第109話:法則の独裁
ウェイランド伯爵の城は、ドルンハイムから何百マイルも離れた場所にあった。
伯爵は、異国の獣の毛皮が張られた重厚な椅子に腰を下ろしていた。
彼の目の前では、彫刻が施された台座の上に水晶球が浮かび、乳白色の濃い霧を湛えている。その霧の中心に、別世界への窓を開くように、ドルンハイムの様子が映し出されていた。
指輪で飾られた彼の細い指が、肘掛けをトントンと叩く。
「……素晴らしい」
彼は虚空に向かって呟いた。
「あの飛翔体の軌道を見たか。魔法の痕跡も、術式の編み込みも一切ない。あの男は……」
彼の傍ら、影の中から長い紫色のローブを着た男が歩み出た。
鋼鉄の仮面がその顔を隠し、声はひどく無機質で平坦だった。
「閣下、第一波は単なる小手調べに過ぎません。歩兵などただのゴミです。次は、私の部下たちが全てを終わらせましょう。物質に『沈黙の印』を刻み込みます」
伯爵は、ほんのわずかに眉を動かしただけだった。
「好きにしろ。だが忘れるな、あの村は無傷で手に入れたい」
――その瞬間。
村の空気が、突如として粘り気を帯びた。
俺はそれを肌で感じ取っていた。
地平線の彼方、退却していく歩兵の列の向こう側に、紫色の光が次々と灯り始める。
「アイアン!」
防柵から飛び降りながら、ノアが叫んだ。
「何かがおかしい!」
彼の言う通りだった。
つい一分前まで恐るべき兵器だった俺たちの大砲が、ただの無用の長物と化していた。
砲兵が中央の砲を撃とうとしたが、薬室の火薬が全く引火しない。マスケット銃の機関部も完全に沈黙していた。
「……抑圧だ」
剣の柄を握りしめ、俺は呻いた。
「奴ら、局地的な物理定数を書き換えやがった」
俺の脳内で、リュモンが真っ赤な警告を明滅させる。
『警告! 外部からのエントロピー抑制フィールドを検知。機械設備の有効性:0.04%。推奨される……エラー……エラー……』
俺はリュモンをシャットダウンした。今のこいつは足手まといだ。
自分の両手を見つめる。俺の内部マナ・リザーバーは、99.8%まで充填されていた。
今すぐこれを解放しなければ、俺たちは全員ここで死ぬ。
「下がれ」
俺はノアと精霊に言った。
「アイアン、ダメだよ……!」
精霊が飛んできた。その目は恐怖に見開かれている。
「焼け焦げちゃう! あんたの魔力回路じゃ、そんな激流には耐えられない!」
「第二防衛線の後ろまで下がれ。早くしろ!」
俺はほとんど咆哮するように命じた。
そして、破壊された門の隙間へと足を踏み出した。
目の前には死体が散乱する平原が広がり、遠く、槍の森のさらに奥には、紫色のローブを纏った者たちの姿が見えた。
一歩目。
俺は己のマナを解放し、目の前の空間構造そのものへと流し込んだ。
「――重力変位」
俺は囁いた。
半径二百メートルの範囲で、自由落下加速度が書き換わる。
突撃してくる騎士たちの足元の重力定数が、一瞬にして通常の百倍へと跳ね上がった。
加速し始めたばかりだった五百の重装騎兵たちが、地面に叩きつけられる。
装甲がひしゃげ、その下の骨と肉が粉砕される。馬たちは地に倒れ伏し、形のない肉の塊へと変わった。後方にいた者たちは、指一本動かすことすらできずに硬直していた。
魔術師たちがパニックに陥る。
奴らが慌てふためきながらマナの奔流を編み上げ、防御結界を展開しようとするのが見えた。
二歩目。
俺の身体が燃え始めた。
首や顔の皮膚が細かくひび割れ、そこから純白の光が漏れ出していくのを感じた。
「――運動減衰」
魔術師たちに向けて、手を突き出す。
村の前に広がる広大な扇状の領域で、すべてが停止した。
弓兵が放った矢が、空中で静止する。風が止む。
