第101話:生存者症候群
かつて一度、俺は死にかけた。
死というものは、再び同じように訪れるのだと思っていた。
暗く、陰鬱で、冷たいものだと。
だが、代わりに俺を迎えたのは――光だった。
目を開け、眩しさに思わず瞑る。
必死に焦点を合わせようとした。
脳が最初に認識したのは、
――痛みが、消えているということだった。
反射的に左手を動かし、引き裂かれたシャツの下の胸に触れる。
肌は滑らかだった。
傷痕も、こびりついた血もない。
まるで、すべてが悪夢だったかのように。
ゆっくりと身体を起こす。
身体が信じられないほど軽かった。
まるで、誰かが重力を最小限に設定し直したかのように。
頭上の空には、太陽も雲もなかった。
巨大な貝殻の内側を思わせる、均一な真珠色の輝きが揺らめいている。
足元にあるのは森の泥ではなく、奇妙な、弾力のある苔だった。
かすかな緑色の光を放っている。
周囲の木々は、濁った半透明のガラスから削り出されたかのようだった。
幹の向こう側に、同じように非現実的な別の木々の輪郭が透けて見える。
(これが、いわゆる『天国』という場所なのか?)
そんな思考が頭をよぎった。
立ち上がろうと、右手に体重をかける。
『センチュリオン』が低い念りを上げて応じた。
義肢の金属は、温かかった。
地面を蹴った瞬間、身体が一メートル近くも宙に跳ね上がった。
硬い着地を覚悟し、反射的に身を縮めて受け身の体勢をとる。
だが、光る苔の上へと、まるで落ちる羽毛のように静かに着地した。
(おそらくここは、精霊界だ)
俺は思った。
森の内部に隠された、現実の裏側。
公文書館の記録でそのようなアノマリ(アノマリー)について読んだことはあったが、まさか自分がその一つに足を踏み入れることになるとは。
視界の端で、素早い動きを捉えた。
右手がついと、剣があるべき腰へと動く。
――何もない。
「ちょっと! なんで雷に打たれたみたいにビクビクしてるの?」
高くて、鈴の鳴るような声が響いた。
俺の鼻先に触れんばかりの距離で、何かが宙に浮いていた。
手のひらほどの大きさしかない。
緑の髪をくしゃくしゃにした、小さな少女。
生の葉でできたチュニックのようなものを纏っている。
背中では、半透明の羽が猛烈な速度で羽ばたいていた。
彼女は空中できれいに宙返りを決めると、俺の頭元へ飛び寄り、髪の毛を一房ぐいと引っ張った。
「おい!」
身をかわしようとしたが、彼女は即座に俺の右肩へと急降下した。
彼女は即座に俺の右肩へと急降下した。 『センチュリオン』の装甲を小さな拳でトントンと叩き始める。
金属が小さく澄んだ音を立てた。
「なんて奇妙な代物かしら!」
義肢の関節を覗き込みながら、彼女は楽しげにさえずった。
「命の匂いはしないのに、生きてる。どうやってるの?」
「お前は誰だ?」
俺の声は枯れて、掠れていた。
肩から払い落としようとしたが、彼女はただもう片方の肩へと飛び移っただけだった。
「ここは……どこだ? あの悪魔はどうなった?」
彼女は呆れたように目を丸くした。
「私はエリリア。あの、ちっちゃな黒い虫けらのことなら……まあ。自分の家の中に汚い魔力を感じたからさ。降りていって、その虫けらを踏み潰してやったの。粉々にしてやったら、大声でキーキー鳴いてたわ!」
「それから、あんたを見つけたの。ボロボロになって倒れて、その鉄クズから火花を散らしてさ……そのまま置いておいたら腐っちゃうと思って。だから私の『揺り籠』に連れてきて、直してあげたのよ。お礼には及ばないわ」
記憶のフラッシュバックが脳を揺さぶる。
燃え盛る炎。衝撃波。悲鳴。
「車列は……」
喉が締め付けられるのを感じながら、息を漏らす。
奇妙な重力を無視して、精霊に向かって一歩を発した。
「俺と一緒に人がいたはずだ。錬金術師のモルティス。護衛のルト。それから……クロップ。彼らはどうなった? 彼らも助けたのか? 遺体はどこだ? 埋葬しなければならない」
精霊が羽ばたきを止めた。
俺の目の高さで静止する。
一瞬、その顔から子供のような無邪気さが消えた。
彼女は静かに首を横に振った。
「森は彼らを悼んだわ、鉄の男。でも、あの虫けらの炎はあまりにも飢えていた。虫の餌になるような身体さえ残さなかったの。あんたの仲間も、馬車も、獣たちも、何も残っていないわ」
灰。
すべては……一握りの塵と化した。
俺は光る苔の上にへたり込んだ。
ゼノ、エフレム、モルティス、クロップ、ルト。
あらゆる事象に因果関係を求める俺の脳が、瞬時に論理の糸を紡ぎ出す。
なぜ、彼らは死んだのか?
