氷の世界樹の中
「冴香は手袋を外した方がいい」
ネモフィラがそう言ったので、冴香はここで手袋を外して、コートのポケットに入れた。雪の妖精は手袋をしない。むき出しの手は冷たくて、痛かった。
思えば、この世界に来てからどんどん暖かなものを手放している気がする。
最初に白い耳当てを失くした。次に、マフラーを巻かずにネモフィラのかまくらに置いてきた。そして今は手袋だ。ちょっとした小物ばかりだけど、身につけていないと心細かった。その代わりに得たシーナのコートは、寒さを軽減してはくれない。でもこれがあるから氷の世界樹に忍び込むことができる。シーナには感謝してもしきれない。
氷の世界樹の周りには、鋭い雰囲気を発している妖精がたくさんいた。ゆるゆると歩いているのではなく、目的をもってきびきびと警戒している。
ここから先はクロノの領域なんだと、改めて理解できた。
妖精たちが、ホムラとネモフィラ、それに冴香のことをジロジロと見てくる。でもまだ、何も言われない。
そのまま世界樹の入り口にあたる部分、大きな扉の前に辿りついた。
扉の左右に、剣を持っている妖精がいる。門番だろう。ホムラが何も言わないで、しれっと通り抜けようとすると、門番は剣を交差させて入り口を塞いだ。かしゃん、という乾いた音が鳴った。
「なぜ止める?」
ホムラが訊いた。
「ここより先に進むことを許可されている妖精は、ホムラさまだけでございます」
「僕は、六花さまのことを調べるために来ているのだが」
「承知しております」
「調査で必要なものはすべて持ち込んでもいいと、クロノから許可を得ている」
「それは道具や情報でしょう。他の妖精を連れてくるとは、聞いておりません」
向こうもなかなか引き下がらない。
周囲の妖精たちも、みんなこっちを見ている。視線の刃が、体中に突き刺さってくるみたい。
冴香は正体がバレないように、なるべく下を向いていた。緊張しすぎて、心臓が破裂しそうだ。
「クロノをここに呼んでくればいい」
「この程度のことでクロノさまをお呼びすることはできません」
「では、僕はこの件から手を引こう。帰るぞ」
ホムラがあっさり背を向けて、歩き始めた。
演技……だよね? そうだよね?
ネモフィラと冴香は顔を見合わせてから、黙ってホムラの後に続いた。冴香が振り返ると、門番の妖精二人が顔を近づけて、こそこそと相談しているのが見えた。
しばらくして、
「お待ちください」
帰ろうとしていたホムラを呼び止めてきた。
「特例で、お連れの方の立ち入りも許可しましょう」
「そうか」
ホムラは余裕を見せつけるためなのか、ゆっくりと振り返った。そしてもう一度、扉の前まで歩いた。
もちろんネモフィラと冴香も後に続く。
「申し訳ございません。そこの……崩れた結晶の妖精はどちらさまですか?」
またしても呼び止められた。そう簡単には中に入ることができない。
フードの下で冴香は、冷や汗をかいていた。
どうか、何事もなく終わって。
「彼女はシーナだ」
ホムラが答える。
「シーナさまでございますか? クロノさまが倉庫番に任命したはずですが」
「シーナは、倉庫に置いてある道具に詳しいんだ。六花さまの状態を見て、使える道具が倉庫内にあるか、思い当たるかもしれない」
「なるほど。承知いたしました」
やっと、入り口を守っている妖精は引き下がった。交差されていた剣が、開かれる。
ホムラが振り返って、
「僕のコアで、開けることができるから」
そう言って魔法陣を展開させると、扉は自動で開いた。やっぱり最先端の科学みたい。
こうしてホムラ、ネモフィラ、冴香は、氷の世界樹に入った。
幹の中は空洞になっていて、中心を貫くように螺旋階段が設置されていた。もちろん氷でできている。上の方で足を踏み外したら、そのままつるつるつるーっと下まで滑ってしまうかもしれない。コントのような映像をイメージして、冴香は少しだけ愉快な気持ちになった。もちろん、本当にそんなことが起こったら笑い事ではすまないけれど。
階段の前には、冴香と同じように、フードを目深に被った妖精が立っていた。ちょっと親近感がわく。
