしか読めなかった。
工房のドアが軋み、冷たい空気の波と共にノアが入ってきた。
彼は無言で作業台に近づき、図面の一枚を手に取ると、上下をひっくり返した。
「逆さまに見てるぞ」
ノアが言った。
「それが何の違いになるってんだよ!」
ダーウィンは弾かれたように立ち上がり、ノギスを部屋の反対側へと投げつけた。
「あいつが倒れてもう三日だぞ! 村人たちの飲み水すらない。魔導院の奴らがいつまた襲ってくるかも分からない。なのに俺は……このちっぽけなバルブの仕組みすら理解できないんだ!」
ノアはダーウィンの肩に手を置いた。
「俺たちは、俺たちにできることをやってるさ」
「ウェイランドは半日かけて近隣の公国へ手紙を書いていた。『鉄の猪』を使ってハッタリをかますためにな。あの機械が今はただの鉄屑だってことを、誰よりもよく分かっているくせにだ。エリリアは壁が倒れないように地盤を固めてる。俺は石を運んでる」
ダーウィンは鼻をすすり、ゆっくりと元の席に座り直した。
ドルンハイムが少しずつ瓦礫の中から立ち上がろうとしている間にも、政治的な嵐は勢いを増していた。
ウェイランドはヴァルターと共に執務室にこもりきりだった。彼の机は、諜報報告書の山で埋め尽くされている。
「魔導院は激怒しています」
ヴァルターが報告する。
「しかし同時に、彼らは恐怖に慄いてもいます。首都では、閣下の指揮下に古代の悪魔と森の神がいるという噂が流れているようです。国王陛下は沈黙を保たれていますが、枢密院は調査を要求しています」
「要求させておけ」
ウェイランドは冷たいワイングラスをこめかみに押し当てた。
「ドルンハイムを王室の最重要保護区として宣言した。これで二週間の猶予は稼げる。もしその間に、アイアンがさらに恐ろしい何かを発明しなかったら……」
「お言葉を返すようですが」
ヴァルターが声を潜めて遮った。
「彼は『ポイントNo.1』についてすら、未だに真実を全て語ってはいません。あの男を無条件に信用すべきではないかと」
「その通りだ。だからこそ、もし奴がこのまま『ポイント』の真の性質を隠し続けるのであれば、我々は潔く魔導院と手を結ぶまでだ」
伯爵は窓の外、建設途中の家々の暗くギザギザとしたシルエットを見つめながら付け加えた。
「あの奇妙な存在たち……あれには気をつけろ、ヴァルター」
「ノアとエリリアのことですか?」
「そうだ。奴らがいつ何をしでかすか、分かったものではない」
真夜中が過ぎ去った。
アイアンの部屋では、アルバートが椅子に座ったまま居眠りをし、手帳がその指から床へ滑り落ちていた。
オイルランプが鈍く燃え、壁に長く歪んだ影を落としている。
医者と交代で見張りにやって来たダーウィンは、ベッドの脇の丸椅子に静かに座っていた。
彼は、午後ずっとかかって自分で削り出した小さな歯車を持ち込んでいた。
「これを見てくれよ」
彼は歯車をナイトテーブルに置き、囁いた。
「こんな酷い出来栄えの代物を見たら、お前は間違いなく俺をボロクソにけなすだろうな。だから……頼む。起きて、俺を怒鳴りつけてくれ。俺が才能ゼロの能無しだって、ヤスリを握らせる価値もないって、そう言ってくれよ。頼むから……」
(馬鹿な奴だ……)
その光景を少し離れた場所から見守りながら、ノアは心の中で毒づいた。
だが突如として、彼は動きを止めた。
彼の鋭敏な聴覚が、それまで緩慢で間延びしたリズムを刻んでいたアイアンの心臓が、一度大きく脈を打つのを捉えたのだ。
そして、鼓動が早まり始める。
四十……五十……七十。
右の義肢の奥深くで、何かがカチリと鳴った。
澄んだ、機械的なクリック音。
鋼鉄の手の人差し指がピクリと動き、シーツを引っ掻いた。
ダーウィンが息を呑む。
アルバートが弾かれたように目を覚まし、顔を上げた。
能力を限界まで酷使したことによる過酷な肉体的代償を支払い終え、強烈な『生きる意志』と共に、アイアンは深く重い息を吸い込んだ。
ようやく、深い淵から水面へと浮上してくる。
彼の胸が持ち上がり、一秒だけ、時が止まったかのように静止する。
瞼が微かに震える。
そして彼はゆっくりと、限界突破の証である灰白色へと染まったその目を、静かに開いた。




