第100話:事象の地平線
アイロンが最初に感じたのは、幾何学の崩壊だった。
正確なベクトル、速度、質量を操ることに慣れていた彼の脳内で、何かが壊れた。
自分という存在が人間というよりは、崩壊していく設計図のように思えた。
線は曲線となり、もはや交わるはずのない平行線が交差し、果てしない歪みへと歪曲していく。
この状態において、時間は存在しなかった。
あったのは、ただエントロピーだけだ。
低い唸り音がアイロンの頭に響いた。
心臓の鼓動が打つたびに、重く鈍い電気ショックとなって意識に跳ね返る。
ドクン。――間。
ドクン。――エラー。
目の前にあるのは闇だったが、それは砂嵐のような静電気のノイズに満ちた、粒子状の闇だった。
そのノイズの隙間から、時折数字が割り込んでくる。
脳裏に、それらが赤く明滅した。
【致命的なエラー。外殻の整合性:12%。環境抵抗:未定義】
そのウィンドウを閉じようとしたが、彼には手がなかった。
それどころか、何もなかった。
ある瞬間、重力を感じた。
だが、それは異常だった。
まるで同時に五つの異なる方向から引っ張られているかのような。
自らの肉体の重みが、まるで一つの惑星のように胸を圧迫し、息を吸い出す。
(重力定数が……変わったのか?)
眠りかけた理性が、まだ分析を試みようと鈍く思考する。
だが、答えはすぐに返ってきた。
(違う。変わったのは、お前だ)
次いで、音が聞こえ始めた。
彼の個人的な地獄へと、細く歪んだ糸のように染み込んでくる。
ギィィ……と、長く尾を引く軋み音。
馬車の車輪だ。
アイロンはその車輪を、全身の細胞で感じ取っていた。
木が車軸と擦れ合う感覚。
潤滑油に混じった砂粒の一つ一つが、微小な摩擦を生み出しているのさえ分かった。
その摩擦が、物理的な吐き気を催させる。
声が聞こえる。
まるで水中か、あるいは果てしないトンネルの奥底から話しかけられているかのように。
「……また体温が下がっている」
モルティスの声だ。
「ガルト、もう一枚毛布をかけろ」
「大導師、無駄ですよ」
ガルトの声は、抑え込まれた苛立ちと恐怖で震えていた。
「こいつから、あまりにも膨大なエネルギーが漏れ出している。ここに立っているだけで、気が遠くなりそうだ」
「いいから言われた通りにしろ」
全部聞こえていると伝えたかった。
触るなと怒鳴りつけたかった。
だが、言葉の代わりに喉から漏れたのは、かすかな、聞き取りすら困難な、掠れた呼吸だけだった。
意識が再び、奈落へと落下する。
今度は森が見えた。――いや、数式の森だ。
一本一本の木が複素変数であり、一枚一枚の葉が微小なベクトルだった。
周囲の全世界が、自己崩壊を始めた数学的モデルそのものだった。
クロップの顔が思い浮かぶ。
うわ言の中で、少年の顔は歪み、三角形や多角形へと分解されていった。
(クロップ……)
アイロンは虚無に向かって呼びかけた。
【エラー。対象が見つかりません】
虚無がそう答えた。
脳が必死に、出来事の論理的連鎖を再構築しようとする。
ヴァイスブルク。契約。死の森。平原。慣性。
神経繊維が肥大化し、骨が多孔質となって重さを増していく。
言葉を絶する激痛が伴った。
「森の領域に入るぞ」
永遠の彼方から、モルティスの声が届いた。
「ドルンハイムはもうすぐだ」
また一つ軋み。
また一つ、衝撃。
馬車が木の根に乗り上げて跳ねるたび、アイロンは脳が頭蓋骨に叩きつけられるのを感じた。
時間の感覚は失われていた。
昼と夜が混ざり合い、一本の灰色のノイズの帯と化す。
