第122話:鉄の猪
工房には焦げ臭い悪臭が充満していた。
俺はもう十九時間もここから出ていない。
小型ポンプのピストンの動きに合わせるように、こめかみがズキズキと脈打つ。
右肩は、焼け焦げた釘を打ち込まれたかのように熱く焼け付いていた。
「飲め」
ノアが短い言葉と共に、俺の前にマグカップを置いた。
「ダーウィンの奴、ただでさえ死ぬほど怯えてるんだ。お前が倒れでもしたら、あいつがどうなるか考えるだけでも恐ろしいよ」
「外の様子は?」
俺は一口すすりながら尋ねた。
ノアは図面の山で埋もれた作業台に寄りかかった。
「昨日、森であの負け犬どもからバッジを奪った後、少し長居してな。魔導院の魔術師どもってのは、随分と騒々しい生き物だ。奴らは今日動く。日没に合わせて、街の門で『浄化の儀式』を行うつもりらしい。手短に言えば、俺たちを焼き尽くす気だ」
「日没か」
俺は工房の狭い窓に目を向けた。残された時間は、せいぜい四時間といったところか。
「ダーウィン! 圧力計と、あの銅のコイルを持ってこい!」
「今行く、行くって!」
巨大な鉄の構造物の腹の下から、ダーウィンが這い出してきた。顔は重油で真っ黒に汚れ、髪は逆立っている。
「アイアン、ボイラーの絶縁が間に合わないぞ。もし魔術師が装甲に雷を撃ち込んできたら、俺たち中で丸茹でだ」
「アース(接地)を引く」
俺は図面を指で叩いた。
「周囲に銅のチェーンを這わせる。電荷はすべて地面へ逃げる」
俺たちが建造していた構造物は、およそ馬には似ても似つかないものだった。
それは、二層の鍛造鉄で覆われた、重々しくずんぐりとしたトラクターだ。
装甲の隙間には、砕いた麝香と雲母を詰め込ませた。この規模で用意できる最高の絶縁体だ。
俺はこれを『トロイの木馬』と名付けた。外見はただの無骨な鉄屑の塊だが、その内側にはサプライズが隠されているからだ。
突然、工房の中が明るくなった。
エリリアがトラクターの屋根に実体化し、軽い編みサンダルを履いた足をぶらつかせている。
「なんて不格好なの」
彼女は鼻に皺を寄せて言い放った。
「せめて側面に野生のブドウの蔓でも這わせましょうか? そうすれば生きた小山みたいに見えるわ」
「エリリア」
俺は残けの理性をかき集めながらため息をついた。
「もしお前のブドウが吸気口に巻き込まれたら、ボイラーが止まって、この『小山』ごと木っ端微塵に吹き飛ぶぞ」
「本当に退屈な連中ね」
ノアが気怠げに精霊へと視線を向けた。
「村の連中はお前を神様だと思ってるんだぜ、エリリア。手伝いたいなら、街道へ飛んで、奴らの先鋒が小川を越えたら教えてくれ」
エリリアは彼に向かって舌を出すと、俺の計算書の山をひっくり返し、突風と共に掻き消えた。
前世の記憶が脳裏をよぎる。
(エリリアはまるで小さな子供だ……アリアの方がまだマシだったな)
俺はそう思いながら、作業に戻った。
センターシャフトを組み付ける必要がある。
右手で固定ボルトを締めようとした瞬間、義肢が嫌な軋み音を立て、動かなくなった。
「クソッ……」
俺は歯を食いしばった。
「貸せ」
俺が毒づき終わる前に、ノアが傍らに立っていた。
彼は巨大なレンチを受け取ると、いとも簡単にボルトを限界まで締め上げた。
「助かる」
俺は額の汗を拭った。
「なあ、ノア。自分の役割は分かってるな? 俺たちが奴らの第一防壁を突破したら、ハッチを開ける。お前はカシアンと、指揮を執る魔術師たちを排除しろ。残りはドルンハイムの大砲が片付けてくれる」
「ああ、全部理解してるさ」
彼は答えた。
午後三時。工房はカオスと化していた。
ヴァルターが到着したのだ。
「閣下からの伝言です。異端審問官と魔術師の軍勢が1マイル先まで迫っています。戦闘陣形(方陣)を組んでいるとのこと。ウェイランド閣下は交渉で時間を稼ごうとされていますが、カシアンは馬車から降りようともしません。十分以内の無条件降伏を要求してきているそうです」
「ダーウィン、バーナーに点火しろ!」
俺はレンチを放り投げながら叫んだ。
「圧力が上がりきってない! 今動かしたら、ピストンが吹き飛ぶぞ!」
ダーウィンは計器の間を右往左往していた。
「動かせ!」
俺はトラクターの操縦席に乗り込んだ。
鉛の板で覆われた、息が詰まるほど狭い空間だ。
視界が歪む。
(今はダメだ)
そう念じながら、スキルを発動する。
目の前で圧力インジケーターが光っている。
3.2……3.8……4.1……
この巨体を動かすには、少なくとも5は必要だ。
バキィッ!
