第1話 八年ぶりに、二十階層の味がした
二十階層の素材は、地上に出た瞬間に石になる。だから八年間、誰もその味を知らない。
その二十階層の手前で、定食屋をやっている元S級の話です。攻略はしません。飯は出します。
「これを、食えるようにしてみろ」
女がカウンターに置いたのは、石だった。
拳ほどの、黒い塊。表面に細かいひびが走って、端のほうが粉になって崩れている。置いた拍子に、その粉がカウンターの上に少し散った。
俺は布巾で手を拭いた。
「うちは石屋じゃない」
「肉だ」
女は、俺の目を見たまま言った。
「二十階層の魔物の肉だよ。八年間、誰も味を知らないやつだ」
店の奥で、皿を拭く音が止まった。
* * *
九条冴。左腕の甲に、金色の日輪。S級パーティー「天照」のリーダーだ。
外套が焦げていた。左の肩当てが割れて、そこから覗く下着が赤黒い。
今日も潜って、弾かれて、上がってきた帰りだ。
そして俺は、この女を店で見るのが初めてだった。
五年ここでやっているが、一度もない。
俺は、黒い塊を見た。
あの階層の魔物には、名前すらない。誰も持ち帰れないから、図鑑に載っていない。
つまり、この女は持ち帰った。
「どこで斬った」
「門番の脇をすり抜けて、一分だけ入った。三ヶ月前だ」
「副長が腕を落としたのは、その時か」
九条の眉が、わずかに動いた。
「……噂は早いな」
「客が喋っていくんだ」
俺はまな板を出した。女はそれを目で追って、それから、吐き出すように言った。
「鑑定士も、分析機関も、料理人も、保存系のスキル持ちも、三ヶ月かけて全部当たった」
そこで一度、息を吐いた。
「誰一人、戻せなかった」
だから、ここに来た。
五年間素通りしてきた、無許可の飯屋に。そう言っているのと同じだった。
「あんた、【保存】のスキル持ちだったな」
「ああ」
「八年前、地上の訓練場ですれ違ってる。俺はまだB級で、あんたは荷物を背負ってた。『暁』の後ろで、いつも一番最後を歩いてた」
九条は、そこで言葉を切った。
言うか言うまいか迷って、結局、一番言いたくないほうを選んだ顔をした。
「荷物持ちが、こんなとこで飯屋か」
言ってから、自分で口の端を歪めた。
厨房の奥で、何かが落ちる音がした。
「あの」
「すず」
「うちの店長が、あなたに何かしましたか」
「すず」
もう一度名前を呼ぶと、すずは唇を噛んで、鍋のほうへ引っ込んだ。引っ込む前に、俺を思い切り睨んでいった。あとで怒られるやつだ。
九条は、そのやりとりを面白そうに眺めていた。
「いい店員だな。庇ってもらえて結構なことだ」
「注文は」
「……あんた、腹が立たないのか」
「肉が焦げる」
「焼いてないだろ」
「これから焼くんだ」
俺は、黒い塊を持ち上げた。
* * *
軽い。
まずそれが分かる。拳ほどの大きさがあるのに、軽石みたいに軽い。中身が全部、時間に持っていかれている。
乾いて、縮んで、崩れていった三ヶ月ぶんだ。
別に難しいことじゃない。
しまってある状態を、出すだけだ。俺のスキルは昔から、それしかできない。
ただし、戻せるのは一度きりだ。
一度こっちへ引き戻したものは、二度としまえない。石に逃げることも、傷むのを止めることもできなくなる。
つまりこの塊は、三ヶ月ぶんの時間を全部返されて、生肉に戻る。
あとは、腐るだけだ。
今日中に食わなければ、これはただのゴミになる。
ぱき、と乾いた音がした。
ひびが、逆向きに閉じていく。
表面の粉が吸い戻され、灰色が退いて、内側から色が浮かび上がった。
深い紅だった。血の色じゃない。熟した果肉のような、透き通った赤。
次に、重さが来た。
手のひらの上で、塊が一気に沈む。指が少し食い込んで、そこから冷たさが伝わってきた。生肉の、あの重たい冷たさだ。
最後に、匂いが来た。
「――っ」
九条が、鼻から息を吸い込んだ音が聞こえた。
獣の匂いじゃない。焦がした砂糖に近い。それと、乾いた花。
嗅いだことのない甘さが、石の底から立ち上がってくる。
断面から、汁が一滴、まな板に落ちた。
「……は」
九条の口が、半分開いたままになっていた。
「どうする。焼くか、煮るか」
女は答えなかった。
「なら焼く。日替わりだ」
* * *
薄く削ぐ。
包丁がほとんど抵抗なく入った。繊維が細かい。加熱しすぎたら終わる肉だ。
端の切れ端を一枚、指でつまんで口に入れた。
