いざ、氷の世界樹へ
その場にいる誰もが息をのんだ。いや凍りついた、という表現が適切かもしれない。
目深に被っていたフードの下は、ヒビ割れた顔の女の子だった。
傷跡という感じではなくて、まるで今にも割れそうな陶器のよう。でもそのヒビが霞むくらいの大きなインパクトが、彼女の顔にはあった。長い黒髪に、ちょっと丸い頬。目じりの下がった瞳――。
なぜか六花の顔にそっくりだったのだ。
でも纏っている雰囲気は全然違う。
六花の持っているあの独特な、固いような柔らかいような何とも言えない感じではなく、ただひたすらに脆いイメージだ。
もう一度シーナの顔をよく見ると、眼球にもヒビが入っていた。
「え? 六花さま……?」
ホムラが呟いた。ネモフィラも驚いている様子だ。ここの住人にとっても異常なことが起こっているらしい。
みんなの疑問を代表する形で冴香が口を開く。
「どういうことなの?」
「……この世界の空気には、」
シーナがゆっくり喋り始めた。彼女の声を初めて聴いたけど、やっぱり六花の声音とは全然違っていて、少し高くてふわふわしている。
じゃあどうして顔だけがこんなにも似ているのか。
「六花さまの魔力が循環している。その魔力には、六花さまの想いというか、遺志のようなものが混ざっている」
誰も口を挟まない。シーナは続ける。
「ヒビ割れた妖精は、六花さまの遺志を受け取る力に長けている。その中でも特にわたしは、六花さまの魔力と共鳴しやすかったみたい。もともとは、この顔じゃなかった。コアに傷がついてから、この顔に変わった」
「じゃあ他のヒビ割れた妖精がみな、六花さまの顔をしているというわけじゃないんだな?」
ホムラが確かめるように訊くと、シーナは頷いた。
「わたしだけ」
「クロノは、シーナの素顔を知っていたのか? だから君にだけ辛く当たっていたのか?」
「知らないと思う。でもなんとなく、感じ取っていたのかも」
どうやらクロノとシーナは仲が悪いらしい。冴香の知らない情報だ。
「六花さまの遺志を受け取ることができる、と言ったな」
ここでホムラはいったん言葉を区切った。
そして長い時間、宙を睨むように考え込んでいた。何かを迷っているらしいことがわかる。
しばらくしてから意を決したのか、
「六花さまは、現状をどう思っているんだ?」
「六花さまはすでに亡くなっている。何かを思考しているというわけじゃない。ただ滞留している魔力が、六花さまの生前の想いを汲むように流れているだけ」
生前に入力されていたプログラムが、六花の死後、勝手に動いているようなもの?
少し違うかもしれないけど、冴香はとりあえずそう理解して話を聞くことにした。
「じゃあ、その流れとやらでいいから教えてくれ。六花さまの遺志は、シーナになんて語りかけている?」
ホムラがなおも食い下がるように言うと、シーナはただ一言、
「悔いている」
端的なその言葉に、とんでもない量の感情が含まれていると冴香は思った。圧縮されすぎていて何も推測ができない。
シーナは続ける。
「滞留している魔力は、外の世界に助けを求めた」
「外の世界って――」
ホムラとネモフィラが、冴香のことを見た。
「六花さまはこの世界を創る前、サエカと知り合いだった。そのときの幸せな記憶が遠因となり、外の世界にいたサエカに繋がりを求めてしまった」
「知り合いだったのか?」
ホムラが驚いたように言った。
「う、うん」
「……そうか。後で詳しく聞かせてくれ」
今はシーナの話をしっかり聞く、という判断らしい。
ホムラはシーナの方に向き直って、
「じゃあ六花さまの遺体を覆っている氷にヒビが入っていたのは、その、六花さまご自身の意思ってことなのか?」
ここで使った意思という言葉は、『遺志と意思』、両方の意味を兼ね備えている気がする。
「違う。もう一度言うけど、六花さまはすでに亡くなっている。滞留しているただの魔力に、他人の魔法を解除するような力はない」
「じゃあ、どういうことなんだ?」
「氷にヒビが入っていたのは、その魔法をかけた妖精が、解除したいと思ったから」
「……」
ホムラはあごに手を当てて考え込んでしまった。冴香も同じように考える。
冴香がこの世界に来たのは、滞留している魔力が六花の遺志を汲み、助けを求めたから。
助けとはなに?
