冴香の命か、妖精たちの命か
ホムラ、ネモフィラ、冴香の三人は、六花の部屋に足を踏み入れた。
入った瞬間、木の匂いが冴香の鼻腔をくすぐった。
なんだか久しぶりだ。たまらずに深呼吸をする。肺いっぱいに生命の匂いが充満していく。ああ、そうだ。生きているってこういう感じだった――と匂いから思い出していく。
この世界に来て数時間しか経っていないはずなのに、もう木の香りが恋しかった。
雪や氷はキレイだけど、やっぱりどこかで停滞や死といったイメージに繋がっている気がする。
例外は、六年前のクリスマス・イブくらい。
あの日あのときあの夜は、冴香にとって輝かしい人生のすべてが詰まっている瞬間だった。
過去のことを考えている場合じゃない、頭を振って、今この瞬間に焦点を合わせる。
ざっと部屋の中を見回す。
どこにでもありそうな、それこそ二十畳ほどの大きさの部屋だ。壁も床も天井も、全部木材できている。また、壁には木枠の窓がついていて、雪原を一望できる。真っ白な景色が広がっているだけだから、面白いとは言えない。逆に、どこか別の場所からこの世界樹を眺めた方が、よっぽど面白いだろう。
この部屋は、主がいなくなってから三年が経っている。その間、部屋を管理していたのは妖精なわけで、暖かな空気は残っていなかった。かといって冷たいだけでもない。保存状態がいいおかげで木材の匂いはそのままだったし、やっぱり雪や氷に囲まれているのとは心理的にも大きな違いがある。
部屋のそこかしこに可愛い系のぬいぐるみが置かれているし、ベッドには天蓋がついていた。敷いてある布団はふわふわで、今すぐにでも横に慣れそうだ。冴香は疲れ果てていたけれど、眠気の誘惑を断ってさらに部屋を探索する。
本棚には漫画と小説が置かれていた。ジャンルはどれも恋愛ものばかりだった。
全身鏡の他に、ドレッサーも置いてある。どちらもゴシック系のデザインだ。
色とりどりの香水の瓶や、化粧品も置かれている。大きめの洋服棚もあるから、ファッションや化粧には気を使っていたみたい。
自分一人しかいない世界なのに、なぜ?
妖精に見せるために、自分の容姿を整えていたってこと?
話に聞いていた通り、六花にとっての妖精は、会話相手以上の何かだったらしい。
その死を悲しみ、心が病むほどの存在だったんだ。
それにしても、六花は外の世界との交流を断っていたはずだ。
香水や化粧品を買い足すことができないはずのに、どうやって補充していたの?
魔法で創り出すことができたのかな、と冴香は想像した。
あるいは、眺めていただけで使わなかったとか。
部屋の明かりは、他のかまくらと同じで、緑色の光が灯っている氷のランプだ。
なんか、こう……冴香が勝手に抱いていたイメージとは違った。
「おお、可愛いですね!」
ネモフィラが言い、
「そうだろ」
ホムラが自慢げに答えた。それから冴香の方を向き、
「ここならサエカでも横になれる。クロノとその配下は、この部屋に近づくことをしない。ほとんど手を触れないで、魔法で当時の状態を保っていると言っていた。だから隠れるにはうってつけの場所だ」
当時って、六花が亡くなった当時って意味か。
でも嫌な気分にはならない。
怖いというよりも苦しかった。
現実から逃げて、一人この世界で生きると決めた六花のことを想うと、苦しくてたまらなくなった。
「でも食料がないな。六花さまと同じように、魔力で腹を満たすというわけにはいかないし」
「食料か……」
その問題は後に置いておこう。それよりも、夢の中の六花が言っていたことを確認しなければならない。
――私の部屋を探して。真実を見つけて。そして、氷を溶かして。
この部屋には何かがあるのだ。クロノさえもまだ触れていない何かが。
冴香は、壁にもたれかかっているホムラに向かって、
「ねえ。この部屋を調べたことはある?」
「ないな。六花さまの私物には手を触れていない。まあ、少し床を掃除はしたけどね」
「床掃除?」
「なんでもない」
「とにかく、ホムラはこの部屋を調べてないんだね?」
「ああ」
「クロノは?」
「あいつも、ほとんどここには立ち入らない。そのままの空気にしておきたいんだよ。でも、どうしてそんなことを訊く?」
ここまで来たら、もう正直に話してもいいだろう。
「私ね。この世界で倒れたときに、六花の――おねえちゃんの夢を見たの」
「夢?」
おねえちゃんという呼び名については、特にツッコみがなかった。不敬だと怒られるかもしれないって、少し思っていた。
「うん、夢。そこでおねえちゃんは、この部屋に真実があるって」
「真実?」
その言葉を聞いたホムラとネモフィラは、もう一度確認するように、しっかりと部屋の中を見回した。でもパッと見てわかる場所に真実はないだろう。そもそも真実ってなに?