時折、唇に水の味がした。モルティスが飲ませようとしているのだ。
その水は胆汁のように苦く、水銀のように重かった。
幻覚の中で、彼は平原での襲撃を何度も何度も繰り返していた。
頭上に振り下ろされる刃が見える。
そのたびに、彼は『スキル』を起動しようとした。
だが、ボタンはどこにもなかった。
そこにはただ、引き裂かれた虚穴があるだけだった。
車列は亀のような歩みで進んだ。
平原の強行軍で疲弊しきった雄牛たちは、滑りやすい木の根や深い泥に蹄を取られ、辛うじて身体を引きずっていた。
モルティスは先頭の馬車の御者台に座り、クロスボウを握りしめたまま離さなかった。
その目は寝不足で真っ赤に充血している。
「ガルト、二番目の馬車を見てこい」
振り返りもせず、彼は吠えた。
今や御者兼護衛を務めるガルトが、忌々しげに地面へと跳び降りた。
ブーツがぐちゃりと泥に沈む。
「見ましたよ、大導師。遺体はまだ……例の状態です。あんたの調合物は大したもんだ、臭いはしない。だが、防水布越しに背中を凝視されている気がしてならない」
「あの剣士はどうなんです?」
ガルトが歩み寄りながら尋ねた。
「生きてはいる。それを生と呼べるならな」
モルティスが応じた。
「一時間前に痙攣を起こした。舌を噛み切らないようマンドラゴラの抽出液を投与した。それと、右腕だ……ガルト、俺は見たぞ。あの金属が溶け始め、それから形を変えて再び凝固した。どんな技術かは知らんが、変貌を遂げつつある」
ガルトは泥の中に唾を吐いた。
「あそこに置いてくるべきだったんだ。あの騎兵どもと一緒に。そうしていれば今頃は村に着いて、焚き火に当たってられたものを……」
「泣き言を言うな」
モルティスが遮った。
「枝を払え、前方に障害物だ」
彼らは棘だらけの低木を切り開き、泥濘から馬車を押し出し、息の詰まるような湿気に喘いだ。
それほどの苦闘の最中にあっても、森は死んだような静寂を保っていた。
聞こえるのは自分たちの荒い呼吸と、神経を逆撫でする車輪の軋み音だけ。
それは、唐突だった。
アイロンは、世界が鮮明さを取り戻すのを感じた。
頭の中の雑音は消え去ってはいないが、背景へと退き、一定の唸り音へと落ち着いている。
彼は目を開けた。
最初に視界に入ったのは、馬車の上に張られた灰色の防水布。
そこを小雨が小気味よく叩いていた。
匂い。――鼻を突く、嗅ぎ慣れた錬金術の臭気。
酢、銅、そして何か苦いもの。
アイロンは身体を動かそうとした。
激痛が全身を走り、あやうく再び意識を失いかけた。
首を巡らせる。
対面に、箱に背を預けたモルティスが座っていた。
その顔は酷くやつれ、眼窩が落ち窪んでいる。
「気がついたか……」
モルティスの声は嗄れていた。
彼は水筒に手を伸ばし、それをアイロンの唇に押し当てた。
「飲め。ゆっくりだ」
アイロンは数口飲み込み、渇ききった喉に生がゆっくりと戻ってくるのを感じた。
「ここは……どこだ?」
彼は呟いた。
「森の中だ。ドルンハイムの近くさ」
モルティスは水筒を引き離した。
「一週間も意識不明だったんだぞ、アイロン。助かるとは思わなかった」
記憶の破片が、アイロンの脳裏に浮上し始める。
騎兵。剣。白い光。
そして、刃の下へと飛び込んできた人影。
心臓が跳ね上がった。
「モルティス……」
アイロンは痛みに耐えながら、肘で身体を少し起こした。
「クロップはどこだ? ルトは……二人はどこにいる?」
モルティスはすぐには答えなかった。
彼はゆっくりと顔を背け、馬車の奥を見つめた。
そこには、袋の山の陰に、二つの細長い包みが横たわっていた。
