第2話 週三で来るA級が、飯を食わない日
「景色が見える飯を出せ」と、客が殺到した翌日の話です。
朝、のれんを出す前から、人がいた。
三十人はいる。
広場の石畳に、装備のまま座り込んでいる連中が列になっていた。先頭の男は毛布をかぶっている。
どう見ても、昨日の夜からそこにいる。
「……店長」
すずが、桶を抱えたまま固まっていた。
「昨日、何人来ました?」
「九人だ」
「今日、三十人はいますよ」
「そうだな」
「どうするんですか」
俺は、のれんを出した。
「飯を出す。それしかない」
先頭の男が、毛布の中から顔を出した。
「開くのか」
「開く」
「二十階層のやつは」
「ない」
男は、二秒くらい考えて、それから言った。
「……じゃあ、生姜焼きで」
俺は少し、この男のことが好きになった。
豚肩ロースを鉄板に落とす。じゅう、と鳴る。
焼き色がついたところでタレを回しかけると、醤油と生姜が一気に焦げて、白い煙が上がった。この匂いだけは、五年経っても慣れない。
皿に移して、余ったタレを飯の端に垂らす。飯にタレが落ちる音は、聞こうと思わないと聞こえない。
男は、それを三分で食った。
食い終わって、しばらく黙ってから言った。
「……並んだ甲斐、あったわ」
* * *
最初の客は、カウンターに座るなり言った。
「二十階層のやつをくれ」
「ない」
「いくらだ」
「ないものに値段はつかない」
「素材がないんだ」
男は、信じていない顔をした。
「昨日は出しただろ」
「昨日は、客が持ってきたからな」
「……じゃあ、取ってこいよ」
俺は、卵を割る手を止めた。
「取ってくるのは、あんたらの仕事だろ」
男は、口を開けたまま固まった。
俺は割った卵を丼の飯に落として、醤油を回しかけて、男の前に置いた。
「卵かけご飯、三百円だ」
「……並んだんだろ。食ってけ」
* * *
それから四時間、ずっとそんな調子だった。
それでも全員、最後には何かを食って帰っていった。
すずは、ずっと走り回っていた。おしぼりを替えて、茶を注いで、皿を洗って、また走る。
三十人を二人でさばくと、そうなる。
「店長! 豚汁、あと何杯いけます!?」
「十二」
「なんで数えてるんですか!」
「数えないと足りなくなるだろ」
鉄板の上に、生姜焼きが六人分。隣の寸胴で豚汁。奥の火口で味噌汁。
飯は朝から三回炊いた。
タレが焦げる匂いと、味噌の匂いと、汗の匂いが混ざって、店の中が真っ白になっている。
換気なんてものはない。ここは地下十九階だ。
「はい生姜焼き大盛りお待たせしました! 卵かけ二つ! 豚汁三つ入りまーす!」
すずの声が裏返っていた。
誰かが「うまい」と言った。
別の誰かが「おかわり」と言った。
文句を言う奴もいた。期待外れだと言って、飯を半分残して出ていった男もいた。
俺はその皿を黙って下げた。残された飯は、まだ温かかった。
だしは、朝から一度も出てこなかった。
こいつは人が多いのが苦手だ。鍋の裏に張り付いて、灰色になっている。
* * *
昼を過ぎて、ようやく列が途切れた。
店に残ったのは、三人だった。
俺と、すずと――カウンターの一番奥に、時任久遠。
久遠は、朝からずっとそこにいた。
四時間、一度も席を立たず、一度も注文をしていない。
「時任さん」
すずが、おそるおそる声をかけた。
「あの、何か……食べます?」
「いらない」
「豚汁、まだありますけど」
「いらない」
すずが、俺のほうを見た。
俺は首を振った。今は放っておけ、という意味だ。
すずは納得いかない顔をして、それでも皿を洗いに戻った。
* * *
週に三度。必ず生姜焼き定食の大盛り。
装備が壊れた日も、仲間が死んだ日も、そこに座って、同じものを食って帰っていった。
その久遠が、昨日から何も食っていない。