悔いているってどういうこと?
夢の中の六花は、遺体を覆っている氷を溶かせと言っていた。
それが助けることに繋がるの?
「……シーナはどこまで知っているの?」
「全然知らない。大まかな想いしか伝わってこない」
六花の遺志は、冴香に助けを求めた。
でも助けてほしいのは冴香も同じだ。
父と母から逃げるように、不思議なかまくらの中に飛び込んだ。
でもここは、かつての六花が辛い現実から逃げるために創り出した世界だった。
そして、現実は六花のことを放っておいてくれなかった。どこまでもどこまでも追いつめて、結局六花は自分から死を選んでしまった。選ぶしかなかったと、そう言っていいのかはわからない。後には、六花の魔力から生み出された妖精だけが残った。
妖精たちは人間を憎んでいるらしい。
六花は言っていた。
――どこまでも逃げて、どん詰まりで立ち行かなくなって、自分を傷つけるしかなくなっちゃうの。そんな風にはなってほしくない。
今この世界には、六花が残した想い――後悔と、妖精たちの停滞した空気、そしてかつての六花と同じように現実から逃げてきた冴香の人生が交差している。
それぞれが助けを求めて、手を伸ばし合っている。
シーナは、冴香のことを真正面から見つめた。
冴香も見つめ返す。
「どうして顔を見せてくれたの?」
冴香が訊くと、シーナは脱いだばかりのコートを、ぐいっとこちらに差し出してきた。
思わず受け取ってしまう。少し考えてから、意図がわかった。
「これを着て、シーナのふりをすればいいってこと? そうすれば世界樹の中に入れるかもしれない?」
冴香が言うと、シーナがこくりと頷いた。
「そのためだけにコートを脱いでくれたの? 隠していた素顔を、晒してくれたの?」
もう一度、シーナがこくりと頷いた。
ついさっき知り合ったばかりなのに、どうしてこんなことをしてくれるの? どうして助けてくれるの? 六花の遺志がそう願っているから?
訊こうとしたけど、うまく言葉にできなかった。
その代わりに冴香は、受け取ったコートをぎゅっと胸に抱いた。
「ありがとう!」
するとシーナが、冴香に抱き着いてきた。両手を冴香の背中に回して、優しくさすってくれる。こっちから触れても、大丈夫なのかな。強く抱きしめ返すと、割れてしまいそうで怖かった。
だから冴香は、慎重に、シーナの背中に手を回した。
冷たいけれど、暖かい。不思議な感覚だ。
「わたしたちのヒビは、心のヒビだよ。ヒビはみんな繋がっているの」
シーナが耳元で言った。
「ありがとう。覚えておく」
「ん」
冴香はシーナからゆっくりと離れた。
そして、まずは今までずっと着ていたレインコートを脱ぐ。その下に着ていた普通のコートまでは脱ぐ必要がなかった。受け取ったシーナのコートは、そのまますっぽりと冴香を覆うことができたからだ。つまりコートを二重に着ていることになる。ちょっと着ぶくれしてしまったけど、許容できる範囲だろう。フードを被れば顔を隠すことができる。
「これで大丈夫……かな?」
冴香が訊くと、シーナが無表情のまま、親指を立てた。
「本当に大丈夫か? クロノは、フードの下が別人だって気がつかないか?」
ネモフィラが心配そうに言う。
ホムラが腕を組んだ。
「大丈夫だと思う。クロノは、崩れた結晶の妖精に興味がない。シーナのことも、しっかりと認識していないはずだ。顔を上げるような仕草をしなければ、騙せるはず」
その言葉を肯定するように、シーナもうんうんと頷いた。冴香の中で、クロノという妖精の印象がどんどん悪くなっていく。
どうしてそいつが、他の妖精を統率する立場にいるの?