メインの蒸気管の一つが接合部で破裂した。
灼熱の蒸気がキャビン内に充満する。
外のどこかでダーウィンの悲鳴が聞こえた。
「間に合わないか……」
俺は掠れた声で呟き、意識が遠のいていくのを感じた。
その瞬間、エリリアがキャビンを覗き込んだ。
彼女は破裂した配管に両手を押し当てる。
火傷するぞ、と思ったが、金属の表面を瞬時に強靭で透明な樹液の層が覆い尽くし、亀裂を完全に塞いでしまった。
「付き合ってあげる。でも後で、私に噴水を造ってよね。本物の水が出るやつ!」
圧力計の針が5.5へと跳ね上がった。
「ハッチを閉鎖しろ!」
俺は号令をかけた。
トラクターが震えた。
重厚な歯車が、古いトラクターの記憶を頼りに設計した無限軌道を駆動させる。
俺たちはゆっくりと工房から転がり出て、ドルンハイムの中央広場へと姿を現した。
領民たちは、完全な沈黙の中で道を空けた。
街の門の前には、ウェイランド伯爵が立っていた。
「アイアン親方。その代物が、私の期待に応えてくれることを願うよ」
門が軋み音を立てて開け放たれた。
地平線には、密集陣形を組んだ魔術師たちの姿があった。
彼らの杖が青く光り、部隊の上にドーム状の結界を形成している。
カシアンは小高い場所に立ち、空に向けて銀の杖を掲げていた。
「儀式を始めたな」
後部区画からのノアの声は落ち着き払っていた。
「空が暗くなってきた」
俺は蒸気供給レバーを限界まで引き絞った。
魔術師の陣地へと続く長い橋を下りながら、俺たちは徐々に速度を上げていく。
鼻から血が流れるのを感じた。
『リュモン』の負荷で、脳が文字通り沸騰しそうだった。
視界が敵の魔法ドームの構造そのものにフォーカスし、脆弱な結節点を露わにする。
能力の限界まで力を振り絞った瞬間、周囲の世界が色褪せていった。
「アイアン、お前、体が震えてるぞ!」
石炭をくべるためにステップに残っていたダーウィンが絶叫した。
「止めろ、焼け死ぬぞ!」
「あと……少しだ……」
俺は声を振り絞った。
白い靄が視界を覆い尽くす。
『リュモン』は危険を知らせる警告音で張り裂けんばかりだった。
[認知機能の致命的過熱。直ちにシステムを強制終了することを推奨します]
その瞬間、魔術師たちの最初の一斉射撃が正面装甲に直撃した。
何か巨大な質量が、轟音と共に装甲の上で弾け散る。
「こいつの味はどうだ?」
俺は息を吐き出した。
トラクターは突撃の構えに入っていた。
魔導院の陣地まで、あと百メートル。
「ノア、準備しろ!」
俺は最後の力を振り絞ってレバーを握りしめ、叫んだ。
「いつでもいける」
ノアの冷ややかな声が届く。
「ドアを開けるのだけは忘れるなよ」
俺たちは全速力で敵の第一陣に突っ込んだ。
『鉄の猪』は魔導院の親衛隊の前列を泥濘へと踏み潰し、蒸気と煤の雲に包まれながら、陣営のど真ん中で停止した。
俺は圧力解放レバーを引いた。
轟音と共にサイドハッチが開き放たれる。
「降りろ」
俺は呟いた。