昨日、あの肉を一枚だけ、この女も食った。
俺は、この女が何を食うかを知っている。
どのくらいの速さで食うかも、どこで箸を置くかも、疲れている日にどれだけ残すかも。
五年も見ていれば、そうなる。
「久遠」
俺は、湯呑みに茶を注いで、置いた。
「食わないなら、帰れ」
久遠は動かなかった。
「五年で初めてだ。あんたが、ここで何も食わないのは」
「……」
「体調が悪いなら医者に行け。金がないなら貸す。人を殺したなら、それは俺の管轄じゃない」
「黒木」
久遠が、ようやく顔を上げた。
目が落ちくぼんでいた。寝ていない顔だ。
「昨日、見えたんだ」
「知ってる」
「九条と同じものを見た。熱い水と、湯気と、赤い岩だ。……でかいのが歩いてた」
久遠は、湯呑みに手を伸ばして、やめた。
「今朝、装備を担いで、階段の前まで行った」
静かな声だった。
「下りのほうだ。三十分、突っ立ってた」
「……」
「五年、見なかった方向だ」
久遠は、自分の手を見ていた。
「昨日から、行きたくてたまらない」
店の中が、静かになった。
豚汁の鍋が、ことこと鳴っていた。それだけだった。
* * *
すずが、皿を洗う手を止めたのが分かった。
久遠の指が、湯呑みの縁で止まっていた。
「行けばいい」
「死ぬぞ」
「だろうな」
「……即答するな」
久遠は、少しだけ笑った。それから、笑うのをやめた。
「五年前、ここに店ができた日のことを覚えてるか」
「覚えてる」
開店の三日目だった。
泥だらけの女が入ってきて、カウンターの一番奥に座った。
六席の店で、一番奥だ。
隣に、五つ席が空く場所。
この女は五年間、一度もそこを動いていない。
「あの日、お前は何も聞かずに生姜焼きを出した」
「腹が減ってる顔だった」
「私は、それを食って泣いた」
久遠は、湯呑みから手を離した。
「五年かかった。ここに座ってれば、それでいいと思えるようになるまで」
そして、俺を見た。
「昨日、お前が出した肉を食ってから、この席が狭い」
* * *
明日には腐ると、俺は言った。嘘じゃない。
厨の奥は冷える。一枚だけ、まだもっている。それも、あと何時間かだ。
昨日、すずに出す前に、手元に残した。三枚しかない、と言って四枚あった。
厨の奥へ行って、布をめくる。
隣に、もう一つ布をかけた小皿がある。
俺は、そっちには触らなかった。
出せば、この女は今日、笑って帰る。
そして明日、下へ降りる。
今夜を過ぎれば、あれは腐る。出すなら今しかない。
俺は、鍋の火を入れ直した。
豚汁だ。今朝から仕込んである、いつものやつ。
豚バラと、大根と、人参と、こんにゃく。あとは葱。特別なものは何も入っていない。
出汁は、十二階層の湧き水で引いた昆布と煮干し。味噌は地上の、業務用の安いやつだ。
うちの豚汁は、特別なことを何もしていない。
椀によそって、久遠の前に置いた。
「食え」
「黒木、私は」
「豚汁だ」
久遠は、椀を見下ろしていた。
湯気が、真っ直ぐに上がっていた。
やがて、女は箸を取った。大根を一つ、口に入れる。
噛む。
大根に、箸が音もなく入った。
断面から汁が滲んで、湯気が立つ。
口に入れた瞬間、その汁が舌の上で出汁に戻る。噛むと、大根そのものの水っぽい甘さが後から来る。
豚の脂が、味噌の角を丸くしている。
――何も、起きなかった。
「……」
久遠の動きが、止まった。
もう一口。今度は汁をすすった。
止まった。
「……何も、見えない」
「豚汁だからな」
俺は、鍋の蓋を戻した。
久遠が、椀を両手で持ったまま、動かなくなった。
長い息を、一つ吐いた。
「……薄いな」
「今日は水が多い」
「そうか」
久遠は、それから何も言わずに飲んだ。
大根も人参もこんにゃくも、葱まで残さなかった。
