第66話 「木板と姉妹」
壁が足りなくなった。
恩義契約ギルドの業務が軌道に乗るにつれて、居間の木板が増え続けていた依頼管理ボード、収支表、フォーメーション図、買い出しリスト、各地の支部連絡先一覧、転職支援プログラムの進捗表、ゼノの研究スケジュール、ヒノの魔核測定記録、テイマーギルドとの統合準備会議の議事録控え。
壁三面が全部埋まった。四面目は窓だ。窓を潰すわけにはいかない。
「ハルさん、そろそろ木板じゃなくて書架にしませんか」
リノが朝の業務開始と同時に提案してきた。手に設計図らしき紙を持っている。いつの間に描いたのか。
「木板がいいんだ。一覧性が高い」
「一覧性が高くても壁が足りません」
「増築する」
「えっ」
リノが固まった。ペンが止まった。
「増築って、建物をですか」
「庭の東側に余地がある。厩舎跡の隣に事務棟を一棟建てれば、木板を二十枚は追加できる」
「それは増築ではなく新築です」
「名称はどうでもいい。壁が増えればいい」
「予算は」
「キサ」
キサが帳簿を開いた。いつの間にか居間にいた。
「事務棟の建設費は概算で金貨八枚。統合前の現積立金から捻出可能ですわ。ただし木板二十枚の追加購入費を含めると金貨九枚。年度予算の修正が必要になります」
「修正しろ」
「もう修正済みですわ」
三手先を読む狐。帳簿にはすでに「事務棟建設費(暫定)」の項目が入っていた。日付は昨日。壁が足りなくなることを、キサは俺より先に予測していた。
「……いつ気づいた」
「三日前に壁の空きスペースを測りましたの。残り面積が新規書類の増加ペースに対して四日分しかありませんでしたわ」
「四日分って、今日が四日目か」
「ええ。ですからリノさんにも今朝お伝えしておきましたの」
リノが苦笑した。
「それで設計図を描いてきたんです。キサさんに言われて」
段取りの鬼が三人いると、段取りが段取りを追い越す。俺の判断を待たずに、二人がもう動いていた。嬉しいような、居場所がないような。
*
増築の話を聞きつけて、全員が集まってきた。
「ギンも手伝う! 釘打つ!」
「お前は釘を九本曲げた前科がある」
「あれは昔の話! 今のギンは違う!」
「先週、ヒノの小屋の修繕で釘を三本曲げただろ」
「……あれは釘が細かったの」
「草刈りに回れ」
「またー!」
ギンが不満そうに耳を伏せたが、すぐに尻尾を振り始めた。何でもいいから手伝いたいのだ。増築という大事に参加できること自体が嬉しいらしい。
アカが腕を組んで庭を見渡した。
「妾のブレスで整地してやろう。岩を溶かせば平らになるぞ」
「庭が溶岩原になる」
「ならぬ! 制御は完璧じゃ!」
「シーツを焦がした件は」
「あれは——あれは振り向いた拍子に——」
「却下」
「むぅ!」
角の根元が赤くなった。悔しいのだ。力が余っているのに使い道がない。
クロが屋根裏の窓から顔を出した。
「事務棟に屋根裏つけてよ。あたし用の」
「お前の屋根裏は今ので十分だろ」
「二つあったら交互に使えるでしょ。猫は気分で寝床を変えるの」
「予算に屋根裏の増設費は入ってない」
「キサさん」
「追加しておきますわ。銀貨三枚で足りますわね」
「勝手に追加するな」
「クロさんの快適性はパーティーの索敵精度に直結しますわ。経費として正当ですの」
論理が通っているから反論できない。狐と猫が組むと手に負えない。
*
昼前に、シロが来た。
最近は平日でも拠点に顔を出すようになっていた。ギルドの保護室から拠点まで、一人で歩いてくる。以前は俺かキサが迎えに行っていたが、先週からは一人で来られるようになった。白い髪を風になびかせて、門をくぐる姿が日常の一部になりつつある。
