第112話:力の力学
視界が、まだぐにゃりと歪んでいた。
「目の前をうろちょろするな、雑草……」
俺は声を枯らして吐き捨てた。
「ただでさえ、何も見えやしないんだ」
光を遮っていた影が、微かに揺れる。
エリリアがベッドの端に腰掛けた。
「目が覚めたのね」
彼女が息を漏らす。
その声には、明らかな安堵が混じっていた。
「アイアン。あんた、丸一ヶ月も眠り続けてたのよ」
「……分かっている。起こしてくれ」
情けない声だった。
右手に体重をかけようとする。
だが、義手は短く、乾いたクリック音を響かせただけだった。
機能していない。ただの重い鉄塊だ。
まともなはずの左手さえ、耐えがたいほどに激しく震え、言うことを聞かなかった。
精霊の魔力に支えられ、黒い大木の重い杖にすがりつきながら、俺は窓際まで這うように移動した。
外の景色を見下ろした瞬間、俺は凍りついた。
ドルンハイムは繁栄していた。
いくつかの家が立ち並び、活気に溢れている。
そしてそれは――吐き気がするほど、最悪な光景だった。
かつて傾き、絶えず焦げ臭い匂いを放っていた粗末な小屋は消え去っていた。
そこには、美しく整えられた石造りの倉庫が整然と並んでいる。
泥まみれだった通りは、塵一つなく掃き清められていた。
規則正しい足音を響かせ、パトロールが堂々と行進していく。
四人の傭兵。
上質な革のダブレットに、磨き上げられた胸当て。
「あの紋章……」
胸に刻まれていたのは――金地に、黒い隼。
その忌々しい印は、至る所にあった。
翻る旗。
新築された塔。
掲示板。
門の脇に積み下ろされている穀物の袋にまで。
「……何だこれは」
俺の声は、かすれた囁きになった。
「何なんだ、エリリア。ここは本当に、俺の村なのか?」
ノアが入り口に立っていた。
ドアの枠に寄りかかり、腕を組んでいる。
ひどく消耗し、目の下には黒い隈が落ちていた。
その背後には、ダーウィンが影のように控えている。
俺の「村長」は、今や高価な上着を身に纏っていた。
その手には、羊皮紙の束が固く握られている。
「誰が許可した?」
俺は杖で床を激しく叩きつけた。
「あの成金野郎のボロ切れを掲げるために、俺は戦ったんじゃない!」
俺はダーウィンを睨みつけた。
「ダーウィン! お前の仕業か?」
「はい、私です、親方」
彼の声は平坦で、罪悪感の欠片もなかった。
俺が言葉を吐き出そうとした瞬間、彼はそれを遮った。
「親方は意識不明でした。私たちには、誇りを選ぶ余裕などなかった。残されていたのは、私たちの死か、彼らの生か、そのどちらかだったのです」
「森へ逃げることもできたはずだ!」
掠れた喉を引き裂くように、俺は吐き捨てた。
「どこへだ?」
ドア際にいるノアは、微動だにしない。
「何十人もの負傷者や、子供たちを連れてか? そんな真似をすれば、最初の1週間で全員惨殺されて終わりだ」
「それで、奴を俺の陣地に引き入れたのか」
「勘違いするな、アイアン」
ノアが低く応じた。
「俺たちは民を救ったんだ。それが一番重要なことだろ? 最初から一緒に血を流してきた仲間は……全員生きている。腹一杯食えている」
「ああ、全部ウェイランドの金のおかげだ。だがな、お前の功績を忘れた奴なんてここには一人もいない。お前に背を向ける奴なんて、絶対にいないさ」
『彼らの盾となれ』
脳裏に、かつてのゼノの言葉が突如として鮮烈に蘇った。
己のエゴのために全員を破滅に導く剣ではなく、守るための盾に。
「くそっ……」
俺は深く息を吐き出し、丸椅子に重く腰を下ろした。
一瞬で頭が冷えていく。
「すまない。……俺は、自分たちが何のためにこれを始めたのかを、一瞬見失っていたようだ」
「三日後、帝国の査察団が来る。大砲がお目当てだ」
ノアが静寂を破った。
「三日だ、アイアン。何か手を考えろ。あの隼の完全な奴隷に成り下がらないための方法をな」
部屋に、重苦しくも張り詰めた、作業のための沈黙が降りた。
俺は顔を上げた。
視線の先には、村長の手にある書類。
「ダーウィン、それを持ってこい。条約の条件、すべての文言、すべての義務を俺に把握させろ」
村長は短く頷いた。
「ノア」
俺は友に向き直った。
「この『繁栄』の裏側が必要だ。新しい秩序や、配給、報酬に不満を抱いている奴を炙り出せ。作業員の中に、俺たちの手足となる人間が必要だ」
「心得た」
「それから、エリリア……」
俺は静かになった精霊を見た。
「お前は、余計な手出しをするな」
「ちょっと! ひどいじゃない!」
彼女は憤慨して口を尖らせた。
「分かった、分かった。本当の任務をやる。伯爵の将校や、通りにいる平民どもが何を囁き合っているか盗み聞きしろ。どんな些細な言葉も、噂も、不満もだ。奴らの秘密が必要だ」
彼女は真剣な表情で頷くと、一瞬で虚空へと溶けるように消えた。
俺は傷む身体を引きずり、這うようにして作業台へと向かった。
一ヶ月の間に積もったおがくずの塵を、古い設計図から手荒に払いのける。
左手の指が、確実に羽ペンを捉えた。
脳内でリュモンを呼び出し、目の前に真っ白な、新しい羊皮紙を引き寄せた。
時間は、動き始めた。