「他には、なんて言っていたんだ?」
とホムラが言う。
冴香は少し間を置いてから、
「『氷を溶かして』って」
「……」
ホムラは険しい顔をして、窓の外に視線を向けた。その後、うろうろと六花の部屋の中を歩き回りはじめた。真実を探しているわけじゃなくて、考え事をしているみたいだ。
「サエカ」
と歩きながら口を開く。
「僕も、君にすべてを話そうと思う」
「すべて?」
「六花さまが自殺する前、あの人は僕に条件を出したんだ」
「条件?」
「簡単に言うと、六花さまが亡くなったときに遺体を氷漬けにしなければ、この世界は滅ぶ。そして妖精たちも一緒に死ぬ。遺体を氷漬けにすれば、妖精たちは生きながらえる。ただし永遠に、外の世界には出られない」
「何その二択」
冴香が知っていたのは、ホムラが六花の遺体を氷漬けにすることで、この世界を閉ざした――ということだけだった。そのときに六花から選択肢の提示があったという情報は今初めて聞いた。
隠していたのか、それとも言いにくかっただけなのか。
「……ホムラがどちらかを選んだの?」
「六花さまは、僕に選んでほしかったんだと思う。でも選べなかった」
「え?」
ホムラは足を止めて視線を下げ、床のある一点を見つめた。
「どちらも選ばないまま、六花さまの遺体から血が流れるに任せた。土壇場で現実逃避したんだ。皮肉だよな。六花さまが現実から逃れたくて創った世界なのに、敵の魔法使いはこんなところまで追ってきた。六花さまが現実から逃げるには死ぬしかなかった。その後で、僕にも六花さまの遺した二択という現実が降りかかってきたんだ」
そしてホムラも逃げようとした。
選択を迫られるということが、現実の本質かもしれない。
「……どうしようもない二択を僕に迫ることで、自分の苦しみをわかってほしかったのかな」
ホムラが呟く。
そうかもしれない。でもそれはただ単に、六花がホムラに甘えていただけだ、とも言える。自分のことをわかってほしい。同じ苦しみを味わってほしい。悩んでほしい――その想いが遺していくものは呪いに他ならないと冴香は思う。
「それで、ホムラはどうしたの?」
選べなかったとホムラは言ったけど、現状、六花の遺体は氷漬けにされていて、世界は存続している。
「クロノが助けてくれた」
「え? クロノ?」
まさかの名前に驚く冴香だった。悪い噂ばかりをさんざん聞かされていたのに、ここに来てクロノのイメージが複雑化するとは思わなかった。
「動けない僕を叱咤してくれた。そして、一緒に六花さまの遺体を氷漬けにする魔法をかけてくれた。僕の苦しみを一緒に背負ってくれた」
「……」
だから最初にホムラと会ったとき、クロノのことを悪し様に言わなかったのか。二丁拳銃で撃たれたというのに、そうされることが当然だと言わんばかりの態度で、彼女のことを受け入れていた。
ホムラは自罰的であり、かつクロノに対して深い情のようなものを抱いている。
そしてたぶん、クロノの方もホムラに対して……。
「まあ、そのことはいいんだ」
とホムラがあっさりと言った。
いいの?
「問題は、六花さまの遺体を覆っている氷を溶かしたら、この世界は滅び、僕たち妖精は死んでしまうということだ」
「ああ、そうか。そうだよね」
遺体を氷漬けにしなかった場合、この世界は滅ぶ。そして妖精たちも死ぬ――と、こういう条件だったわけだし。いったん氷漬けにしたからといって、その条件が反故にされるとは思えない。
「氷を溶かすことが冴香を元の世界に帰すための条件だとしたら、反対側の天秤に乗るのは、僕も含めた妖精の命すべて、ということになる」
そう、だよね。そうなるよね。
冴香を助けるために氷を溶かせば、妖精は死ぬ。
氷を溶かさなければ冴香が死ぬ。
ここに来て、また二択だ。
いやでも、夢の中の六花からそういった重苦しい雰囲気は感じなかった。
どちらかを選べというような強制力とは、無縁に思えた。
キーワードは『真実』?
「おねえちゃんは、ホムラに伝えなかった何かをこの部屋に隠していると思う。とりあえずそれを探そう。それを見つけてから考えよう」
「僕に隠しているもの……」
冴香、ホムラ、ネモフィラの三人は、それぞれバラけて部屋の中を探索することにした。
何かを隠しておける場所は、本棚に置いてある本の中か、ベッドの下。後はドレッサーについている引き出しの中くらいか。
冴香はドレッサーに近づいた。色とりどりの、香水や化粧品の瓶が置いてある。それに混じって、黒のインク瓶と、ガラスペンを見つけた。
六花はここで、何かを書いていたんだろう。
インクは乾いておらず、『当時』の状況がしっかりと保全されている。さすがに魔法で時間を止めているのだろうけど。
ドレッサーの引き出しを開けると、中にはシンプルなA4のノートが入っていた。ホムラとネモフィラを呼び寄せて、
「これ、中を見たことある?」
二人とも首を横に振った。
「見てもいい?」
一応、ホムラに訊いた。ホムラはかなり長い時間、黙っていた。それこそ数分間、何も言わなかった。そして、
「……いいよ」
と消え入りそうな声で言った。本当は嫌なんだろうな。
でもこれを読まなきゃ、先に進まない。
ホムラ、ネモフィラ、冴香の三人で肩を寄せ合ってノートを開く。
中は六花の日記だった。




