六花の魔法
現実は水に似ていると、魔女六花は思った。
ほんの少しの隙間さえあれば染み出てくるように、六花の偽装の穴を決して逃さない。
どれだけ巧妙に隠れても、魔力を抑えても、一般人に紛れても――どこで何をしていても、絶対に六花のことを見つけ出す。
ここはN県の北部にある、寂れた田舎町だ。
四方を大きな山に囲まれていて、冬は雪が多く降る。人口は一万人に満たないし、観光地も近くにないので、人の出入りも少ない。
静かで、綺麗で、閉鎖的なこの町が六花は好きだ。
町の人から詮索されることはなく、六花のような人間を放っておいてくれるところも居心地が良い。
戦いに明け暮れていた自分の、終の棲家にしたい――今年で二十歳になる六花は、本気でそう考えていた。
もう魔法使いたちに利用されるのは嫌だった。
誰かを殺すのも、仲間が殺されるのも見たくなかった。
人を殺した自分に余生がどのくらいあるかわからない。
ロクな死に方だってしないだろう。それでも――、
「少しくらいは夢を見たっていいじゃないか」
誰にでもなく六花は呟いた。
この町にはすぐに馴染むことができた。
隣に住んでいる青野家の人たちとも仲が良くなり、今では一緒に夕飯を食べる間柄だ。
青野家は、父と母、そして四歳になる女の子の三人で構成されている。
土日は親子で出かけていくのをよく見るし、道ですれ違うときは、娘を挟む形で手を繋ぎ、三人仲良く並んで歩いていたりする。六花に会えば元気よく挨拶してくれるし、夜には笑い声が漏れ聞こえてくる。
青野家は、六花の思い描く理想の家族像をしていた。
親に捨てられた自分には見慣れぬ光景であり、こんな世界があるのかと衝撃的だった。
最初は嫉妬した。壊したいと思った。
青野家の庭に一人でいた娘の冴香を見て、胸の中が締め付けられるような思いだった。
どうして自分は愛されていないのだろう、愛されたことがないのだろう。
そんなことを考えていると、ふと冴香がこちらを見て、
「おねえちゃん。さびしいの? いっしょにごはんたべる?」
と不思議そうに言った。
どうして冴香はそう思ったのか。
なぜ見抜かれたのか。
冴香はにこりと笑ってから、混乱している六花の手を取った。
そのまま青野家の食卓に連れて行く。
「ちょ、ちょちょちょっと!」
「いいからいいから」
と、強引に連れられて――というのは言い訳だ。
冴香の手を振りほどくことは簡単だ。ただ、その暖かな手を離したくなかった。
冴香の父と母は、
「おや? お隣さんかな?」「冴香が連れてきたのね。ささ、テーブルに着いて」
いきなりやってきた六花のことをあっさりと歓迎してくれた。
「……えっと。あの、私なんかが、一緒にご飯を食べていいんですか?」
六花が訊くと、冴香の母はにこりと笑って、
「もちろん! 歓迎するわ」
するとテーブルに着いていた冴香の父が立ち上がり、六花のことをじっと見て、
「『私なんか』という言葉は良くないよ。良くない」
「おとうさん、おせっきょう?」
冴香の一言で、父は急におろおろして、「違う違う。お説教じゃないって!」と言い、冴香のことを抱きしめた。母がお皿を運びながら、
「まったくもう、お父さんは冴香に弱いんだから」
困ったように笑っていた。
こうして六花と青野家の交流が始まった。
笑顔の絶えない食事。温かいカレーライス。あそこの調味料を取って。間違えて左右で違う箸を使ってしまったよ。ニュースじゃなくてユーチューブがみたい。お父さん、醤油をかけすぎ、高血圧でしょ――そういった細かな会話まで含めて、すべてが新鮮で楽しかった。
ご飯を食べて涙が出てくるという経験は初めてだった。
そして、何事もなく一年が経った。
冴香は五歳になっていた。
六花のことを「おねえちゃん」と呼び、両親が留守にしているときは冴香の家で面倒を見る仲だ。
クリスマス・イブの夜のことである。
六花は一人で家にいたのだけれど、青野家の庭がなにやら騒がしい。
笑い声だから心配ないと思うけど、一応確認のために玄関を開けた。