「あそこにいる。後ろだ、アイロン」
モルティスが静かに言った。
「俺は……」
アイロンが言葉を発しかけ、――そして、遮られた。
木々の間のあらゆる空間を、一瞬にして埋め尽くす音が轟いた。
森の上の空が、深紅の光を放って爆発した。
一瞬ののち、黒い火炎の巨大な球体が車列の中央へ直撃する。
物資を積んだ主力馬車が位置していた、まさにその場所へ。
衝撃波が馬車を粉々に粉砕した。
アイロンは宙へと吹き飛ばされた。
巨木の幹に激しく叩きつけられ、泥の中へと重々しく墜落する。
彼は這いつくばり、泥と血を吐き出した。
周囲のすべてが燃えていた。
モミの木々が炎を上げて立ち昇る。
錬金術師たちが四方に投げ出されていた。
衣服から煙を上げ、身を縮めて倒れているガルトの姿が見えた。
モルティスの姿はどこにもない。
アイロンは立ち上がりろうとした。
だが、足が拒絶する。
脳内システムは連鎖的にエラーを吐き出し続けていた。
【警告。外部エネルギー干渉:異常。タイプ:高温プラズマ。 発生源……】
アイロンは顔を上げた。
燃え盛る炎の壁から、人影が悠然と歩み出てくる。
高かった。どの人間よりも頭一つ分は大きい。
肌は冷え切った灰の色。
頭髪の代わりに、細く光る触手が脈動している。
鎧は身に纏っておらず、ただ肉体に直接埋め込まれた不気味な黒い金属の帯があるのみ。
右手に、一本の長い直剣を携えていた。
【上位悪魔】
システムがそう結論づけた。
悪魔の周囲で現実が歪んでいた。光が不自然な角度で屈折する。
異形は十歩手前で足を止めた。
その視線はアイロンに釘付けになっている。
悪魔が、低い振動のような音を発した。
(アノマリー……)
アイロンの脳裏に、その思念が響いた。
悪魔が、空いた左手をゆっくりと掲げた。
指先から黒い炎の細い糸が伸び広がる。
近くに倒れ、這って逃げようとしていたガルトが突如として硬直した。
糸が彼に触れた――次の瞬間、錬金術師の身体は音もなく灰色の塵へと分解し、消え去った。
アイロンは歯を食いしばった。
恐怖が全身を麻痺させようとするのを感じる。
(スキル……起動……)
己に命じる。
【システム崩壊。リザーブ枯渇。ニューラルネットワークに致命的な損傷】
システムが冷酷に告げた。
「動け……ッ!」
アイロンは喘ぎ、『センチュリオン』の拳を地面へと叩きつけた。
義肢の金属は、ただ微弱な火花を散らすことしかできなかった。
悪魔が、さらにもう一歩踏み出す。
歪んだ空間そのものから鍛造された剣が、低く唸りを上げていた。
アイロンは、異形が剣を持ち上げるのを見つめた。
横へと転がろうとしたが、身体があまりにも重い。
振り下ろされる黒い刃を目で追う。
その瞬間、彼の世界の時間は再び、限界まで引き延ばされた。
炎の中の一粒一粒の火花が見えた。
悪魔の刃からわずか一インチの距離で、雨粒が蒸発していくのが見えた。
悍ましい破砕音。
刃が彼の左胸、鎖骨のすぐ下を貫通した。
痛みは感じなかった。あったのは、ただ冷気だけだ。
血管を瞬時に駆け巡る、凄まじい極寒。
剣は彼を完全に貫き、森の地面へと縫い付けた。
アイロンは声なき悲鳴を上げ、口を大きく開いた。
その瞳が、反転し始める。
悪魔が身を屈めた。
その底なしの眼が、アイロンの顔からわずか数インチの距離に迫る。
(この世界の者では……ない……)
彼の意識の中に、不気味な振動が響き渡った。
悪魔は、傷口の中でゆっくりと剣を抉り回し始めた。
アイロンの意識は、ふたたび闇へと沈んでいった。