ホムラが、かまくらの中にいるみんなの顔を順番に見つめた。
ネモフィラを見て、シーナを見て、冴香のところで長い時間、視線を止める。そして、
「氷の世界樹へ行こう」
力強く言った。
「よっしゃ! 行きましょう!」と元気よく飛び出しかけたネモフィラの肩を、ホムラは「待て待て!」と焦りながらつかまえた。
「いきなり世界樹へと向かう前に、中の構造を知っておくべきだ」
というわけで、ホムラが詳しく説明してくれた。
冴香はもちろん知らなかったけど、ネモフィラもあまり覚えていないようだった。よくそんな状態で飛び出そうとしたな。
これでやっと準備が整った。
さて――とホムラが一呼吸の間を置いて、
「作戦開始だ」
シーナは、壁際のソファにとことこと歩いていき、そこにぽすんと座った。お留守番をするらしい。素顔を晒しているシーナがついてきてしまえば、冴香がコートを借りている意味がなくなってしまうからだ。緩く手を振ってきたので、
「ありがとう、行ってくる! 私のリュックをお願いね!」
と、冴香も手を振り返した。
かまくらの入り口を開けて、まずはネモフィラが外に出た。誰かいないか、辺りを見回す。しばらくしてから振り返って、「大丈夫だ」と頷いた。
続いてホムラが外に出る。冴香も後に続いた。
手袋はしているけれど、マフラーを巻くことはできなかった。首元が少し寒くて、シーナから借りているコートの前をぎゅっと握ってかき抱く。妖精用コートだからなのか、寒さを軽減する役割は持っていない。冴香が元から着ていたコートだけでなんとか我慢できたけど、やっぱり長々といるような世界じゃないのだろう。
息を吐くと、白く色づいた。
そういえば妖精たちの息に色はない。こういった些細なところも気をつける必要があると冴香は思った。
少し遠くにある、氷の世界樹を眺める。
あそこには、人間を嫌っている十二花結晶――クロノがいる。その部下の妖精たちがいる。螺旋階段を下れば六花の遺体がある。上れば六花の使っていた部屋がある――とりあえずそこに向かう必要がある。
ホムラとネモフィラが、あたりを警戒しながら進む。
白いコートを着た三人が、他の妖精たちの目を忍んで、雪原を駆ける。冴香は、二人のように速く雪の上を走ることはできない。だからホムラに肩を貸してもらって移動した。
初めて出会ったときは、冴香が肩を貸していたのに、今は逆だ。それが少し面白くて、冴香はふふふっと笑った。
ホムラが不思議そうな目で、冴香を見た。
「どうした?」
「ううん。なんでもないよ」
顔が近いけれど、あまり緊張しない。
たったの数時間しか経っていないのに、ずいぶん昔のことのように感じられる。それだけ、経験したことの密度が濃いのかもしれない。
ときどき他の妖精とすれ違った。でも遠目から見てくるだけで、特に接触はなかった。
氷の世界樹に近づけば近づくほど、その大きさに圧倒される。
「うわあ」
冴香は思わず、声を漏らしてしまった。
――キレイだ。
かまくらを貫く太い幹に、天井を支えているように広がる枝。力強く盛り上がる木の根。青く青く輝いていて、氷でできているのに生命力が満ち溢れているみたい。
この樹の下にいれば、何も心配はいらない――そんな気分になる。
妖精たちにとって、六花がどんな存在だったのか、少しだけわかった。
いなくなってしまった後、どれだけ悲しかったのかは想像すらできない。
「さあ、ここからだ」
ホムラが気を引き締めなおすように言った。