しんしんと雪が降り積もる中に、冴香が立っていた。真っ青なマフラーに顔をうずめ、そこからほんのりと見える頬や鼻の赤色がとても可愛くて、六花は見ているだけで幸せな気持ちになった。
「おねえちゃん! きょうはクリスマス・イブだよ!」
「う、うん」
「おとうさんがかまくらをつくったから、いっしょにごはんをたべよう!」
「かまくら?」
冴香に手を引かれて青野家の庭に行くと、電飾が巻きつけられてピカピカ光っているクリスマスツリーが目に入った。
「かわいいでしょ!」
冴香が自慢げに胸を張った。ツリーも冴香も可愛くて、思わず彼女の頭を撫でた。
視線を少し動かすと、クリスマスツリーの横――石塀と濡れ縁の間に、大きなかまくらが鎮座ましましていた。
入り口からは光が漏れていて、ランタンか何かが置いてあるのが見える。
冴香に手を引かれるまま、腰をかがめてかまくらの中に入った。続いて冴香の母と父が、両手にカレーライスを持って入ってきた。すでに置いてあったアウトドア用のテーブルにカレーを乗せる。
四人が押し合いへし合い座り、かまくらはぎゅうぎゅうだ。
外では雪が降っているけれど、人の熱と青野家の笑顔のおかげで、かなり温かい空間になっていた。
六花は生涯、このときのカレーライスの味を忘れなかった。
現実は水に似ている。六花の偽装の穴を逃さない。
そして六花にとっての現実とは、魔法使いのことだった。
自分を殺そうとしてくる追手のことだった。
六花は穏やかに生きた。
この町が終の棲家となるよう、目立たず騒がず魔法も使わず、じっくりと根を下ろすように生きた。
それでも一年と少ししか保たなかった。
魔法の存在は、一般人には秘匿されている。
だから青野家が旅行に出ているときを見計らって、追手の魔法使いは六花に襲いかかった。
良かった、と六花は思った。
青野家の人たちを巻き込まなくてすむのだから。
魔法使いの不文律として、一般人に手を出すことは許されていない。
六花を討伐するためとはいえ、青野家を人質にとるような真似はさすがにしてこなかった。
敵同士だが、この不文律については一応の信頼関係があると言えた。そうでなければ青野家と仲良くなどなれなかった。
さて、六花は恐ろしく強い。
無傷で、追手の魔法使いをすべて撃退することに成功した。
殺すことはしなかった。もう誰も殺したくなかった。
とはいえ、こんな手ぬるい方法ではすぐに第二陣がやってくるだろう。
覚悟を決めなくてはならない。
冴香は少しの間、夜空を見上げた。青空のことを『透き通るような青』と表現するのはよく見る。この日の夜空は、その言葉を使いたくなるほど深かった。
「まるで透き通るような黒……」
冷気と夜気を肺いっぱいに吸い込む。
視線を下げたときにはもう、どうするべきか決めていた。
現実は水に似ているのだから、逃げ込んだ先の壁をすべて凍らせてしまえばいい。そうすれば少しの漏れもなくなるはずだ。
ただの言葉遊び以上の天啓が、この発想にはあった。
日本には居場所がない。外国に逃げても追手は必ずやってくる。
だったら別世界を創ればいい。
自分だけの箱庭を創ってしまえばいいんだ。
六花はありったけの魔力を練って、自分だけが入ることのできる世界を魔法で創造した。もう二度とこっちの世界に来るつもりがなかったから、自分の魔力を循環させて、食事をとらなくてもすむように設計した。
青野家のカレーを食べることは、もうない。そのことが少しだけ悲しかった。
最後はせめて、温かな記憶の中で終わりたい。
イメージは大きな大きなかまくらだ。
青野家のみんなと一緒に過ごした特別な空間だ。
この記憶だけで自分は生きていけると思った。
六花は自分の魔法世界に逃げ込む前に、振り向いてもう一度青野家を見た。
旅行に出ているから明かりは点いていない。
真っ暗な家の中に溢れているたくさんの愛情を感じ取り、胸が苦しくなった。この愛情の中に自分もいたのだと、確かに実感することができた。
六花は歩を進める。
魔法世界の入り口を閉じる。
「ばいばい、冴香ちゃん。君は幸せになってね」