味を見ないで客に出す気はない。
焦がした砂糖と、乾いた花。
その奥に、鉄と、湯の匂いがある。
――八年前、俺の舌はこれを知っている。
三枚でいい。九条の皿だ。
そう思って削いでいたのに、まな板を見たら八枚あった。
五枚を、脇に寄せた。
寄せてから、なぜ寄せたのかを考えて、考えるのをやめた。
厨の奥に、布をかけた小皿が一つある。五年、そこにある。
中身は、八年前にしまったままの何かだ。
出せば、戻る。
戻したら、二度としまえない。
だから、まだ出していない。
* * *
鉄板を温めて、脂を引かずに置いた。
置いた瞬間、音が違った。
普通の肉は「じゅう」と鳴る。これは「しゃあ」と鳴いた。
脂が多い。しかも融ける温度が低い。肉の縁から透明な脂がじわりと滲んで、鉄板の上を走った。焼くというより、自分の脂で自分を揚げているような焼き方になる。
三秒。それ以上置いたら端が反り返る。
裏返した面は、もう色が変わっていた。紅が、うっすらと桜色に沈んでいる。
塩だけにした。この手の素材にタレを使うのは、描いてある絵を塗り潰すようなものだ。
白い煙が上がった。
「……店長」
鍋の陰から、すずが顔を出していた。うちの店員だ。
その顔が、完全に無防備になっていた。
「なんですか、これ」
「飯だ」
カウンターの奥では、時任久遠が椅子から腰を浮かせていた。
週に三度、生姜焼き定食の大盛りを食う以外のことをあまりしない、A級のソロだ。
その久遠が、鼻を鳴らして匂いを追っていた。
五年見てきて、初めて見る顔だった。
皿を出そうとしたら、もう出ていた。
すずが、言われる前に飯をよそって、味噌汁を温め直していた。
目は鉄板から離さないまま、手だけが動いている。
「……付け合わせは?」
「いらん」
「ですよね」
皿に三枚、載せる。そこへ、すずが飯と味噌汁を並べた。
皿の上で、余熱を受けた肉がわずかに動く。息をしているみたいに、縁がゆっくりと反った。
「どうぞ」
* * *
九条は、しばらく皿を見ていた。
それから箸を取った。一枚を持ち上げる。肉は、箸の熱だけで少したわんだ。
口に入れる。
噛む。
――歯が、当たった端から沈んだ。
噛み切る、という感じがしない。歯を入れた先から、肉のほうが崩れていく。
脂が、舌の熱に負けて溶けた。体温より低い温度で融ける脂だ。
溶けた脂が舌の上に薄く広がって、その上に塩が乗る。塩だけだ。余計なものが何もないから、塩の粒が一つずつ分かる。
そして、甘い。
焦がした砂糖と、乾いた花。
鼻から抜けていくはずのその匂いが、舌の上に降りてきて、味になっている。
飲み込んでも、まだ残っていた。
九条の目が、俺を通り越して、どこか遠くを見た。
「…………」
箸が、皿の上に落ちた。
女は口を押さえて、椅子の上で背中を丸めた。肩が細かく震えている。
吐いたわけじゃない。噛んだまま、動けなくなっている。
やがて、九条が顔を上げた。
目が真っ赤だった。涙が、頬を一本だけ流れていた。
「……見えた」
「何が」
「水だ」
女は、呆然としたまま言った。
「……熱い。下から湧いてる」
そこで一度、言葉を探す顔をした。
「天井が、ない。白くて。ずっと――」
九条は、両手を少しだけ広げた。
広さを示そうとして、途中でやめた。
「岩が、赤い」
その手が、震えていた。
「歩いてる。足音が、水の中で」
「二十階層の先だ。俺が八年、見たことのない景色だ」
店の中が、しんとした。
俺は、味噌汁の椀を少し女のほうへ押した。
こういう時は熱い汁を飲んだほうがいい。俺はそれしか知らない。
* * *
「……一枚くれ」
久遠だった。
俺は少し驚いた。この女が何かを欲しがるのを、初めて見た。
「……頼む」
「日替わりの値段だ」
「待て」
九条が、椅子を鳴らして立ち上がった。
「それは俺のだ」
「そうだな」
「勝手に切るな」
「明日には腐る」
九条の口が、止まった。
「一度戻したものは、二度としまえない。今夜が最後だ。持って帰っても、朝には泥になってる」
「分かってるのか。それを取ってくるのに何がかかったと思ってる。八年だ。仲間が四人辞めて、副長は腕を落とした。それをあんたは、通りすがりの女に――」
九条の声が、途中で止まった。
久遠が、もう食っていた。
銀髪の女は、箸を持ったまま目を閉じていた。
