第113話:隼(はやぶさ)の紋章
朝は、左手の指先に小さな火花を灯そうとすることから始まった。
結果は予想通り。――何も起きなかった。
今日は重要な日だ。
異端審問評議会――だか何だか知らないが、あの連中を騙し通せなければ、俺たちに未来はない。
奴らはすでに工房で待っていた。
ノアはいつものように壁際に立っている。
ダーウィンは神経質そうに設計図をいじくり回し、エリリアは……ただ宙に浮かんでいた。
「準備はいいか、雑……」
俺は彼女の鋭い視線に気づき、言葉を飲み込んだ。
「――準備はいいか、エリリア」
「いつでもいいよ、アイアン」
彼女は言った。
「でも忘れないで。あんたが引き金を引くのが早すぎたら、必要な魔力波動をまやかせない。そしたら、その『魔法のアーティファクト』はただの鉄屑になるからね」
「しくじりはしない」
俺はそう言って、作業台へと近づいた。
俺が『気圧式破壊者』と名付けた代物。
その実態は、高圧ボンベに接続された黒染め鋼鉄の分厚い筒だ。
内部にはバルブとピストンの複雑なシステム。
外側には、見せかけのためだけに施した無意味な銅管やレンズ、そして適当に刻んだルーン文字の山。
魔術師の目には、極めて高度な魔力凝縮器に見えるはずだ。
だが実際には、重い鉛弾を叩き出す、ただの超高威力な空気銃に過ぎない。
(幸い、俺はハッタリが得意だ。うまくいくはずだ)
そんな考えが脳裏をよぎる。
「ノア、お前の役目はあの評議会の連中を近づけさせないことだ。奴らが嗅ぎ回ろうとしたら、威圧感で押し潰せ」
「分かった」
ドルンハイムの石畳を叩く馬車の車輪の音が、「高貴な客」の到来を告げた。
俺は杖にすがりながら、庁舎の玄関へと出た。
最初に馬車から降りてきたのはヴァルターだった。
いつも通り、非の打ち所のないダブレットに、礼儀正しい微笑み。
だが、彼の後ろに続く男は異質だった。
異端審問評議会の導師、ヴィレム。
灰色の長いローブをまとった老人。
その目は奇妙な乳白色をしており、彼が俺を見た瞬間、皮膚の裏側が物理的にむず痒くなるのを感じた。
まるで、身体の芯まで見透かされているかのような感覚だ。
「アイアン親方」
ヴィレムが、軋むような声を出した。
「あなたの……『偉業』の噂は王都にまで届いている。評議会は、その力の本質に極めて強い関心を持っているのだ。もっと……威風堂々とした人物を想像していたのだがね」
「見かけ倒しほど無意味なものはありませんよ、導師」
息切れを悟られないようにしながら、俺は答えた。
「実験場へ移動しましょうか」
(早く終わらせたいな)
そう思った。
俺たちは南側の城壁へと向かった。
ヴァルターは少し後ろを歩き、俺の言葉を一言も聞き漏らすまいと耳を澄ませている。
ヴィレムは無言だったが、俺の魔力波動を「探ろう」としているのが肌で分かった。
だが、彼の探知は、完全に沈黙した見えない壁に跳ね返されることになる。
「そちらの連れは……随分と独特な気配を纏っているな」
ヴィレムがノアを盗み見ながら言った。
「気にしないでください、いつもああですから」
俺は言葉を遮った。
「着きましたよ」
城壁の上には、全身に騎士の甲冑を纏った標的が設置されていた。
幾度もの実戦に耐えてきた、重厚な鋼鉄。
俺の『デストラクター』は、三十歩ほど離れた場所に三脚で固定されている。
「これが、お前の武器か?」
ヴィレムは装置に近づき、銅管を凝視した。
「活性化した魔力核を感じられん。ただ……空気の中に奇妙な振動があるだけだ」
「ベクトル魔法に核は不要です」
俺はそれっぽい科学的な理屈を並べ立て始めた。
「このシステムは、エントロピーの電位差と、連続体の運動学的圧縮によって作動しています。核を感じられないのは当然です。なぜなら、拡張のプロセスそのものが核だからです」
ヴィレムは眉をひそめた。明らかに半分も理解していない。
「実演して見せろ」
彼は不機嫌そうに呟いた。
俺は装置に近づいた。
両手は震えていたが、無理やりそれを押さえつける。
「エリリア」
蚊の鳴くような声で囁く。
砲身の内部で、淡い緑色の光が灯った。
俺は発射レバーを握る。
「第五高調波」
ハッタリを利かせるために、大声で宣言した。
「――圧縮!」
レバーを押し下げる。
――ドンッ!