飲み終えて、椀の底を、長いこと見ていた。
すずが、黙って新しいおしぼりを置いた。熱いやつだ。
久遠はそれを顔に当てて、しばらく動かなかった。
「……悪い」
「いや」
椀を置いて、久遠は言った。
「黒木」
「ああ」
「明日も、豚汁を出せ」
「明日は肉じゃがだ」
「……豚汁がいい」
「じゃあ豚汁だ」
* * *
会計の時、久遠は小銭を数えながら言った。
「豚汁は、八百円か」
「二百円だ」
久遠の指が、止まった。
「……二百円か」
「二百円だ」
女は、しばらく硬貨を見ていた。それから、百円玉を二枚、静かに置いた。
「黒木」
「何だ」
「お前は、分かっててやってるのか」
「何を」
「昨日の肉だ。あれを食った人間がどうなるか、分かっていて出したのか」
俺は、釣り銭を皿に置いた。
「食材は、獲れた時の状態が一番うまい」
「答えになってない」
「なってるだろ」
久遠は、しばらく俺を見ていた。
そして、初めて見る顔をした。困っているような、少しだけ怒っているような顔だ。
「……お前、本当に何も分かってないんだな」
「何がだ」
「いや」
久遠は、のれんをくぐりながら言った。
「明日も来る」
* * *
閉店後。
すずが、洗い物をしながらぽつりと言った。
「店長」
「何だ」
「時任さん、大丈夫ですかね」
「豚汁を全部飲んだ」
「……それ、答えになってます?」
「飲んだんだよ。全部」
すずは、ふきんを絞りながら、少し黙った。
「あたし、昨日のお肉、食べちゃいました」
「知ってる」
「でも、あたしは何も見えませんでした」
すずは、ふきんを両手で握っていた。
三年前、装備を売りに来た十六の娘だった。
売りに来たくせに、うちで飯を食って、泣いて帰った。次の日また来た。それから、ずっといる。
手が止まっていた。
「泣いたんですけど、景色は見えなかったんです。なんでですかね」
俺は、答えなかった。
答えられなかった、というほうが近い。
すずは、それ以上は聞かなかった。
しばらくして、ふきんを絞る音が、また始まった。
「店長」
「何だ」
「明日、豚汁、多めに仕込みます」
「そうか」
「……多めに、仕込みますから」
「ああ」
だしが、鍋の裏からようやく出てきて、すずの足元にくっついた。今日は一日、ひどい目に遭ったという顔をしている。スライムに顔はないが、そういう顔をしている。
「……まあ、いいですけど」
すずは、また洗い物に戻った。
* * *
翌朝、俺は壁に紙を一枚貼った。
すずの字で、こう書いてある。
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二十階層のものは
ありません
生姜焼き定食 六百円
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「これ、貼っていいんですか」
「いい」
「怒られませんかね」
「怒る奴は、貼り紙を読まない」
* * *
翌朝。
のれんを出しに外へ出ると、また列ができていた。
昨日より短い。十人くらいだ。
その最後尾に、三人組がいた。
二十歳そこそこの青年と、弓を背負った小柄な娘と、盾をずるずる引きずった大男。
三人とも、顔に泥と血の混じったものがこびりついていた。
先頭の青年が、俺を見て、慌てて立ち上がった。
「あの、すみません。ここで――」
言いかけて、口ごもった。
「……景色が見える飯が、食べられるって」
俺は、のれんを掛けた。
「座れ。生姜焼きでいいか」
青年は、ぽかんとした顔をした。
「……えっ」
「並んだんだろ。腹減ってるんだろ」
「は、はい」
「なら、それでいい」
のれんが、風もないのに一度だけ揺れた。
第3話「景色が見える飯を、ください」に続きます。




