青野冴香
青野冴香が、まだ五歳のときのことである。
クリスマス・イブの日に大雪が降った。
二階の窓から見える街並みは完全に色を失っていて、別世界のような非現実感を冴香に抱かせた。
道路と田んぼの境がなくなり、どこまでも自由な雪原が広がっているかのようだ。
遠くに見える針葉樹は真っ白なとんがり帽子を被っているみたいだし、そういった樹木が連なる山々はいつもよりも大きくて、どこか神秘的に感じられる。
ガタガタと玄関から大きな音が聞こえた。
冴香が様子を見に行くと、クリスマスツリーを抱えている父がいた。いたずらがバレた男の子みたいに視線を逸らして、
「せっかくだから、外で光らせてみようと思って」
というわけで父と冴香は、一緒にクリスマスツリーを外に持ち出した。
しっかり軒先に置いたし、感電しないように気を付けた。
その後は父と一緒になって、庭に降り積もっていた雪でかまくらを作ることにした。
大きく大きく、それでいて崩れないように、慎重に固めながら雪を被せていった。
三時間は雪と格闘しただろう、四人は入れそうなほどの、大きなかまくらが出来上がった。
父さんは、かまくらの中にビニールシートをしいて、アウトドア用の小さなテーブルを運び入れ、キャンプのときに使うLEDランタンをその上に置いた。
パキッとした光が、かまくらの中で乱反射する。
時刻は、夜の八時を過ぎていた。
積もる雪が月明かりを反射しているせいなのか、夜だというのに、ぼうっと白く、明るい。
「おねえちゃんもよんでくるね」
冴香が言うと、父も母も頷いた。
青野家の隣には、境六花という女性が住んでいた。
冴香は六花のことが好きで、よく彼女の家に行っては、一緒に折り紙をしたり絵本を読んだりして遊んでいた。
六花の家は、一人で暮らすにはそこそこ大きな木造建築だったけど、物はあまり置いてなくて、そこに住んでいる六花がいついなくなってもおかしくないような空気だった。
だから冴香は、よく六花の手を握った。
どこにもいかないでほしくて、彼女の手をつかんだ。
「おねえちゃん! きょうはクリスマス・イブだよ!」
この日も六花の手を引っ張って、自分が作ったかまくらに招待した。
母がカレーを作って、かまくらの中に運び入れる。続いて父も入ってきた。
「おお! いつもよりもおいしそうに見える!」
父が言うと、母が呆れたようにため息をついた。
「それだと、いつもがおいしくないみたいでしょ」
「おかあさんのおりょうりは、いつもおいしいよ!」
「ありがとう、冴香のこと大好き」
母がそう言って、冴香のことを抱きしめた。
それを見た父が慌てて、
「俺のことも抱きしめてくれよー!」
と情けない声を出した。母は笑って、父のことも抱きしめた。
それから、他人事のように家族のやりとりを見つめていた六花に手を差し伸べて、
「はい。六花ちゃんも」
「え? 私?」
「寒いからね。おいで」
六花はおずおずといった様子で、おっかなびっくり母に近づき、軽く抱き着いた。その背中に母が手を回して、まるで子どもをあやすようにゆっくりと撫でた。
「――ああ」
と、胸の奥から漏れたような声を出した。このとき六花は泣いていたのだと冴香は思う。それを隠すように、ぎゅうっと強く母に抱き着き、顔をうずめた。
母は、しばらく六花の背中をさすっていた。
真冬の夜の、暖かな食事だった。こんな日が永遠に続くような気がしていた。
一週間後に六花はいなくなった。
☆
あれから六年が経った。
小学六年生になった青野冴香は今、一人でご飯を食べている。
今夜はクリスマス・イブだけど、目の前にあるのは、電子レンジで温めたレトルトカレーだけだ。広い空間にカチャカチャと、スプーンが食器に当たる音だけが響く。
寂しくなってきたから、ヘッドフォンを持ってきて頭につけた。スマホから好きな音楽を再生させる。
六花がなぜいなくなったのか、冴香は何も聞いていない。
父も母も知らないみたいだった。
身内ではないから捜索願を出すわけにはいかないし、そもそも自分の意思で消えたのだとしたら探すも何もない。
ただ、六花の家の物がそのままになっていたことが気になり、警察に相談してみた。一応捜査はしてくれたけど、事件性はないと断定されてしまった。
冴香は、泣いて泣いて泣いた。
夢の中でも六花のことを探し回った。
おねえちゃんはどこ? どこにいったの?
