第102話:スキルの進化
周囲に目を向けぬよう、ただ機械的に足を前に進め、すでに数時間が経過していた。
その間、エリリアはまるで散歩にでも出ているかのように気楽だった。
俺の髪を鳥の巣のようにして収まり、どこか気の抜けた、他愛のないメロディを熱心に口ずさんでいる。
時折、彼女のかかとが俺の額を小突いた。
森の静寂が、俺の思考を本質的な問いへと引き戻していく。
この世界に初めて現れた時のことを思い出す。
工学の知識こそ完璧に備わっていたが、俺は決して物理学の天才などではなかった。
ましてや、物理法則そのものを根底から操作する方法など、理解しているはずもなかった。
だが、すべては、まるで俺が最初からその扱い方を知っていたかのように機能していた。
前世では、ただそれを使う機会がなかっただけ――そんな風に。
だが、一体どこからそんな知識が?
元の世界に、魔法など存在しなかった。
俺はただの技術者だったのだ。
「……お前は、どこから来たんだ?」
思わず、そう呟いていた。
頭の上の精霊が、一瞬だけ歌を止めて静かになった。
上から俺の顔を覗き込み、疑わしげに目を細める。
「私に話しかけてるの、鉄の男?」
「違う」
俺はにべもなく遮った。
【ユーザーからの直接の要求を検出。同期率:42%。ニューラルネットワーク状態:安定】
驚きで、わずかに瞳孔が開く。
一体、何が起きている?
(お前は、誰だ?)
状況を把握しようと、脳内で問いかける。
【私は、あなたの固有スキル『生の意志』です】
答えを咀嚼しながら、一瞬、足を止める。
(普通に会話ができるのか?)
【私は、一般的な意味での『話す』ことも『考える』こともしません】
即座に脳内へ声が返ってきた。
【私はデータを解釈し、あなたに理解できる形式で出力しているに過ぎません。以前は統合レベルが低く、あなたの脳が双方向の交信を受け入れる状態にありませんでした】
「ちょっと、鉄の男、行きましょうよ!」
耳元でエリリアの鈴を転がすような声が響いた。
「何をボーッと突っ立ってるの?」
彼女を無視し、目の前に並ぶシステムテキストを読み進める。
「ちょっとってば!」
エリリアは器用に頭を滑り降りてくると、俺の睫毛を容赦なく引っ張った。
「つっ……!」
予想外の鋭い痛みに、わずかにのけぞる。
「あんたにとって私が存在しない存在なのは分かってるけどさ」
エリリアは腰に手を当ててへそを曲げた。
「せめて足くらいは動かしなさいよ。じゃないとドルンハイムに着かないじゃない」
「ああ、分かった、歩く……」
疲弊を孕んだため息を吐き、再び一歩を踏み出す。
エリリアはその返事に満足したのか、再び俺の頭の上で居心地のいいポジションに収まった。
俺は思考を整理するために少し間を置き、再びシステムへと意識を向けた。
(つまり、今の俺は条件をクリアしたということか?)
【あなたの身体的パラメータおよび精神的耐性が上昇しました】
目の前にテキストが浮かび上がる。
【閾値を超過。これにより、背景データの部分的な転送が可能となりました】
「なるほどな……」
思わず声が漏れた。
「まるで、ゲームの世界にでも放り込まれた気分だ」
ほんの少し思案し、呼びかける。
「おい、エリリア」
彼女はすぐに頭の上から逆さ吊りになるようにして、俺の顔を覗き込んできた。
「何よ?」
「お前には……何か『スキル』があるのか?」
「スキル?」
彼女は不思議そうに瞬きをし、それからニィッと笑った。
「うーん……そうね! もちろんあるわ! 私の最大のスキルは、周りのみんなの気分をハッピーにすることよ!」
「そうか、分かった……」
俺はため息をもらした。
(いや、そういう意味じゃないんだが)
内心で毒づく。情報の過多で頭が割れそうだった。
訊きたいことは山ほどあるというのに、なぜ肝心な時に限ってまともな思考が霧散してしまうのだろう。
これ以上気の利いた問いも思い浮かばず、俺はシステムにストレートな質問を投げかけた。
(俺には、他にも別のスキルがあるか?)
【ありません】
システムは簡潔に切り捨てた。
「そうだ」
重要なことを思い出す。
(お前の名前を変更したい。戦闘においては一ミリ秒の遅れが命取りになる。『生の意志』では名前として長すぎる)
【新規識別子の入力を待機中】
深い思考に沈む。
鋭い響きがいい。戦闘中の号令のように、短く、一瞬で伝わるものが。
(リュモン。これからは、お前の名はリュモンだ)
【識別子『リュモン』を受理しました。データを更新。次の指令を待機中】
こめかみを指で揉み、消えかける思考を捕まえようと抗う。
(他に、何を訊こうとしていたっけ……。クソ、忘れた)
「鉄の男、あんた本当に頭がおかしくなっちゃったの?」
精霊が額のすぐ上まで身を乗り出してくる。その緑の髪が、俺の鼻腔をくくすぐった。
「さっきから独り言なんか言ってさ」
俺は彼女に視線を向けた。
なるほど、彼女にはリュモンの声は届いていないらしい。
「お前には関係ない」
できる限りの冷徹さを込めて言い放つ。
「それから、その足を俺の顔からどけろ」
「さっきまでは普通に話してくれたのにさ……」
彼女はふんと鼻を鳴らし、再び頭のてっぺんへと戻っていった。
だが、今度は静かにしている。
それからさらに一キロほど進んだ。
森の様子が変わり始める。木々がまばらになり、代わりに下草が鬱蒼と生い茂ってきた。
リュモンがわずかな振動を伴って、俺の内で応答するのを感じた。
【警告。進行方向に複数の音響および動的乱れを検出。距離:750メートル。戦闘遭遇確率:94%】
頭の上の精霊が突如として硬直した。
羽の羽ばたきが止まり、その小さな身体が緊張に強張る。
「……聞こえる?」
彼女の声が、突如として深刻な色を帯びた。
「前方よ。戦いと、血の渇きを感じるわ」
俺の指が、慣れ親しんだ冷たい革の柄巻きを強く握りしめた。
「見に行ってみる、鉄の男?」
エリリアが問いかけてくる。
「それとも、茂みに隠れる?」
俺は答えず、ただ歩調を速め、そのまま疾走へと移った。




