第111話:焼け焦げた弦
虚無の中に、音はなかった。
ただ、脳裏の視界を無限のログが流れ落ちていく。
『警告。「リュモン」の深層再構築フェーズが完了しました』
『宿主のステータス:安定。生体組織の生存率:98%』
『魔力伝導率の解析:第1、第2、第3高調波経路の壊滅的崩壊。伝導率:0.04%』
アイアンは、己の身体を三次元のグリッドとして「視て」いた。
かつて黄金のエネルギーが脈打っていた場所には、今や黒々とした虚無が広がっている。
『魔力回路の修復時間を算出中……残り180日』
それから三十日。
村は、まるで帝国規模の巨大建設現場へと変貌を遂げていた。
焼け焦げた小屋の残骸は消え失せ、頑丈な基礎を持つ石造りの家々が並ぶ。
ウェイランド伯爵の作業員たちによって築かれた、切り出された御影石の城壁が、集落を強固に取り囲んでいた。
だが、すべての塔にはドルンハイムの旗と並んで、伯爵の軍旗が翻っている。
――金地に描かれた、黒い隼の紋章。
ノアは南側の城壁に立ち、冷たい石に身を預けていた。
目の下に深い隈を刻んだ彼の瞳は、門へと入っていく新たな車列をじっと見つめている。
穀物を積んだ荷車が五台、工具を積んだものが二台。
「また、借金の計算?」
背後から静かな声がした。
エリリアが、彼の隣の胸壁にふわりと降り立つ。
「……そんなところだ。伯爵のこの親切には、裏がある」
ノアは低く、くぐもった声で応じた。
「人間どもは、いい生活に慣れ始めていやがる。ダーウィンの奴、昨日は伯爵の将校から貰ったとかいう新しいマスケット銃を自慢してやがった。他の奴らも、毎日肉を食い、贅沢をし、満足そうに暮らしてる。見ていて虫酸が走る」
「ダーウィンは馬鹿じゃないわ」
エリリアは額にかかる乱れた髪を払いながら言った。
「でも、大筋ではあんたの言う通りよ。反論の余地もないわね」
ノアは自分の首筋をがしがしと擦った。
「あいつの小言が恋しいぜ。説教されてる時の方が、まだずっとマシだった」
「そうね……」
エリリアがため息をつく。
眼下の広場では、不穏な空気が漂い始めていた。
伯爵の使者であるヴァルター――鋭い顔つきをした痩せ型の男が、後ろ手に組んでダーウィンとクララの前に立っていた。
「大変心苦しいのですが、我が主、ウェイランド伯爵閣下はひどく懸念されております。すでに一ヶ月が経ち、ドルンハイムは繁栄している。それにもかかわらず、アイアン親方は未だに我々の前に姿を現さない」
「アイアン親方は現在、危険な実験の最終段階にあります」
ダーウィンは声を震わせまいと必死に堪えながら、その言葉を遮った。
「今、下手に干渉すれば……村全体を巻き込む大爆発を引き起こしかねません」
ヴァルターは目を細めた。
彼の視線は新しい城壁、傭兵たちのマスケット銃を舐めるように巡り、最後にダーウィンへと戻る。
「爆発というのは、実に遺憾なことですな。しかし、閣下は『交易同盟』の成果を求めておられる。三日後、あなた方の……例の『大砲』を評価するための査察団が到着します。そこには、アイアン親方も同席してもらわねば困る。これが、穀物の供給を続けるための条件です」
ヴァルターが立ち去ると、ダーウィンはクララに向き直った。
「……信じてもらえたとは思えないな」
「誰だって信じないわよ」
クララが拳を握りしめる。
「あたしたち自身の力で生産を始めなきゃ。もし火薬さえ自分たちで作れないままだとしたら……」
「必要なのは、あいつが目を覚ますことだ」
ダーウィンが彼女の言葉を遮った。
工房の中はひんやりとしていた。
この一ヶ月間、時に警戒の赤、時に熱病のようなウルトラマリンへと激しく明滅していたアイアンの内部のリュモンが、ようやく静かな青い光へと落ち着いていた。
エリリアはベッドの端に腰掛け、盆の水を替えていた。
彼の肌に触れる。――温かかった。
その瞬間、アイアンが急にカッと目を見開いた。
エリリアはびくりと身体を震わせ、手にしていた布を落とした。
「アイアン……?」
彼の視線は定まっていたが、どこか……虚ろだった。
アイアンはゆっくりと右手を持ち上げた。
義手はいつもの静かな駆動音で応える。
彼は二メートルほど離れたサイドテーブルに置かれた、水の入ったコップを見つめた。
(ベクトルの変位。局所重力。15度のズレ)
いつも通り、脳内で命令を下す。
――何も起きない。
アイアンはもう一度試みた。
だが、結果は同じだった。
視界の隅で、リュモンが恭しくログを表示する。
『魔力出力機能がロックされています。解除までの時間:180日』
「アイアン、わたしの声が聞こえる?」
エリリアの声が、希望に震えた。
彼はゆっくりと彼女の方へ顔を向けた。
「……聞こえる」
声はひどく掠れていた。
彼は肘をついて上体を起こそうとしたが、筋肉が自分の体重を支えるだけで悲鳴を上げるのを感じた。
外からは、街の喧騒が聞こえてくる。
ハンマーの叩く音、作業員たちの怒号、馬のいななき。
「ここは……ドルンハイムじゃないな」
その音に耳を澄ませながら、彼は言った。
「騒がしすぎる」
「ドルンハイムよ」
精霊は、悲しげに微笑んだ。
アイアンはベッドの上に腰掛けた。
壁の向こうからは、伯爵の作業員たちが門の補強について議論している声が漏れ聞こえてくる。
「俺たちの人間は……何人残っている?」
自分の両手を見つめながら、彼は尋ねた。
「最初から一緒にいたのは、十五人。そして、伯爵が送り込んできた人間が五百人よ」
エリリアが答えた。
アイアンは深く頷いた。
「ノアを呼んでくれ」
アイアンは言った。
「それと、ダーウィンに倉庫の報告書を用意させろ」