泣いても喚いても必死に探しても、挙句の果てには夢の中でもどうにもならないと知って、やっと落ち着いたのだった。
家族のような存在だと思っていた。
それが一方的な感情だと突きつけられたみたいで、悲しかった。
もしかしたら六花は嫌がっていたのかな、なんて。そう想像するだけで冴香は吐きそうになる。無邪気なころの自分を張り倒したくなる。
それでも、と心のどこかで思う。
いきなり六花が帰ってきて「ごめんごめん、ちょっと旅に出ていてね」と笑いながら言って、また四人で食卓について――。
そんなことはあり得ないとわかっている。
なぜなら、いなくなったのは六花だけじゃないからだ。
冴香は今日、カレーの食材を買ってきていた。いつでもみんなで食べられるようにと。
でも、そんな気遣いは必要なかった。
外では雪が降っている。
時計を見ると、時刻は夜の八時を過ぎていた。
父と母の会話がなくなったのは、いつからだろう。二人とも、あまり家に寄りつかなくなった。喋るとケンカばかりするから、一緒にいない方がいいのかもしれない。
今は共働きで、二人とも夜遅くまで仕事をしている。泊まりで帰ってこない日も多い。
不倫をしている……とは思いたくない。どうでもいいけど。
冴香はスプーンを叩きつけるようにして、レトルトカレーを食べた。
美味しいとも不味いとも感じない。味はしているはずなのに、意識まで上ってこないのだ。
父がお金だけは置いていってくれるから、冴香は何も困らない。
そう、困らない。
なんだかたまらなくなって、家の外に出た。
景色は、六年前のクリスマス・イブと同じ。月明かりを、積もる雪が反射している。ぼうっと白く、明るい。
あのときと違うのは、冴香一人だということ。
胃の底が妙に冷たくて、氷の塊を飲み込んでしまったみたい。
その塊を吐き出したいけど、どうすればいいのかわからない。
夜空に向かって叫ぼうにも、言葉はまったく出てこない。
冴香が向き合いたいのは夜空じゃない。
代わりにため息をつくと、白く色づいた。
なんとなく家の塀に沿って歩き、角を曲がる。裏庭に出た。
降る雪の向こう側に、何かがある。
冴香は目をこすって、しっかりと確認してみる。
大きなかまくらがあった。
冴香はヘッドフォンをずらして、
「お父さん……?」
と声をかけた。返事はない。
今更、父がかまくらを作ってくれるわけない。家族に対してそこまで興味がないはずだ。
でも、じゃあ誰がこれを作ったんだろう。
まさか母じゃないだろうし、ましてや六花でもないはずだ。彼女は六年前から一度も姿を見せていない。
ゆっくりと近づき、おそるおそる中を覗いてみる。異常なほどの暗黒が広がっていた。
いくらなんでもおかしい。明かりがないとしても、こんなに見えないわけがない。まるでこの先にブラックホールがあるみたい。
そっと、手を入れてみる。
暗闇にふれた指先が見えなくなった。というよりも消えてしまったかのようだ。
冴香は慌てて手を引っ込めて、指先を確認した。
……良かった。ちゃんと指先はくっついている。安堵しながら、それでも一応、指先を撫でて確かめた。
もう一度、かまくらの中に広がっている暗闇を見つめる。
――どこか別の場所に飛ばされてしまいそう。
そんな風に冴香は思った。ただの直感だけど、間違ってはいない気がする。
冴香は自分の全身を見回した。ダボダボのトレーナーにジャージ。スニーカーという格好だ。部屋着とはいえ、あまりにもダサすぎる。
もともと、どこかに行こうと思って外に出たわけじゃないから仕方ない。
いったん家の中に戻った。
自室の鏡で顔を確認する。
真っ白な肌と、ボブカットの黒髪。猫のように大きく丸い瞳と、小さな鼻、小さな口。冷気に触れていたせいで赤くなっていたほっぺたを両手でぴしゃりと叩いた。痛い。じゃあ、これは夢じゃないなと、雑に判定した。
よし、不思議なかまくらに入ってみよう。
別に怖くない。どうせ誰も、冴香のことなんて考えていない。
この先、家族の関係が良くなるとは思えない。楽しいことは過去にしかない。こんな家にいたって仕方ない。どこか別の場所に行けるのならそれでいいし、どこにも行けないのならそれでもいい。
いなくなった冴香のことを、少しでも心配してくれたら――。
冴香は首を横に振って、その考えを止めた。
だって、逆に、もしも。
冴香がいなくなっても、まったく心配に思わなかったら――。
そう考えただけで、胸が苦しくなった。
冴香は自分の胸をぎゅっと握った。
父さんと母さんのことなんて、どうでもいい!
頭を振って、考えを切り替える。
冴香は部屋着から、黒いタートルネックに、厚手の白いコート、細身のパンツに履き替えた。ヘッドフォンを外して、その代わりに白い耳当てをつける。青い手袋と青いマフラーも準備した。チョコレートやクッキーなどのおやつも用意し、それらを大きめのリュックに放り込んだ。雪が降っているから、一応、防水性のレインコートも入れた。
スマートフォンは入れなかった。連絡するつもりも、させるつもりもない。
玄関でブーツに履き替えて、外に出た。
裏庭に回る。
さっきは見間違いで、もしかしたら、不思議なかまくらなんてないかもしれない。あるいは父と母のドッキリで、今日こそ楽しい夜が戻ってくるかもしれない。
――さあ、家族みんなでカレーを食べよう。なんと六花さんも戻ってきたんだよ。
そんな声が、脳内に響いた。
角を曲がる。
かまくらはあった。
ちらちらと降る雪の中、ぽつんと佇んでいた。
父と母はいなかった。
入り口の闇が、ぽっかりと口を開けていた。
上を向いて、月を見る。とても冴え冴えとしていて、触れたら斬れてしまいそうだ。むしろ斬られたかった。幻想的でいて、手の届かない何かにズタズタにされたかった。もうこの世界にいられないと思った。
冴香は走り出した。
その勢いのまま、かまくらの中に広がっている暗闇に飛び込んだ。