キサが帳簿を閉じて立ち上がった。門の方に歩いていく。迎えに行くのではない。もう迎えは必要ない。ただ、姉が来ると分かると体が動く。三十年間会えなかった分の引力が、まだ残っている。
「姉さま、お茶をお持ちしますわ」
「ありがとう。今日はいいお天気ね」
シロが庭を見渡した。金色の瞳は安定していた。焦点が揺れることはもうほとんどない。テイム紋が消え、ツルの風の浄化が残滓を洗い流し、魔核が本来の出力を取り戻しつつある。
縁側に並んで座った。キサが茶を二つ持ってきて、一つをシロに渡し、もう一つを自分で持って隣に座る。白い髪と黒い髪が並んでいる。九尾の姉妹。
「キサ、あなた最近太った?」
「太っておりません」
「顎の辺りが少し丸くなった気がするけど」
「ツルさまの料理が美味しいのです。太ったのではなく、栄養が行き渡っているだけですわ」
「それを太ったと言うのよ」
「……姉さまも人のことは言えないと思いますわ。先週より頬の色が良くなっていらっしゃいます」
「それは太ったとは言わないでしょう。回復よ」
「回復と栄養摂取は同義ですわ」
姉妹の会話だった。三十年の空白があったはずなのに、やり取りの間合いが自然だ。幼い頃に刻まれたリズムが、体に残っているのだろう。
シロが茶を啜った。
「ここのお茶、おいしいわね。ツルさんが淹れてくれるの?」
「はい。ツルさまのお茶は格別ですわ」
「あなたは淹れないの?」
「わたくしの担当は帳簿ですの。台所はツルさまの聖域です」
「聖域」
「入ると追い出されます」
「ふふ」
シロが笑った。声を出して笑った。テイムが解けた直後は、口元が微かに動く程度だった。保護室で「しあわせ?」と聞いた時は、短い言葉がやっとだった。今は声を出して笑える。
キサの一尾が揺れていた。穏やかな揺れ方。隠していない。姉の前では九尾を出しても構わないのだが、普段は一尾で過ごしている。姉の前でだけ、もう一本増える。二尾。甘えている証拠だ。
「キサ。尾が二本出てるわよ」
「……失礼しました」
「いいのよ。昔もそうだったでしょう。わたしの前だと尾が一本多くなる」
「覚えていらっしゃるのですね」
「少しずつ思い出すの。昨日は泉の水の冷たさを思い出した。一昨日は木の実の味を思い出した。今日はあなたの尾の癖を思い出した」
キサが茶碗を両手で包んだ。目を伏せている。泣いてはいない。もう泣く段階は過ぎた。代わりに、静かな充足が金色の瞳に浮かんでいる。
「姉さま。明日も来てくださいますか」
「毎日来るわよ。お茶がおいしいもの」
「お茶だけですか」
「あなたに会いたいからよ。言わせないで」
キサの二尾目が大きく揺れた。制御が緩んだのではない。嬉しいのだ。言わせたかったのだ。策士の計算通り。だが計算の結果が嬉しいのは、計算の外の感情だ。
*
午後。ゼノが書庫から出てきた。手にヒノの魔核測定の記録用紙を持っている。
「定期測定の結果だが」
ゼノが記録を見せた。数値が並んでいる。魔核の出力、密度、安定度。先月の数値と今月の数値が横に並んで比較されている。
「魔核の出力が六割まで回復した。先月は四割だったから、五割増しだ。テイム残滓もかなり薄くなっている。瘴気が消えたことで外部からの干渉がなくなり、回復が加速している」
「人型化は」
「可能性が出てきた。魔核の出力が七割を超えれば、人型の維持に必要なエネルギーを賄える。このペースなら二、三ヶ月後だろう」
庭を見た。ヒノがギンと並んで歩いている。いつもの散歩。ギンがヒノのペースに合わせて、ゆっくりと。一歩に三秒だったヒノの歩幅が、今は二秒になっている。少しずつ、確実に。
「ヒノは焦ってないな」
「焦る必要がないからだろう。隣に歩いてくれる者がいる」
ゼノの言葉は、学者の分析ではなかった。ただの感想だった。
*
夕方。エルドスがギルド本部に俺を呼んだ。