ホムラが立ち止まって口を開いた。
「階段を下りれば、六花さまの遺体が安置されている部屋に行ける。でも、まずは階段を上って、六花さまの部屋に行こう。そこに手がかりが残されているかもしれない」
ネモフィラが「わかりました」と言い、冴香は頷くだけにしておいた。
階段の前にいるフードを目深に被った妖精の横を通るとき、
「お前は誰だ?」
小声で訊かれた。
どこかで聞いたことのある声だ。でも、どこだろう。思い出せない。
「お前は、誰なんだ?」
もう一度、訊かれた。答えた方がいいのかな。それとも、何も言わない方がいいのかな。迷っていると、後ろにいたネモフィラが、
「シーナだよ」
と答えてくれた。
フードを目深に被った妖精は、
「シーナ?」
と小首を傾げていた。それから、むき出しになっている冴香の手をじっと見つめていた。このまま会話を続けているとバレてしまうかもしれない。冴香たちは焦らず、それでいて足早に階段を上った。手すりも氷だから、素手の冴香にはきつい。
フードを被った妖精は、追ってこなかった。
冴香は前を向き、一歩一歩、足を出した。世界樹の中心を、ぐるぐるぐるぐると上っていく。なんだか不思議な気分だ。冷たくて、痛くて、キレイで、頭の中までぐるぐるしてくる。いったん立ち止まって、呼吸を整えた。意識をしっかり保たなくてはならない。先を歩くホムラが振り返った。
「大丈夫か?」
冴香は何も言わないで頷いた。後ろにはネモフィラもいるし、滑って下まで落ちる、なんてことは起こらないはずだ。
しばらく上がっていくと、大きな扉の前に辿りついた。冴香の身長の二倍くらいはありそうな大きさだ。これももちろん氷できている。
「この先が、幹の中心にある大広間だね」
ホムラが言う。そして世界樹の入り口のときと同じように、魔法陣を展開させた。コア認証だ。
扉の真ん中に、一筋の青い光が走った。その線から左右に分かれるように、ゆっくりと、厳かに、扉が開いていく。心なしか、扉の隙間から冷気が漏れ出てくるようだった。足元を這うような冷たさに驚き、冴香は思わずホムラの背に隠れた。
扉が完全に開く。
大広間には、円形の柱がずらりと等間隔に並べられていた。その間を、入り口から玉座まで、赤いカーペットが伸びている。氷で作られた物じゃない、本物のカーペットだ。濡れていないので、魔法でコーティングしてあるのかもしれない。
ホムラもネモフィラも、冴香を濡らさないこと、体を冷やさないことに苦労していたから、このカーペットは特別な魔法――それこそ六花本人の魔法がかけられているのだと、冴香は考えた。
カーペットの先に、三段ほどのちょっとした段差があって、その上には玉座が置かれていた。いや………本当に玉座なのかな? 木製の、少し高級なだけのイスに見える。金や銀、宝石などで装飾されているわけでもない。お尻を乗せる部分にはクッションが敷いてあったし、その上には、可愛らしいペンギンのぬいぐるみが置かれていて、子どもの部屋にあってもおかしくなさそうなイスだと冴香は思った。
そんな冴香の考えていることがわかったのか、ホムラが苦笑した。
「偉そうにするのが嫌いな人だったからね。これも、形だけの玉座だよ」
「そうなんですか」
と、なぜかネモフィラが頷いている。そっか、ネモフィラも知らないんだ。人間との戦いでコアを傷つけられて、それまでの記憶を失ったんだっけ。
「最初は、妖精と話し合うためだけにこの広間を創ったんだよ。でも、そのうちここが作戦本部のようになった。六花さまがさまざまな判断をし、裁定を下す場所になった。それでもイスだけは変えなかったね」
ホムラが段差を上ってイスに近づき、そっと撫でた。懐かしそうに空白の玉座を見ている。ネモフィラも冴香も、その時間を邪魔しなかった。ホムラが名残惜しそうに指を離してから、三人でイスの後ろに回った。
大広間の奥に、もう一つ扉があった。氷ではなく、木製の扉だ。
冴香でも開けられそうなドアノブがついている。
「この先が、六花さまの部屋だ」
ホムラが扉を開けた。