そして、肩が一度、大きく落ちた。
「……ああ」
それだけだった。
九条は、立ったまま動かなくなった。
「すず」
俺が呼ぶと、鍋の陰から顔を出した。
「食うか」
「……いいんですか」
「三枚しかないけどな」
すずは、そろそろとカウンターに来て、一切れを口に入れた。
そして、何も言わずに、二切れ目に手を伸ばした。
三切れ目にも手を伸ばした。
皿が空になって、ようやく顔を上げた。
「……あ」
「いいんだ」
「よくないです」
「いいんだ」
すずは、空の皿を両手で持ったまま、しばらく突っ立っていた。
九条が、それを見ていた。
久遠が、箸を置いた。
そして、誰にともなく、小さく頭を下げた。
九条の肩から、力が抜けるのが分かった。
女は、もう何も言わなかった。
ゆっくり椅子に座り直して、飯を一口、かき込んだ。
白飯だ。何の変哲もない、朝に炊いたやつ。
だが口の中には、まだあの脂が残っている。米がそこへ入った瞬間、脂が一粒ずつに移って、飯そのものが別のものになった。甘さが、米の甘さと混ざって、区別がつかなくなる。
九条の箸が、止まらなくなった。
味噌汁をすする。
豆腐とわかめの、どこにでもある味噌汁だ。箸で拾った豆腐の角が、口に入る前に崩れた。
熱い汁が通ると、口の中が一度まっさらに戻る。
戻ったその口で、女は三枚目に手を伸ばした。
一枚目とは、もう食い方が違っていた。
噛んで、飯を入れて、汁を飲んで、また噛む。その順番を、自分で見つけている。
飯も汁も、一粒も残さなかった。
* * *
会計の時、九条は財布から万札を出した。
俺は、それを押し返した。
「八百円だ」
「……は」
「うちの持ち込み料は八百円。飯と汁が付いてその値段だ」
九条は、万札を持ったまま固まっていた。
「あんた、分かってるのか。それは八年だぞ。人間の腕一本だ」
「知ってる」
俺は、釣り銭皿を指で押した。
「でも、うちは飯屋だ。飯の値段しか取らない」
女は、長いこと動かなかった。
やがて財布の中から小銭を数えて、きっちり八百円をカウンターに置いた。指が震えていて、十円玉が一枚転がった。
それを拾って、九条は言った。
「黒木」
「何だ」
「あんた、なんで戻ってこない」
俺は、釣り銭皿を戻した。
「肉が焦げる」
「……今、焼いてないだろ」
「焦げるんだよ。いつも」
九条はしばらく俺を見ていた。何か言いかけて、やめた。
のれんをくぐる直前、女は一度だけ振り返った。
「また来る」
「ああ」
のれんが揺れて、足音が遠ざかった。
俺は、鉄板を拭いた。
* * *
その晩。探索者向け掲示板の、十九階層スレッド。
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【速報】十九階の飯屋がヤバい
412 名無しの探索者
九条さんが十九階の飯屋から出てくるとこ見た
二十階の素材が食えたらしい
415 名無しの探索者
八年誰も戻せてないんだが
418 名無しの探索者
それより見たんだが
九条さん、上がらずに下りてった
419 名無しの探索者
は?
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* * *
閉店の片付けをしながら、すずが言った。
「店長」
「何だ」
「あの人に、言い返さなくてよかったんですか」
「言い返して、何かうまくなるか」
「ならないですけど」
すずは皿を重ねる手を止めて、それから、少し笑った。
「でも、あたしは腹立ちました」
「知ってる」
「知ってるなら、なんか言ってくださいよ」
「店長」
「何だ」
「あたし、さっき、裏で泣きました」
「知ってる」
「なんでですかね」
「知らん」
「知らんばっかりじゃないですか」
カウンターの端で、無色のスライムがぷるぷる震えていた。
半年前に湧いて、そのまま居着いたやつだ。すずが「だし」と呼び始めて、それで固まっている。
そいつが今、焼いた時に落ちた脂を舐めて、見たこともないくらい濃い金色に透けていた。
その体の内側で、赤い光が一度、脈を打つように瞬いた。
鍋の火を細くする。出汁は、もう角が取れている。
階段のほうから、また誰かの足音が聞こえてきた。
二人分。片方は、引きずっている。
俺はもう一度、鉄板を火にかけた。
第2話「週三で来るA級が、飯を食わない日」に続きます。