俺の傍にいたからか?
(俺は、呪われている)
その思考が、明確に、はっきりと形を成した。
立ち上がる。
俺の顔は、おそらく石の仮面のようになっていたのだろう。
精霊は少し後ろへと飛びのき、好奇心に満ちた目で俺を観察していた。
「修理、感謝する」
抑揚のない声で言った。
「だが、もう行かなければならない」
「ドルンハイムへ? なんで?」
彼女は不満げに頬を膨らませ、羽を怒ったように羽ばたかせた。
「あそこはつまらないわ! ここにいなさいよ! 一緒に遊びましょう。こんなに頑丈なおもちゃ、久しぶりなんだから!」
「ここから出してくれ」
彼女の身体を透かすように見つめながら、言葉を遮る。
「俺は行く」
「あら、そうはいかないわ!」
精霊は腰に手を当てた。
「あんたが行くなら、私もついていく! ここは何百年も退屈だったの。あんたがこれから何をするのか、見てみたいわ!」
「駄目だ! 連れてはいけない!」
声を荒らげ、一歩踏み出しながら反射的に手を振る。
指先は彼女の半透明の身体を通り抜け、肌にわずかなピリピリとした感覚だけを残した。
「分からないのか? 俺は死を引き寄せる! 俺に関われば、お前も死ぬぞ。そんなことはさせない。自分の仕事に戻れ!」
彼女を脅し、遠ざけるために、あえて残酷で拒絶的な言葉を叩きつけた。
返ってきたのは、高く、屈託のない笑い声だった。
精霊は空中でもんどり打つほど大笑いした。
「死? 私を死で脅そうっていうの?」
彼女は俺の顔の真ん前まで飛んでくると、あざけるように目を輝かせた。
「馬鹿ね、本当に馬鹿な鉄の男。あんたがどうやって私を殺せるっていうの? あんたの『呪い』だなんてものが本当にあったとしても、私の葉っぱを一枚むしるだけでも相当苦労するわよ!」
彼女は再び俺の耳を引っ張った。今度は少し痛いくらいに。
「私はついていく。それだけ」
がっくりと肩を落とす。
「……分かった」
噛み締めた歯の隙間から言葉を絞り出す。
「来たいなら勝手にしろ。後ろを付いてくるなり、好きにすればいい。だが覚えておけ。お前をあやすつもりはないし、守るつもりもない。俺にとって、お前は存在しないものだ」
彼女は嬉しそうに手を叩いた。
「決まりね! じゃあ、あんたのことは鉄の男って呼ぶわ!」
「森へ戻してくれ」
低い声で命じる。
精霊は悪戯っぽく微笑み、指を鳴らした。
頭上の真珠色の空が一瞬にしてひび割れ、苔が溶け去り、領域の幻影が崩壊する。
見慣れた、重苦しい重力が肩にのしかかった。
ブーツがぐちゃりと、湿った、灰の染み込んだ土へと沈み込む。
鼻を突く、吐き気を催すような焦げ臭さが襲ってきた。
俺は森の中、黒く焼け焦げた円の中心に立っていた。
馬車の残骸といえば、焼け残った鉄製の車輪のリムだけ。
俺は黙ってクレーターの縁へと歩み寄った。
そこには、衝撃波で吹き飛ばされながらも奇跡的に無傷だった俺の剣が転がっていた。
それを拾い上げ、煤を拭い、腰のベルトに固定する。
突然、頭頂部にわずかな重みを感じた。
エリリアが俺の頭の上にちょこんと腰掛け、小さな指を俺の髪に潜り込ませて、細い足を額へと投げ出している。
長いため息が漏れた。
払い落とすのは不可能だ。どうせ、またそこに現れるだけなのだから。
サクサクと音を立てる灰を踏み締め、数歩進む。
「ねえ、鉄の男?」
俺は何も答えなかった。
「もし本当に自分が死を引き寄せるって思ってるなら……なんでドルンハイムなんて行くの?」
思わず、足が止まった。
なぜ、だと?
分からない、と答えようとしたその瞬間、脳裏に不意にゼノの顔が浮かんだ。
剣の柄を、より強く握り締める。
「……彼らの、盾になるためだ」
静かに、呟いた。
数秒の間、エリリアは沈黙した。
それから、不思議そうに首を傾げる。
「変な奴……」
彼女はいつもの笑顔を浮かべた。
「本当に変な奴ね、鉄の男」
俺は何も答えず、ただ前を向いて歩き続けた。




