第110話:風の名
ドルンハイムの上空で、風はもう唸りを上げていなかった。
砲声は止み、死にゆく者たちの叫びも消えた。
ただ、灰の山から立ち上る刺激的で粘りつくような煙が、低地から這い寄る霧と混じり合っているだけだ。
鍛冶場の中は、もはや野戦病院と化し、その空気はひどくよどんでいた。
アイアンは、清潔な布を敷いた広い作業台の上に横たわっている。
顔色は蒼白く、時折、首筋の血管を微かな火花が走っていた。
「まだ冷たいの」
精霊がその胸の上を浮遊しながら、小さく囁いた。
彼女の小さな掌が、アイアンの額に触れる。
「人間にしては、冷たすぎる」
ノアは窓際に立ち、戦いで折れた剣を研いでいた。
「アイアンは、自分を使い果たしたんだ。底の底までな」
精霊はアイアンの肩に舞い降り、その首に腕を回した。まるで、自分の僅かな温もりを分け与えようとするかのように。
「わたしは、彼を森には渡さない。人間たちにも渡さないわ」
生き残った者たちは、鍛冶場前の広場に集められていた。
彼らはバリケードの残骸の上に座り込み、虚空を見つめている。
ノアが玄関に姿を現すと、皆の視線が一斉に彼へと向けられた。
「アイアンは眠っている」
ノアは短く告げた。
「生きているのか?」
ダーウィンが声を震わせながら尋ねる。
「生きている。だが、ここで座ってゴミの山の中で彼が目を覚ますのを待っていても、感謝なんてされないぞ。立て」
村人たちは、重い腰を上げた。
「クララ」
ノアがその女性を指名する。
「鍋を扱える奴を集めろ。倉庫にはアイアンが配分した穀物が残っている。全員分の粥を作れ。力が必要なんだ。男たちは俺についてこい。門の瓦礫を撤去し、死んだ馬を片付ける。疫病が回る前にやるぞ」
「だが……軍隊はどうする?」
群衆の中から誰かが問いかけた。
「奴らは戻ってくるのか?」
「俺がいる限り、戻ってこない」
ノアが言い切った。
その瞬間、精霊が彼の頭上に飛び上がり、きらめく光の粉を撒き散らす。
「わたしもいるよ!」
彼女が鈴を鳴らすような声で叫ぶ。
その響きに、人々は皆、僅かに笑みを浮かべた。
「森があたしたちの境界を見張るからね。どんなスパイも、あたしの茂みを通り抜けさせない!」
続く数時間は、過酷な肉体労働となった。
生き残った村人たちは、ノアや精霊と共に瓦礫を片付けていった。
ノアは最も重い仕事を引き受けた。四人がかりで運ぶはずの丸太を一人で持ち上げ、百キロもある巨石を放り投げていく。
村人たちは呆気にとられながらも、彼に遅れまいと黙々と作業を続けた。
精霊は彼らの間を飛び回り、黒焦げになった切り株から新鮮な芽を吹かせ、急ごしらえの柵を補強していく。
彼女が静かで不思議な歌を口ずさむと、村の空気は浄化され、焦げ臭い匂いは、松葉と湿った土の芳香へと塗り替えられていった。
正午過ぎ。
道の向こうから、一人の騎手が現れた。
ゆっくりと歩を進めるその馬は、高く白旗を掲げている。
その後ろには、二頭の雄牛に引かれた重い荷車が続いていた。
ノアが瞬時に門の前へ飛び出し、進路を塞ぐ。
半分に折れた剣だが、太陽の光を浴びて脅威的に煌めいている。
「そこまでだ」
彼が唸る。
老齢の使者は、豪華だが埃まみれの衣服を纏っており、恐怖に引きつりながら手綱を引いた。
「平和を! 良き村人たちよ! 私はウェイランド伯爵閣下より派遣された使者である!」
「伯爵の元へ帰れ」
ノアが一歩前に踏み出す。瞳孔が針のように細くなる。
「待ってくれ!」
使者が両手を振り回す。
「閣下は、先ほどの『痛ましい誤解』を深く悔やんでおられる! 閣下はドルンハイムの主権を認め、そして……被害者への支援を望んでおられるのだ! この荷車には選りすぐりの穀物、薬、そして清潔な布がある。これは贈り物だ。一切の条件はない!」
ノアの後ろにいた村人たちが、ざわめき始める。
精霊がノアの肩に降り立った。
「嘘よ」
彼女が耳元で囁く。
「この男の言葉は、花で飾った腐った沼の匂いがする。でも……穀物は本物。この穀物の中に、太陽の輝きを感じるわ」
ノアは長らく使者を見つめ、地面に唾を吐いた。
「荷車を置いて消えろ」
「もちろんだとも、もちろんだとも……」
使者は慌てふためきながら馬から飛び降り、震える手で荷車を切り離すと、一目散にその場から立ち去っていった。
夜が静かにドルンハイムを包む。
温かい粥を腹に入れた生き残りたちは、焚き火のそばに寄り添い、そのまま眠りについていた。
ノアはアイアンの鍛冶場の屋根に座り、星空を見上げていた。
その隣には、精霊が屋根瓦にちょこんと座っている。
「ねえ、あたしはこの森に長らくいすぎたわ。……正直に言うとね、ものすごく退屈だったの」
彼女は首を反らし、笑い声を上げた。
「毎日が同じことの繰り返し。木は育ち、獣は食い合い、太陽は昇って沈む。森は変化のない終わりのないサイクル。あたしはバランスを守る義務があって、葉っぱの一枚まで見張らなきゃいけなくて……退屈で死ぬかと思ったわ! でも、彼を見た。右手に変な鉄の塊をつけている、あの男をね」
「彼は破壊者だ」
ノアが指摘する。
「ううん」
彼女は反論する。
「彼は新しい何かを創る人よ。あたしの性格をうざったがらない、初めての人間だわ。他の精霊たちは、あたしを騒がしすぎると言って嫌った。でも、彼はあたしを、あたしのまま受け入れてくれる」
ノアが彼女に顔を向ける。
「ところで、名前は何て言うんだ? いつも『ちび』と呼んでたが、名前があるんだろう?」
「エリリアよ。あたしの名前は、エリリア」
ノアはその名を口の中で反芻した。
「エリリア……美しい名だ。よく似合っている」
「ありがとう、ノア。あんたも……そんなに悪い奴じゃないわね」
二人はそのまま、夜が明けるまで語り明かした。
エリリアは何度か鍛冶場の中へと飛んでいった。
アイアンの胸に降り立ち、その鼓動に耳を澄ませる。
心音はゆっくりで、重苦しい。だが、確かに力強く打っていた。
「彼が戻ってくる」
彼女はそう囁くと、再び屋根の上のノアのもとへと戻った。
「エネルギーが安定し始めているわ。でも、いつ目を覚ますかは……まだ分からない」