そして……敵の肺の中にある空気の分子さえもが、動きを止めた。
その領域の温度は、瞬時に絶対零度に近い数値まで急落した。
奴らの結界は粉々に砕け散った。
魔術師たちは数秒で霜に覆われ、氷の彫像へと変わっていく。
「アイアン、やめろ!」
ノアの叫び声が、まるで水の中から聞こえてくるようにくぐもって聞こえた。
だが、止まることはできなかった。
解放されたマナの奔流は、あまりにも巨大すぎたのだ。ここで全てを放出しきらなければ、俺自身が爆発し、ドルンハイムを地図から消し飛ばしてしまう。
三歩目。
純白の光が、俺の視界を完全に埋め尽くした。
もう顔は見えない。敵の姿も見えなかった。
見えるのは、ベクトルと、力の流れと、原子間の脆い結合だけだ。
「――分子結合崩壊」
歩兵たちの鋼の剣が、灰色の塵と化す。
槍の柄がおがくずのように崩れ落ちる。
鎧は赤錆の腐敗となって散り散りになった。
ウェイランド伯爵の軍勢は、完全なる恐慌の中で凍りついていた。
――その頃。
ウェイランド伯爵は椅子から跳ね起きていた。
彼の水晶球は激しく振動し、ひび割れが走り始めている。
「信じられん……」
彼は囁いた。
「あれは真理そのものを支配する力だ! なんて素晴らしい!」
傍らに立っていた魔術師は、頭を抱えて膝から崩れ落ちていた。
「私の部下たちが……全員死んだ。あの……野郎、私がこの手で殺してやる」
ウェイランドは素早く冷静さを取り戻した。
「やめろ!」
伯爵が怒鳴る。
「直ちに生き残った全軍へ命令を出せ! 退却の角笛を鳴らさせろ!」
「しかし閣下、予備兵力を投入すれば……」
「この馬鹿者が!」
ウェイランドは魔術師の襟首を掴み上げた。
「今あいつを殺せば、我々は永遠にあの新技術を手に入れられなくなる! あの男は生け捕りにしろ。奴の知識が必要なのだ。あの村を、我が領地の交易の中心地に変えてやる」
「それに……奴らは試練を乗り越えた。おそらく、私と同じなのだろう」
伯爵は静かに付け加えた。
ドルンハイムの前の平原には、死の静寂が垂れ込めていた。
敵の退却を告げる角笛が響き渡る。
残存兵たちはパニックに陥り、軍旗も、わずかに残った武器も投げ捨てて、森へと逃げ込んでいった。
俺は、黒焦げになった円の中心に立っていた。
義手からは青白い火花が吹き出している。
皮膚は真っ赤に腫れ上がり、ところどころ熱傷で黒焦げになっていた。息を吸い込もうとしたが、炎が肺を焼くような痛みが走る。
「アイアン!」
精霊の声だった。
頭が石に叩きつけられるほんの一瞬前、誰かが俺を受け止めるのを感じた。
「支えて! ノア、早く!」
パニック状態の精霊が叫ぶ。彼女の小さな手のひらがエメラルドの光を放ち、必死に俺の傷を塞ごうとしていた。
ノアが傍らに膝をつき、俺の頭を抱え込んだ。彼の顔は返り血に塗れていた。
「息をしろ、息を!」
彼は吠えながら、俺の脈を探り当てようとする。
「奴らは逃げた! 聞こえるか? 退却していくぞ!」
何かを言おうとしたが、喉からは掠れた音しか漏れなかった。
最後に覚えているのは、ノアが俺を強く抱き寄せ、精霊が冷えゆく俺の体を温めようとその魔力で包み込んでくれたことだった。
一時間後、戦場には誰もいなくなった。
ただ風だけが、死体の山と灰色の塵の山の間を吹き抜けていく。
ウェイランドの城では、伯爵がゆっくりと椅子に座り直していた。
彼はひび割れた水晶球をじっと見つめている。その中で、ドルンハイムは徐々に静寂を取り戻しつつあった。
「面白い村だ……」
彼は独り言のように囁いた。
「実に興味深い。奴らを監視しろ。奴らの 一番の親友 になれ。あの男について、全てを知りたい」