支部長室。いつもの椅子。いつもの机。書類の山。だが今日は机の上が少し片付いていた。左の処理済みの山が減って、右の未着手の山がない。
「ハル君。座りなさい」
座った。エルドスの鷲の目が穏やかだった。いつもの鋭さが消えたわけではない。鋭さの上に、柔らかいものが乗っている。
「瘴気が消えて、冒険者ギルドの役割も変わる。討伐から復興へ。それに合わせて組織も変わらなければならない」
「はい」
「私は七十二だ。この仕事を始めて二十年以上になる。瘴気のある世界しか知らない支部長が、瘴気のない世界を率いるのは無理がある」
エルドスが窓の外を見た。エルデの街並み。屋根の向こうに澄んだ空が広がっている。
「引退する。次の支部長にはリノを推薦するつもりだ」
「リノさんを」
「規約を誰より知っている。実務能力がある。前例のない書類を楽しんで書ける。何より、お前との連携実績がある。恩義契約ギルドと冒険者ギルドの架け橋になれる人材は、彼女しかいない」
リノが支部長になる。事務局長との兼任は無理だから、恩義契約ギルドの事務は別の人材を育てる必要がある。段取りが増える。木板がまた足りなくなる。
「エルドスさん」
「何だ」
「ありがとうございました。最初の審議で上申を通してくれた。あの時エルドスさんがいなかったら、恩義契約は制度にならなかった」
エルドスが微かに笑った。鷲の目が細くなった。
「数字を見せてくれたのは君だ。私は数字を信じただけだ」
それだけ言って、エルドスは机の引き出しから小さな箱を取り出した。中に万年筆が一本。使い込まれた金のペン。
「二十年間、決裁に使ってきたペンだ。君にやろう」
「いいんですか」
「木板に書くのは炭筆だろうが、書類にサインする時はこれを使え。支部長のペンで署名された書類は、どこに出しても通る」
受け取った。ずしりと重い。二十年分の決裁の重さだ。
*
拠点に帰ると、居間が騒がしかった。
「ぬしさまの右は永久にギンのもの!」
ギンが椅子の上に立って宣言していた。恩刻が消えて自由意志で好きだと確定してから、ギンの独占欲が一段上がっている。遠慮がなくなった。
「左はあたし」
クロがいつもの席で腕を組んで即答した。窓枠ではなく椅子だ。最近は食事以外の時間も椅子に座っていることが増えた。俺の隣の椅子に。
「てっぺんは妾じゃ」
アカが俺の肩に飛び乗った。いつの間にか背後に回っていた。角が首に当たる。痛い。
「後ろからお支えしますわね」
ツルが椅子の背もたれ越しに、俺の肩に手を置いた。左手。震えていない。完全に止まっている。
「正面はわたくしが」
キサが俺の正面の椅子に座った。帳簿を開いている。金色の目が帳簿越しにこちらを見ている。仮面ではない笑みが口元にある。
右にギン。左にクロ。上にアカ。後ろにツル。正面にキサ。
「仕事ができない」
本気で言った。木板に明日の予定を書こうとしているのに、腕が動かせない。右はギンに掴まれ、左はクロの裾掴みで引かれ、肩にはアカが乗り、背中にはツルの手があり、正面はキサが塞いでいる。
「仕事は明日でいいでしょ」
クロが言った。
「明日も同じことを言う気だろ」
「言うわよ。毎日言う」
「恩刻がなくなっても変わらないんだな、お前ら」
「変わらないよ。だってギンの好みだもん」
ギンが笑った。あの朝の言葉。法則じゃない。好みだ。
恩刻が消えた世界で、五人の激重感情は健在だった。むしろ悪化していた。法則のせいにできなくなった分、全部が自分の意志だと確定して、遠慮する理由がなくなったのだ。
前世より。異世界の方が。圧倒的に包囲されている。
悪くなかった。
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