圧縮空気の凄まじい爆音にヴァルターは肩を跳ね上がらせ、城壁の哨兵たちは思わず武器に手をかけた。
その瞬間、エリリアが強烈な魔力の波動を放出し、鮮烈なエメラルドの閃光が周囲を盲目にする。
限界まで加速された重い鉛弾が、標的の胸当てのど真ん中に命中した。
鋼鉄が裂ける。
甲冑は粉々に吹き飛び、標的そのものは五メートルも後方へと弾き飛ばされ、藁と金属の無残な肉塊へと成り果てた。
ヴィレムが鎧の残骸に近づいた。その顔は青ざめている。
引き裂かれた金属の鋭い断面に、彼はそっと触れた。
正式に俺の方を振り向いた。
――これこそ、俺の狙い通りだ。
「評議会は、この設計図を精査したがるだろうな」
「設計図は俺の頭の中です」
俺は自分のこめかみを指で叩いた。
「そして、ドルンハイムが『庇護下の自由都市』であり続ける限り、それはここから出ることはありません。伯爵に完成品を納品する用意はありますが、技術は俺の個人資産だ。発展させるための資源も要求します」
それまで沈黙を守っていたヴァルターが、一歩前に出た。
「ウェイランド伯爵閣下は、あなたのその……大いなる野心を予見しておられましたよ、アイアン親方」
彼は上着から、重厚な封蝋が施された手紙を取り出した。
そこには、例の隼の紋章が刻まれている。
「閣下はあなたをウェイランド城へと招待しております。直々に、だ。長期的な契約と、この……『装置』の供給量について話し合いたいとのことです」
手紙を受け取る。触れた紙面は冷たかった。
「もし、断ったら?」
ヴァルターは薄く笑った。
「これほど熱心に手を差し伸べてくれた御方の『友情』を、無下にする理由がどこにあります?」
(予想通りだな)
俺は心の中で呟いた。
「三日だ」
手紙をポケットに突っ込み、俺は言った。
「試作品の準備と、自分の身体を整えるために三日もらう」
「三日後のこの時間、迎えの馬車を寄越しましょう」
ヴァルターが一礼する。
客たちの馬車が門の向こうへ消えた瞬間、膝の力が抜けるのを感じた。
ノアがすかさず俺の肘を掴み、作業員たちの前で無様に倒れるのを防いでくれた。
「大した演技力だ」
ノアが低く言った。
「だが分かってるな? 城に入れば、奴らはただ見てるだけじゃ済まさないぞ」
「分かっている」
額の冷や汗を拭いながら、俺は応じた。
「エリリア、そっちはどうだ?」
精霊が隣に姿を現した。その光はひどく淀んでいる。
「死ぬほど疲れたわ。ただの鉄の塊に魔力フィールドを偽装するなんて、石ころを歌わせようとするようなものよ。城でどうするつもり、アイアン? あそこには何千もの目があるのよ」
「まだ考えていない。いざとなったら、その場のハッタリ(アドリブ)が俺たちを救うさ」
近くに立っていたダーウィンに振り返る。
「ダーウィン、必要な資材のリストを作れ。できる限り長くしろ。俺たちが一年間、完全に自給自足で生き延びるために必要なものを、すべて詰め込むんだ」




