夢
冴香は夢を見ていた。
なぜか、これは夢だと最初からわかっていた。
氷の世界樹の前に、一人の女性が立っている。
近づくにつれ、その人の輪郭がはっきりとし、細部まで認識できるようになっていった。見覚えのある人だった。また会いたいと夢にまで見た人だった。そしてこれは夢なんだと思い出し、それでもいいやと冴香は開き直った。
「……おねえちゃん」
立っていたのは六花だった。
長い黒髪に、ちょっと丸い頬。目じりの下がった瞳は優しそうだけど、全身からは鋭い雰囲気が刺すように飛び出ている。固いような柔らかいような、あの不思議な雰囲気は健在だ。そして冴香の記憶の中の彼女よりも、少し年を取っているように見える。
六花がふわりと笑った。
「久しぶりだね、冴香ちゃん。大きくなったねえ」
その声が引き金となり、六花との思い出が胸中に溢れ出た。時間を飛び越え、五歳のころの自分に一瞬で戻ったみたいだ。走って近づき、その勢いのまま六花に抱き着いた。冴香はもう五歳児じゃなかったけど、それでも六花は力いっぱい抱きとめてくれた。
「おねえちゃんおねえちゃんおねえちゃん! おねえちゃん! どこに行っていたの? どうしていなくなっちゃったの?」
「ごめんねえ」
六花が、冴香の背中を優しくさすってくれた。
かつて、冴香の母が六花にしたことだった。そのぬくもりが巡り巡って、冴香のところに辿りついたのだ。
誰かに背中をさすってもらったのは久しぶりだった。六花の腕の中に顔をうずめて、彼女のぬくもりと匂いを、せいいっぱい自分の中に取り込もうとした。
ああ、お日さまみたいな匂いがする。
かつての六花が、母の腕の中で涙した理由がわかった。
「この世界に漂う私の思念が、冴香ちゃんを呼んじゃったみたい」
「え? 思念? 呼んだ?」
「ここではっきりと説明してもいいんだけど……どうしよう。起きたら忘れちゃう可能性もあるしなぁ」
「おねえちゃんとせっかく会えたのに、忘れちゃうの?」
「夢だからね」
困ったように六花が言う。物わかりの悪い子どもに言い聞かせているようだ。
「それよりも、冴香ちゃんのことを教えて? 今はどう? 幸せ?」
うん、幸せだよ、と即答できない自分が悲しかった。六花と離れてから六年も経っている。あれからいろいろあった。本当にいろいろなことがあったのだ。
「……幸せじゃない」
「いったいどうしたの? おねえちゃんに言ってごらん?」
冴香は、六花の服をぎゅうっとつかんだ。一呼吸の間を置いてから、自分の中に溜まっている言葉を吐き出した。
父と母の仲が徐々に悪くなっていった。そこには明確な理由がなさそうだった。だから誰にも対処できなかった。性格の不一致、あるいは価値観の違い。言葉にしてしまえばそういうことらしい。些細なズレは年月とともに降り積もり、ちょっとしたきっかけで雪崩を起こすようにして家族を崩壊させた。冴香は、幸せなころの家族を取り戻したかった。もう一度笑って、四人で食卓に着きたかった。
「え? 四人?」
「おねえちゃんのいたころが、私の人生で一番楽しい時期だったんだ」
「……そっか。そうなんだ。ごめんね」
「どうして謝るの?」
「私はもう、そっちに戻れないから」
「そっち?」
冴香が訊くも、六花は困ったように微笑むだけだった。仕方がないから、冴香はもう一度、ぎゅーっと抱き着いた。
六花は今この瞬間、確かにここにいる。ぬくもりがある。
「冴香ちゃんは、私のようにならないでほしいな」
「私のようにって?」
「どこまでも逃げて、どん詰まりで立ち行かなくなって、自分を傷つけるしかなくなっちゃうの。そんな風にはなってほしくない」
六花はそんな人生を送っていたの?
あの町にいたのも、何かから逃げていた途中だったのかもしれない。
今なら、そんな六花の気持ちがわかる。わかってしまう。
「私には居場所がないよ。お父さんとお母さんのところには戻れない」
冴香が言うと、六花は厳しい口調で、
「それでも戻るしかない。雪と氷の世界にいてはダメ」
「どうやって戻ればいいの? 帰り道はないんだよ?」
ホムラをやり込めたときの言葉を、六花にも使った。
「私の遺体を覆っている氷を溶かして」
六花の返答は想像を超えていた。
何かがおかしい気がする。これはもしかしたら、ただの夢じゃないのかもしれない。
「遺体? 待って。ねえ! おねえちゃん! 遺体って何!?」
「私の部屋を探して。真実を見つけて。そして、氷を溶かして」
「質問に答えてよ! ねえ!」
言葉の端端から、嫌なイメージが染み出ている。
冴香の脳内で、これまでのすべてが繋がっていく。
「どうして青野家の裏庭に不思議なかまくらがあったのか」「六年前のクリスマス・イブの思い出を共有している誰かの仕業?」「この世界を創り、この世界を閉じた人は、もういないんだ」「もう、いない?」「……亡くなったから」「冴香が迷い込んだ理由はなんなのか」「この世界に漂う私の思念が、冴香ちゃんを呼んじゃったみたい」「私はもう、そっちに戻れないから」
嫌だ。この先の可能性を考えたくない。
おねえちゃんはもうすでに――、
「私の魔力を、少し分けてあげる。さあ、目を覚まして」
「待って。待ってよ! おねえちゃん!」
「できればここの会話を忘れないで。冴香ちゃんは」
――幸せになって
六花に向かって右手を伸ばしたところで、まばゆい光があたりを包み込んだ。伸ばした右手をガシッとつかまれる。握っていたのは、見知らぬ妖精だった。




